第20話 元社畜の怠惰な欲求、強火な後輩の愛に火をつけてしまう
天井のスリットから降り注ぐ柔らかな疑似朝光が、リビングの飴色のフローリングを穏やかに照らし出していた。
部屋の中には、リリアが淹れてくれた朝のハーブティー——レモングラスとスペアミントの爽やかな香りがふわりと満ちている。
キッチンから響く陶器の触れ合う軽やかな音に混ざって、サーバーラックの前からは、かすかな衣擦れの音だけが届いていた。昨晩、最高級のアロマ潤滑オイルで全身の駆動軸をオーバーホールされたシエラの関節は、以前の微小なサーボ音すら完全に消え去り、恐ろしいほど滑らかに無音で動いている。
「シュン様〜、朝のハーブティーが入りましたよ〜」
エプロン姿のリリアが、湯気の立つカップをサイドテーブルへ静かに置いた。
「ありがとう、リリア」
シュンは革張りソファーに浅く腰掛け、カップを手に取って温かい蒸気を吸い込んだ。
目覚まし時計のけたたましい金属音に叩き起こされることもなく、誰からの緊急呼び出しに怯えることもない。たっぷり眠って自然に目が覚め、淹れたての茶を口に含む。喉を通る温もりと清涼感に、体の奥底に残っていた微かな眠気が心地よくほどけていく。
(……今日も平和だな)
ソファーの背もたれに体を預け、シュンはサイドテーブルのモニターへ視線を向けた。
画面には、都市商品取引所と証券市場のデータをリアルタイムで処理している不労所得ボットの監視ログが、緑色の文字列となって静かに流れている。
昨晩の確定収益は銀貨368枚。何もしなくても、一日で公社の平技師の月給を遥かに超える額が安全に口座へと積み上がっていく。
「ん……?」
カップをソーサーに戻したシュンの視線が、モニターの右下で小さく点滅する数値に留まった。
都市商品取引所における、魔導鉱石先物と変圧器用コイル銅のアービトラージ約定ログ。その応答速度を示すインジケーターに、不自然な遅延スパイクが記録されていた。
『パケット応答遅延:+0.05秒(50ミリ秒)』
「……ボットの約定が、0.05秒も遅れてる?」
シュンは眉をひそめ、コンソールを引き寄せて指先を走らせた。
ミリ秒単位の価格差を自動で拾い上げるスキャルピング取引において、0.05秒の遅延は致命的だ。本来なら確実に利益を確定できたはずの取引が、通信詰まりのせいで3件ほど滑り、わずかだが確定収益に取りこぼしが発生していた。
「せっかくの朝なのに……! 僕の不労所得を減らす気か!? 誰だ、基幹通信網で変なルーティングを組んでパケットを渋滞させてるのは……!」
「朝一番から、ナマケモノ特有の金銭的執着による血圧上昇を確認」
サーバーラックの計器をチェックしていたシエラが、クリップボードを抱えたまま冷ややかに視線を向けてきた。
「不労所得で怠惰を極めているくせに、わずか0.05秒の遅れすら許せないとは。相変わらず器の小さい男ですね」
「狭量じゃないよ、これは僕の生存基盤に関わる大問題だ! 不労所得のミリ秒遅延は、僕の安眠を脅かす重大インシデントなんだから!」
シュンは端末のキーボードを軽快に叩き、ゼロ・ターミナルの暗号化回線から都市基幹通信網の第4中継交換局へとアクセスした。
中継ノードのパケット流量グラフを開くと、公社の第3調律室が管理する主幹ルーティングスクリプトのところで、処理待ちのパケットが巨大な塊となって滞留していた。
「……なるほど。昨日の夜から公社の若手たちが、トラフィック分散用の新しいルーティングスクリプトを走らせてたのか」
画面に展開されたコードを一瞥した瞬間、シュンは思わず深くため息をついた。
「……脱出条件の甘いループ処理に、魔力信号の位相補正が全く考慮されていない変数宣言。これじゃノードのバッファメモリが溢れて、後続の通信機器が熱暴走を起こす寸前じゃないか。こんな杜撰なスクリプト、僕のボットの邪魔だ」
シュンは指先をキーボードの上に構えた。
「魔力波の位相差を先読みしてインデックスを再定義……過熱を防ぐために3段の多重ループ構造に組み換えて、後続ノードのバッファを逃がすために0.01秒の親切なディレイ処理を挟む……よし、こうだ!」
乾いた打鍵音がパパパッと室内に響き、エンターキーが小気味よく叩き込まれた。
ゼロ・ターミナルから放流された最適化スクリプトが、公社第4中継局の未完成なコードを一瞬で上書き・再構築していく。
画面上の遅延インジケーターが、鋸歯状の乱高下から一転して完全なフラットラインへと収束した。
『パケット応答遅延:0.00ミリ秒(超高速同期完了)』
「よし、これでうちのボットの約定速度も元通りだ」
シュンは満足そうに背筋を伸ばし、冷めかけたハーブティーを再び口に含んだ。
「邪魔なノイズも消えたし、朝ご飯の前に本でも読もうかな」
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地上・帝国魔電公社の中央棟、第3調律室の空気は、徹夜明け特有の重苦しい湿気と焦げた基板の刺激臭に満ちていた。
けたたましい高周波アラートが、部屋中のスピーカーから絶え間なく鳴り響いている。
ギルバートが失脚した後に暫定で現場を仕切っている新任の主任が、額の脂汗を袖で拭いながら端末を睨んでいた。
