第17話 「シエラの膝枕が一番落ち着くんだよ」
ジュウウゥゥッ——!
十分に熱された極厚の鉄フライパンに大ぶりの肉塊が置かれた瞬間、弾けるような快音とともに、濃厚な牛脂の甘い香りとガーリックの香ばしい蒸気が、キッチンからリビングいっぱいに立ち上った。
薄い煙の向こうで、リリアが白いエプロンドレスの袖をわずかにまくり、細身の真鍮トングを優雅に操っている。
強火で表面を一気に焼き固め、香ばしい焼き目を纏わせた後、火力を落として極上の肉汁を逃さぬようじっくりと熱を通していく。仕上げに刻んだフレッシュハーブと少量のブランデーが振りかけられると、パチパチと青い炎がフライパンを包み、芳醇な香気がリビングの空気を一変させた。
「お待たせいたしました〜。特製ガーリックハーブソースを添えた、A5ランク霜降りサーロインステーキでございます〜」
運ばれてきた大皿の上には、きつね色に香ばしく焼き上がった見事なステーキが鎮座していた。厚さは優に2センチを超えている。切り分けられた断面からは、澄んだ肉汁がとろりと滲み出し、中心部は完璧なロゼ色に輝いていた。
脇には、グリルされた彩り豊かなアスパラガス、人参のグラッセ、そしてマッシュポテトが美しく盛り付けられている。
ダイニングテーブルの傍らには、先ほど木箱から取り出した熟成赤ワインが、細身のデキャンタを経て大ぶりのクリスタルグラスに注がれていた。深く澄んだルビー色の液体が、リビングの柔らかな照明を反射して艶やかに揺れている。
「……すごい。お店で出てくる料理より綺麗だ……」
シュンはナイフとフォークを手に取り、ステーキの端に刃を当てた。
力を込める必要など全くなかった。自重で吸い込まれるように刃が沈み込み、肉の繊維がほろりと解けていく。切り口から溢れ出した肉汁が、皿の上の琥珀色のソースと溶け合って混ざり合う。
「いただきます」
一口大に切り分けた肉片を口へと運んだ。
舌の上に乗せた瞬間、香ばしい焼き目のカリッとした食感の直後に、上質な脂の濃厚な甘みと、凝縮された赤身の力強い旨味が爆発するように広がった。
噛み締めるたびに、溢れ出す肉汁が口内を満たしていく。体温だけでとろりと解けていき、舌の上から喉の奥へと滑らかに消えていった。
「……っ、う、美味すぎる……!」
思わず両手で口元を押さえ、シュンは大きく息を吐いた。
濃厚でありながら、後味には嫌なしつこさや脂っこさが一切残らない。すかさずグラスに手を伸ばし、熟成赤ワインを一口含む。
熟したベリーやカシスの華やかな香りと、樽熟成特有のバニラのような甘い芳香。そしてきめ細やかで柔らかなタンニンの渋みが、肉の脂の甘みと完璧な調和を奏で、口の中を至高の余韻で満たしてくれた。
「……美味しい。こんなに美味いステーキとワイン、生まれて初めて口にしたよ……」
公社にいた頃の食事が、ふと脳裏をかすめる。
連日の徹夜作業の中、油と煤で黒ずんだ軍手を外す暇すらなく、配電盤の前でパサパサの圧縮栄養バーを齧り、冷水で無理やり胃へ流し込んでいたあの過酷な日々。
フォークの上の、とろりと脂が光る肉片が、芳醇なソースの香りを纏って湯気を立てている。
「ふふ、シュン様のお口に合って良かったです〜」
向かいの席に座ったリリアが、菫色の瞳を細めて愛おしそうに微笑みかけた。
「街の皆様が、命の恩人であるシュン様のために選んでくださった最高のお肉ですからね〜。たくさん食べて、元気をつけてくださいね〜」
「うん、ありがとうリリア。本当に最高だよ」
ふと視線を横へ向けると、シエラが小さく一口大にカットしたステーキをフォークで上品に口に運び、無言で咀嚼していた。
「シエラ、どう? 美味しい?」
「……高効率な脂質およびアミノ酸の結合体です。主基板のエネルギー伝達効率を一時的に3.2%引き上げる効果が認められます」
「相変わらずツンツンしてるなぁ。素直に美味しいって言えばいいのに」
