第18話 一番風呂の邪魔も許さない
分厚い防水扉を開けると、白く立ち上る湯気とともに、清々しい檜の香りがふわりと鼻腔をくすぐった。
天井の換気スリットからは緩やかな気流が循環しており、地下特有の重い湿気配はまるでない。大人が3人ほど足を伸ばせる広々とした石造りの浴槽には、地下水脈から汲み上げられて魔導ボイラーで温められた湯が、波紋一つ立てずに湛えられていた。
シュンは湯船の縁に腰掛け、手桶で掛け湯をしてから、静かに足を沈めた。
ふくらはぎから太もも、腰、そして肩へと、柔らかな湯の温もりがじんわりと肌を包み込んでいく。肩まで浸かった瞬間、首の後ろに溜まっていた強張りが、ほどけるように抜けていった。
「ふあぁぁ……」
自然と口から漏れた息が、石造りの天井に小さく反響する。
両腕を浴槽の縁に預け、目を閉じる。湯の底から微細な気泡が肌を撫で、檜の入浴剤の甘やかな木の香りが胸を満たす。社畜時代には立ったまま浴びる冷水シャワーが関の山だった。平日の昼下がりから、誰にも邪魔されずに湯船に浸かれる贅沢。それだけで、肩の奥の力みが完全に消え去っていくようだった。
だが——。
「…………?」
シュンは微かに眉を寄せ、鼻先を動かした。
檜の清らかな芳香の奥に、ほんのわずか、ツンとした刺激臭が混ざり込んでいた。腐敗した油と、泥水が淀んだような、下水の臭気。
耳を澄ますと、床の隅にある排水溝の奥から、不規則な音が届いてくる。
——ボコ……ボコボコッ……。
壁面に埋め込まれた真鍮製の水圧計を見ると、細い指針がゼロ点を挟んで小刻みに震えていた。
(……換気ダクトと排水口から、わずかに逆圧がかかってるな)
シュンは湯の中で目を開け、天井のスリットを見上げた。
(下流のどこかで本管が詰まって、行き場を失った空気がうちの排気ルートを押し戻してるのか。せっかくの一番風呂なのに、これじゃ落ち着かないな……。放っておくとトラップの水が吸い出されて、部屋まで臭気が上がってくるかもしれない)
湯気の向こうで、排水溝がもう一度、低く不快な音を立てた。
(……上がったら、排水ラインに洗浄パルスを一発通して詰まりを抜いておくか)
シュンは名残惜しそうに息を吐くと、湯船から上がって体を拭き始めた。
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大浴場を出てすぐの通路脇、壁面のメンテナンスパネルを開くと、真鍮と青銅で組まれた複雑なバルブと、太い鋳鉄製の排水本管が姿を現した。管の周囲には、シュンが退職直後に巻き直しておいた魔力励起コイルが、整然と並んでいる。
シュンは腰の工具入れから小型の魔導テスターを取り出し、コイルの端子へ接続した。
「周波数は32kHz、キャビテーション重畳。有機物分解の触媒パルスを乗せて……これでいいか」
ダイヤルを回し、ゼロ・ターミナルの排水バルブを全開にする。
指先を端子に触れさせ、微弱な魔力を流し込んだ。
キィィィン……と、耳の奥をくすぐるような高い周波数音がコイルから響く。
排水管の内部を流れる清浄水に超音波振動と魔力分解触媒が溶け込み、青白い淡い光を放ちながら、地下最下層の暗渠へと一気に奔流していった。
配管の内部に長年こびりついていた油脂スケールやヘドロが、パルス光に触れた端からシュワシュワと微細な気泡を立て、水と無害な炭酸ガス、そして微細な砂粒へと分子レベルで分解されていく。
ガガガッと鳴っていた配管の振動が、数秒と経たずにすうっと静まり返った。
水圧計の針が滑らかに安定位置へと戻るのを確認し、シュンはパネルを閉じた。
「よし、これでうちの換気差圧も正常に戻るはずだ」
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同じ頃、地上アンダー・スラッグの最下層。
ドブ川沿いの路地裏で、マンホールの蓋が小さく浮き上がっていた。隙間から黒い泡がボコボコと溢れ出し、腐敗した卵と泥の混じった臭気が、小雨に濡れた石畳を這うように広がっている。
老舗古物商の白髪の主人が、長靴の足元を黒い水に取られながら、地下倉庫の入口に土嚢を積み上げていた。先代から受け継いだ旧時代の精密部品が眠る保管庫の階段を、汚水がじわりと舐め始めている。
隣の調香工房の職人は、上層貴族から預かった香油の木箱を両腕で胸に抱え、無言で壁際に立っていた。
路地の奥では、泥水まみれの破れ作業着を着たギルバートが、重い鉄パイプを抱えて壁に手をついていた。
溢れ出た汚水が、地下倉庫の階段へ向かって流れ落ちようとした——その瞬間だった。
ドブ川の底から、ピキィィンと澄んだ音が響き渡った。
「……え?」
誰かが息を呑んだ。
マンホールの底、黒く濁った汚水の中で、青白い燐光が稲妻のように走った。
次の瞬間、ボコボコと異臭を放っていたヘドロが、まるで魔法のようにシュワシュワと白い泡へと変わっていった。排水口を塞いでいた巨大な油脂の塊が、触れるものすべてを洗い流す光の波によって一瞬で溶け崩れ、跡形もなく消え去っていく。
ゴボォッ……!