第4中継局のバッファ使用率を示すバーグラフが、画面の右端に張り付いたまま微動だにしない。隣の端末では、過熱警告のアイコンが無音で点滅し続けている。
「……スクリプトのループを修正しろ。あと3分だ」
主任の声は、怒鳴るには疲れすぎていた。
若手技師たちがキーボードを叩く乾いた音だけが、調律室に響いている。
その混乱の喧騒の中、部屋の隅のデスクに突っ伏して浅い仮眠を取っていた後輩女性技師——ミレイが、ゆっくりと身を起こした。
着崩した白衣の下、作業着のジッパーを鎖骨の下まで下げた薄手のインナー姿。乱れた黒髪の間から覗く翡翠色の瞳は、連日のトラブル対応による疲労で赤く充血していた。
「……うるさいですね。朝からギャーギャー騒いだって、バッファは空きませんよ」
気だるげに首を回し、骨を小さく鳴らした——まさにその瞬間だった。
ピタリ……と。
フロア中に響き渡っていたアラート音が、嘘のように一斉に沈黙した。
「……え?」
誰かが間抜けな声を漏らした。
調律室の正面に掲げられた巨大な魔導オシロスコープのモニター。赤く染まっていたエラー警告が、雪崩を打つように鮮やかな青色へと塗り替わっていく。
全帯域の通信スループットが、公社の観測史上最高値を記録して完全に安定していた。
「な、なんだ……!? 通信エラーが全部消えたぞ!?」
「スループットが跳ね上がって、遅延がゼロになりました! スクリプトが……勝手に書き換わっています!」
「書き換わった……!?」
ミレイはデスクを蹴るようにして立ち上がり、中央端末のモニターへと駆け寄った。
押し寄せた若手技師たちを肘で押し退け、画面に顔が触れそうなほど近づいて、スクロールするコードの文字列を凝視する。
——魔力波の位相差を先読みした、無駄のない精密な変数定義。
——後続機器の過熱を完璧に回避する、美しい3段ネストの多重ループ構造。
——そして、次の中継ノードがパケットを処理し終えるタイミングを完璧に計算し尽くした、10ミリ秒——わずか0.01秒の、あまりにも親切なディレイ処理。
「…………っ!」
ミレイの息が、喉の奥で止まった。
翡翠色の瞳がカッと見開かれ、獲物を見定めた肉食獣のように爛々と怪しい光を宿す。
白磁の頬が一気に朱色へと染まり、作業着の胸元を両手で強く握りしめた。
「この……0.01秒……っ」
ミレイの唇が、かすかに震えた。
震える指先を画面へ伸ばし、ガラス越しにコードの文字列を、まるで愛しい人の肌をなぞるかのように、そっと撫でた。
「……先輩……」
「えっ、先輩って……?」
隣の若手技師の声は、ミレイの耳に届いていなかった。
恍惚とした笑みを浮かべ、頬を染めて胸を上下させるミレイの姿に、隣にいた若手男性技師たちが引き攣った顔で後ずさった。
「ミ、ミレイさん……? 顔が怖いです……」
「目が完全にヤバい人のそれになってますよ……」
その時、我に返った新任主任が怒鳴り声を上げた。
「何者かが公社の中継システムに不正侵入したぞ! 外部からの遠隔書き換えだ! おいミレイ、すぐにパケットの送信元ログを逆探知しろ! 侵入元のIPアドレスを特定して首謀者を割り出すんだ!」
その瞬間。
ミレイの顔から恍惚の色が消え去り、氷点下の冷徹な無表情へと一変した。
「了解しました」
カチャカチャッ、タターン!
ミレイの指先が、わずか0.5秒の超絶技巧でキーボードを叩き切った。
モニターの端で、中継ノードの一時アクセスログが、揮発性メモリのデータごと綺麗さっぱり消去される。
「主任、報告します。外部からの接続パケットは、書き換え完了と同時に自己消滅プログラムによって完全破棄されました。揮発性キャッシュも初期化されたため、送信元の追跡は技術的に不可能です」
「な、なんだと!? ログが消えたのか!?」
「はい。追跡不能です」
ミレイは淡々と告げ、冷ややかに背を向けた。
(……ふふ。シュン先輩がどこから通信してくれたかなんて、公社の上層部は当然として、他の誰にも教えるわけないじゃないですか)
胸の奥で、ドロリとした甘く熱い独占欲が渦を巻く。
(先輩が残してくれたこの足跡は……先輩と私だけの、秘密の繋がりなんですから……っ)
ミレイは足早に調律室を出ると、ロッカールームへと向かった。
自分の個人ロッカーを開ける。
そこには、公社の倉庫から個人的に確保しておいた『公社開発部特注の超高純度絶縁セラミック材』の木箱と、シュンが退職前に愛飲していたのと同じ『公社購買部限定プレミアム深煎り珈琲豆』の深緑色のパッケージが、大切に保管されていた。
ミレイは珈琲豆の袋を胸に抱きしめ、うっとりと頬ずりをした後、引き出しから取り出した桃色の便箋に、びっしりと情熱的な文字を走らせた。
「地下の神様……どうか、このお供え物をシュン先輩へ届けてください……!」
ミレイは荷物を大切に抱え、胸を高鳴らせながら弾むような足取りでスラムの物資投入口へと歩き出した。
最後までお読みいただきありがとうございました!
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次回も明日【18:00】に更新予定です!




