第19話 「この……無自覚スケベ技師……!」、再び
リビングのローテーブルには透き通るような琥珀色のガラス瓶が置かれており、栓の隙間から、朝露に濡れた白薔薇と絞りたての柑橘を合わせたような上品な香りが微かに漂っていた。
「ふふ〜、本当に素敵な香りですね〜。シエラちゃんにぴったりですよ〜」
リリアが嬉しそうに微笑みながら視線を向けた瞬間、背後に控えていたシエラが、即座にすっと一歩後退った。
「……結構です」
シエラは冷ややかな視線を向け、警戒するようにわずかに目を細めた。
「私は軍用機です。通常の高粘度軍用グリスで十分に稼働します。そのような軟弱な貴族向けの香油など不要です」
「でもシエラ、前回のメンテから少し間が空いてるし、最近肘と膝のサーボの駆動音がわずかに高くなってただろ?」
「自己診断では許容誤差の範囲内です」
「誤差があるなら直すのが技師の仕事だよ。それに、このオイルなら熱伝導率も桁違いに高いから、冷却効率も上がるはずだ」
シュンは工具箱を引き寄せ、立ち上がると工作室の作業台を指差した。
「よし、今夜はまずアンプの真空管を換装して、そのあとシエラの関節をフルメンテナンスしよう」
「……善処ではなく、迅速な完了を要求します」
シエラは観念したように短くため息をつきつつも、耳の先をほんのりと赤く染めて作業台の前へと歩み寄った。
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工作室の作業台に並ぶ研ぎ澄まされた工具の刃先を、天井のスリット照明が静かに照らし出していた。
作業台の傍らには、先ほどスラムの古物商から届いた黒塗りの木箱が置かれている。ビロードの布に包まれた、旧軍特務規格の双三極管『PX-25改』——30年以上の時を経てなお完璧な真空を保っていた未開封のデッドストックだ。
「……よし、まずはオーディオの調律からだな」
シュンは愛用の小型ドライバーを手に取り、真空管オーディオアンプの背面パネルを慎重に外した。
既存の量産型真空管を取り外し、金メッキが施されたPX-25改の8本のピン端子をソケットへゆっくりと挿し込む。カチリと心地よい手応えとともに固定されると、シュンはテスターのプローブを当て、バイアス電圧の微調整ダイヤルを指先でミリ単位で回していった。
スイッチを入れると、石英ガラスのバルブ内部でフィラメントが橙色の温かな光を灯し始める。
スピーカーから流れてきたのは、チェロとピアノの無伴奏ソナタだった。
「…………!」
音が空気に乗った瞬間、シュンの手が止まった。
弦が弓と擦れ合う生々しい摩擦音。木製チェロの胴が震えるたびに、床板を通じて足の裏にまで低い振動が伝わってくる。まるで演奏者が部屋の隅に座っているかのように、音が空気ごと鳴っていた。
「……っ、いい音だ……」
シュンは目を閉じ、しばらく動かなかった。
「オーディオの自己満足に浸る前に、手を動かしてください」
作業台のそばに置かれた椅子に後ろ向きにまたがり、背もたれに両腕を載せたシエラが、ジト目で冷ややかに急かした。銀髪の毛先の下、耳の先がすでにわずかに色づいている。
「はいはい」
シュンは微笑みながら、黒い軍用ドレスの背面ファスナーに指をかけた。
ジッ……と滑らかな音を立ててスライダーが下がり、左右の肩甲骨の間に、白磁の滑らかな肌が露わになる。中央に嵌め込まれた耐魔合金のメンテナンスハッチのロックを外すと、カチリと精密な音がして、銀と真鍮の微細回路が姿を現した。
作業台のトレイには、調香工房が守り抜いた最高級のアロマ潤滑オイルが置かれている。
ガラス瓶の栓を開け、スポイトで透き通るような琥珀色の雫を一滴吸い上げた。
シエラの背筋の中央——主稼働軸のベアリングスリットへと落とす。
トスン、と。
肌に落ちた瞬間、朝露に濡れた白薔薇と絞りたての柑橘の甘く爽やかな香りが、体温に温められて作業台の周囲にふわりと広がった。
「……っ」
シエラの肩が、ぴくりと小さく跳ねた。
「冷たいか?」
「……冷たくは、ありません。ですが……浸透圧が……異常です」
シエラの声が、かすかに強張っていた。
シュンは指の腹を使い、オイルを主軸の隙間へと丁寧に塗り広げていった。
超高純度オイルの極微粒子が、金属の微細なクリアランスへ吸い込まれるように滑り込んでいく。同時に、シュンの指先から伝わる体温と微弱な魔力が、オイルの高い熱伝導率によって、シエラの中枢伝達系へダイレクトに伝播していった。