激しい吸引音とともに、路地に溢れかけていた汚水が一気に排水溝の奥へと吸い込まれていった。
そして——。
地下から湧き上がってきたのは、濁った泥水ではなかった。
川底の小石や砂粒の一つひとつまで透き通って見える、クリスタルガラスのように澄み切った清流だった。
鼻を突いていた強烈な腐敗臭は完全に消え失せ、雨上がりのミントのように爽やかで冷涼な風が、スラムの路地を吹き抜けていく。
「な……なんだ、これは……!?」
土嚢を抱えていた古物商の主人が、呆然と川面を見つめた。
川底をさらさらと流れる水は、手ですくえばそのまま飲めそうなほど清らかに澄んでいる。地下倉庫の階段前で汚水は完全に引き、貴重な保管庫には一滴の泥水も入っていなかった。
「倉庫が……宝が無事だ……! ドブ川が、湧き水みたいに澄み切っちまったぞ!?」
「配管の頑固な詰まりを一瞬で吹き飛ばして、水ごと浄化しちまうなんて……こんな芸当、普通の技師にできるわけがない……!」
調香工房の職人が、震える手で十字を切った。
「地下の神様だ……! 病院の大停電を救い、変電所の火災を止めてくださった、あの地下の神様が……今度はわしらの街を救ってくださったんだ……!」
「神様、ありがとうございます……!」
路地にいた住民や商人たちが、次々と川辺に跪き、澄んだ水面に手を合わせて涙を流し始めた。
「な……なんだ、これは……」
ギルバートは壁際で腰を抜かしたまま、透き通った水面を呆然と見つめていた。
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柔らかなラベンダーの香りが満ちるリビングに戻り、薄手の部屋着に着替えたシュンは、飴色の革張りソファーに深く腰掛けて足を伸ばした。
「シュン様〜、お風呂上がりの冷たいお飲み物ですよ〜」
キッチンから、リリアがトレイを手に軽やかな足取りで戻ってきた。
置かれたグラスには、昨晩からじっくり水出しされた深煎り珈琲と、丸い氷が浮かんでいる。カランと涼やかな音を立てるグラスを手に取り、一口含む。喉を滑り落ちていく冷たさと、舌に残るビターチョコレートのような甘い苦味が、風呂上がりの体に心地よく染み渡っていった。
「はぁ……生き返る。お風呂の匂いも綺麗に消えたし、完璧だな」
「大浴場および生活区画の気圧差、基準値へ復帰。配管ノイズは完全に消滅しています」
サーバーラックの前で計器を確認していたシエラが、クリップボードを置いて振り返った。銀髪のショートボブが揺れ、琥珀色の瞳がシュンを捉える。
「……それにしても、ただ自分の入浴環境を整えるためだけに、都市暗渠の主幹排水路へキャビテーション重畳パルスを放流するとは。相変わらず、怠惰のための工学的暴力に躊躇がありませんね」
「暴力だなんて人聞きの悪い。詰まってたゴミをちょっと分解して流しただけだよ。これでみんなの排水もスムーズになったんだから、三方良しじゃないか」
「あなたが流したパルスの影響範囲は、アンダー・スラッグ全域の排水幹線に及んでいます。地上の計測データによれば、下水路の水質が一時的に飲料水基準近くまで跳ね上がっているようですが」
「えっ、そこまで飛んだの? ちょっと出力を盛りすぎたかな……」
シュンが苦笑いした、その時だった。
ガシャコン……コトン!