「必要栄養素の工学的評価を述べたまでです」
シエラは平然と言い放ちつつも、フォークを動かす速度をわずかに早め、添えられたマッシュポテトとともに二口目を綺麗に口へ運んでいた。
穏やかな食器の触れ合う音と、グラスの中で揺れるルビー色の残り香。
三人の食卓は、静かに、長く続いた。
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食後、ダイニングテーブルが綺麗に片付けられた後。
満腹感と心地よいアルコールの巡りによって、シュンはソファーの上で完全に脱力していた。
美味しいステーキとワインを満喫したとはいえ、やはり「読書中の照明を直しただけで、なぜこんな超高級肉が届いたのか」「外で一体何が起きているのか」という理解不能な事態への薄気味悪さは、心の隅に小さな棘のように残っている。
「ふぅ……」
情けなく息を吐き出しながら、シュンはソファーの端に座っていたシエラの太ももへと、頭を仰向けに乗せた。
黒い軍用ドレスのスリットから覗く、白磁のように滑らかで、ひんやりとした太ももの感触。
仰向けになったシュンは、下からシエラの整った横顔をじっと見上げた。
真下から見つめられたシエラは、眉をピクリとひそめ、琥珀色の瞳を見開いた。白い耳の先が、見る見るうちに桜色へと染まっていく。
「……シュン。真下から見上げるのをやめなさい。視覚センサーおよび顔面認識ルーチンに無駄な負荷がかかります」
「だって、シエラの膝枕が一番落ち着くんだよ……。ひんやりしてて、ワインで火照った頭にすごく気持ちいいし……」
「……まったく」
シエラは居心地悪そうに顔を背け、ジト目を向けながらも、冷たい指先をシュンの額へとそっと添えた。
「……冷却モード起動。制限時間は5分です。それ以上見つめるなら、頭部に微弱パルスを流して強制休眠させます」
「手厳しいなぁ……でも冷たくて最高……」
シュンが目を細めて蕩けていると、反対側からふわりと甘い香りが漂ってきた。
「ふふ〜、シュン様〜」
熟成赤ワインを少し嗜んでほんのり頬を染めたリリアが、ソファーの空いている側へと腰を下ろし、優しくシュンの体を抱き寄せるように密着してきた。
柔らかく温かな胸元と、石鹸の清潔な香り。
「街の神様、本日もお疲れ様でした〜。シュン様は本当に凄いですね〜」
「リリアぁ……だから僕は神様じゃないんだってばぁ……」
「いいえ、リリアにとっては、世界で一番優しくて立派な神様ですよ〜」
リリアはふんわりと微笑みながら、柔らかく温かい手のひらでシュンの髪を優しく梳くように撫でてくれた。
右の頬に、シエラの冷たい指先。左の肩に、リリアの柔らかな温もりと石鹸の香り。
正反対の温度に挟まれて、シュンはゆっくりと瞼を閉じた。
「……美味しいステーキも食べられて、ワインも飲めて、二人にこうやって甘やかしてもらえて……。外の世界で何が起きていようと、この部屋の中が一番平和だな」
シュンは穏やかに息を吐き、微睡みの中で呟いた。
「明日は朝から、あの本の続きを読もう」
「ふふ、明日の朝も、美味しい深煎り珈琲を淹れますね〜、シュン様」
リリアが愛おしそうに囁き、シエラが淡々と告げる。
「……当然の予定です。そのための環境制御とセキュリティですから。さあ、制限時間終了です。起き上がりなさい」
「えーっ、もうちょっとだけ……あと3分……!」
「却下。ナマケモノの延命要請は却下します」
呆れ顔のシエラと、くすくすと楽しそうに笑うリリア。
チラつきの完全に消え去った柔らかな読書灯の光の下、ソファーの上の騒がしくも温かな夜は、まだまだ終わりそうになかった。
最後までお読みいただきありがとうございました!
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次回も明日【18:00】に更新予定です!