「……っ、あ……」
シエラの唇から、甘く掠れた吐息が零れ落ちた。
「シエラ? 痛むか?」
「ち、違います……っ! 指先でそんなに……隅々まで、撫で回すように塗り広げないでください……っ! 熱が……信号ラインの奥まで、直接響いて……っ」
白磁の背中が、みるみるうちに淡い桜色へと染まっていく。
華奢な肩甲骨が翼のようにキュッと持ち上がり、背筋が弓なりに反る。シュンの指先が可動軸をなぞるたびに、シエラの指先が椅子の背もたれを白くなるほど強く握りしめた。
「でも、ちゃんと油膜を作らないと摩耗の原因になるからね。次は肩と肘の関節スリットだ」
「待ちなさ——っ、あぁっ……!」
シュンが肩口の関節カバーをわずかにスライドさせ、駆動ギアの隙間にオイルを伸ばすと、シエラは背中をビクビクと震わせ、顔を腕の中に埋めた。
「……シュン、あなた……本当に……っ、無自覚スケベ技師……!」
「整備してるだけなのに酷い言われようだな。ほら、大腿部のサーボアクチュエータも少し動きが渋かったから——」
「そこは……っ! 触るなと……っ! 冷却モード……強制、起動……っ!」
プシューッと微かな冷媒音が響き、シエラの耳の先から湯気が出そうなほど真っ赤に染まる。
作業台の傍らでタオルを用意していたリリアが、楽しそうにふわりと微笑んだ。
「あらあら、シエラちゃん、とっても気持ちよさそうですね〜。お肌がつやつやですよ〜」
「リリア……っ、余計な……ログを記録しないでください……っ!」
震える声で抗議するシエラの背中で、シュンは最後の一滴を丁寧に拭き取り、メンテナンスハッチを静かに閉じた。
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リビングに戻ると、部屋の中はすっかり穏やかな夜の静けさに包まれていた。
真空管アンプからは、チェロとピアノの柔らかなソナタが豊かに響いている。
メンテナンスを終えたシエラは、ソファーの端で膝を抱え、そっぽを向いたまま冷たい掌を首筋に当てて熱を冷ましていた。耳の先には、まだ微かに赤みが残っている。
「シエラ、調子はどう?」
「…………」
シエラはしばらく無言でシュンをジト目で見つめた後、小さく息を吐いた。
「……駆動系の応答速度、関節の摩擦係数ともに、過去最高値を記録しています。……礼は言いませんが」
「うん、よかった。やっぱりあのオイル、本物だったな」
シュンは満足そうに頷き、リリアが淹れてくれた冷たいカモミールミントティーに口をつけた。
清浄な空気の中に、真空管アンプの温かな調べが静かに満ちている。
(……やっぱり、ここが一番落ち着くな)
ソファーの背もたれに頭を預け、シュンはサイドテーブルのモニターへ視線を向けた。
画面には、不労所得ボットの本日の収益が表示されている。
【本日確定収益:銀貨368枚(基準値達成)】
何もしなくても、一日で公社の平技師の月給を遥かに超える額が積み上がっていく。
「今日も完璧だな……ん?」
シュンはモニターの右隅に流れるシステムログに目を留めた。
ミリ秒単位で流れる通信パケットの端に、一瞬だけ赤い警告フラグが点滅していた。
『都市基幹ノード・中継パケット再送:遅延時間+0.01秒』
「……通信ボットの応答が、0.01秒だけ遅れてる……?」
シュンは眉をひそめ、指先でログをスクロールさせた。
公社の中継ノードを通過するトラフィックの波形に、ごく微かな——通常の定常監視ではノイズとして見落とされるような——不自然な負荷の乱れが残されていた。まるで誰かが、特定のパケットに対して詳細なパケットキャプチャを仕掛けたかのような痕跡。
「まあ、公社の中継局でパケットのフィルタリング負荷でも上がったのかな。明日起きたら、パケットの暗号化キーを更新して迂回ルートでも設定しておくか」
シュンは軽く伸びをし、モニターの電源をスタンバイモードへと落とした。
「リリア、シエラ。明日は目覚ましなしで、ゆっくり起きるよ」
「はい〜、シュン様。明日の朝も美味しい朝食をご用意しておきますね〜」
「了解です。室温22度、湿度45%で夜間維持します。……おやすみなさい、シュン」
リビングの柔らかな照明がゆっくりと光度を落とし、真空管の温かなオレンジ色の灯りだけが、男の城を静かに照らし出していた。
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