サーバーラックと本棚の間に据え付けられた、旧軍用物資受取シュートのハッチが跳ね上がった。
ピピッという電子音とともに、自動セキュリティフィルターのランプが鮮やかな緑色に点灯する。
「……また来た」
シュンはグラスを置き、ソファーから立ち上がった。
「シエラ、危険物反応は?」
「全項目クリア。魔力トラップ、有害毒物、追跡ビーコン、すべて検出されず。安全です」
トレイを引き出すと、中には丁寧な真鍮の留め金がかけられた黒塗りの木箱と、小さな桐箱が収められていた。その上には、丁寧に折り畳まれた上質な羊皮紙の手紙が添えられている。
シュンは手紙を広げ、視線を走らせた。
『ドブ川の逆流から、わしらのジャンク街と地下倉庫の宝を守ってくださった、偉大なる機械と工学の神様へ。
配管の頑固な詰まりを一瞬で吹き飛ばし、悪臭に塗れた川を澄み切った清流へと変えてくださる神業、拝見いたしました。
あの凄まじい調律の技、貴方様が電気と機械、そして工学を愛する神様に違いありません。
泥水に沈むはずだった地下倉庫から無傷で守られた、先代から伝わる我が店一番の家宝と、調香工房が守り抜いた最高級の香油を、心からの感謝を込めて奉納いたします。どうかお納めください』
「…………」
読み終えたシュンは、眉間を押さえて小さく息を吐いた。
「……また『神様』宛てだ。しかも今度は『機械と工学の神様』だってさ……」
「前回の精肉組合に続き、今度はスラムの商人連合ですか」
シエラが隣に歩み寄り、手紙を一瞥して小さく肩をすくめた。
「お風呂の排水を掃除しただけの男が、地上では工学の守護神として崇められているわけですね。滑稽の極みです」
「僕だって好きで神様になってるわけじゃないよ……。でも、地下倉庫が浸水しかけてたのか。大事な品が無事だったならよかったけど……」
シュンは添えられていた黒塗りの木箱の留め金を外した。
蓋を開けると、中には深い紅色のビロード布が敷き詰められており、その中央に2本の真空管が鎮座していた。
「……っ!?」
シュンは思わず息を呑み、眼鏡の位置を直した。
透明度の極めて高い石英ガラスのバルブ。内部で完璧な幾何学模様を描く真鍮の格子プレートと、酸化を防ぐため金メッキが施された8本のピン端子。管の表面には、旧帝国陸軍の微細な刻印と、未開封を示す鉛の封緘がそのまま残されていた。
「これ……旧軍特務通信規格の双三極管、PX-25改の未開封デッドストックじゃないか……!?」
シュンの声が上擦った。
「製造されてから30年以上経ってるはずなのに、ゲッターの輝きが新品そのままだ……! 博物館に寄贈されてもおかしくないレベルの超希少品だよ。こんなの、今じゃ市場のどこを探しても手に入らないのに……」
指先を近づけると、ガラス越しにわずかな金属の冷たさと、完璧に保たれた真空の密度が伝わってくるようだった。泥水に浸かって端子が腐食していれば、二度と使い物にならなかったはずの逸品だ。
「……泥水に浸からなくて本当によかった。でも、こんな貴重なもの、僕がもらっちゃっていいのかな……」
「家宝を汚水から守ってもらった対価としては、妥当な取引でしょう」
シエラが冷静に告げる。
「スラムの古物商にしては、工学の神に対する捧げ物としてこれ以上ない選定眼です。そこらの無知な役員どもより、よほど物の価値を理解しているようですね」
「ふふ〜、本当に素敵な贈り物ですね〜!」
リリアがもう一つの桐箱を開け、ふわりと目を細めた。
「シュン様、こちらも見てくださいな〜。とってもいい香りがしますよ〜」
桐箱の中には、細工の施されたガラス瓶が収められていた。
透き通るような淡い琥珀色の液体。栓の隙間から、朝露に濡れた白薔薇と、絞りたての柑橘を合わせたような、上品で爽やかな香りが漂ってくる。
「上層貴族サロン向けの特注アロマ潤滑オイル……」
瓶のラベルを読んだシュンは、栓をわずかに緩めて香りを嗅いだ。
「……すごい浸透性だ。これ、関節の奥まで一発で回るぞ」
博物館級のヴィンテージ真空管と、最高峰のアロマオイル。
シュンはガラス瓶を光に透かしてから、ゆっくりとシエラの方へ視線を移した。
その目には、技術屋が最高の素材を手にしたときの、静かな笑みが浮かんでいた。
最後までお読みいただきありがとうございました!
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次回も明日【18:00】に更新予定です!




