第8話 元上司が絶叫する朝
ニュー・ブラッドフォード、第12ブロック変電施設。
未明の闇の中で、それは始まった。
変圧器の鉄芯が上げていた低い唸りが、深夜2時を回った頃から質を変えた。ヴヴヴ……という腹の底に響く重い共振が、ガガガッ、という金属的な打撃音を伴い始めたのだ。冷却フィンの隙間から焼けた絶縁油の刺激臭が噴き出し、油温計の赤い針は危険域の刻印をとうに突き抜けていた。
保護回路がトリップした。
一瞬の静寂——そして、第12ブロック商業地区のアーク灯が、一斉に消えた。
石畳の街路が、月明かりだけの暗闇に沈む。酒場の看板灯が消え、路地裏のガス灯風の街灯が消え、角の時計塔の文字盤が闇に溶けた。数秒の間を置いて、第11ブロック方面の灯りが一列ずつ波打つように暗転していく。逆流した異常電圧が隣接ブロックの保護回路を次々とトリップさせ、闇が波紋のように広がっていた。
歓楽街の酒場から千鳥足で出てきた男が、急に暗くなった街路で足を止めて天を仰いだ。住宅街では窓が次々と開き、寝間着姿の住人たちが通りに顔を出している。犬が吠え、子供が泣き、遠くで警報のサイレンが鳴り始めた。
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朝の帝国魔電公社・中央棟、第3運用課。
執務室に一歩踏み込んだ瞬間、焦げた珈琲と脂汗の匂いが鼻を突いた。
壁面の電信印字機が、カタカタカタカタと途切れることなく紙テープを吐き出し続けている。印字済みの紙束が受け皿から溢れて床に垂れ下がり、その上を若手技師たちが蒼白な顔で踏みつけながら走り回っていた。机の上には苦情電信の束が散乱し、受話器が外されたままの電信端末が三台並んで、赤いランプを点滅させ続けている。
「——第11ブロック東区画、商店組合から復旧要請、『開店に間に合わせろ』と——」
「第13ブロック北の街灯管理局からも苦情です! 高周波ノイズで通信回線に障害が——」
「冷蔵保管庫の温度が上がって生鮮品が——」
怒声と報告と電信音が入り混じる修羅場の中に、場違いな革靴の足音が響いた。
ギルバート・ハウエルが、二日酔いの充血した目を細めながら執務室の扉を開けた。昨夜の酒の匂いが、まだ恰幅の良い体躯から滲んでいる。ネクタイは曲がり、葉巻を差す胸ポケットのハンカチーフは皺だらけだったが、袖口の金のカフスボタンだけがぎらりと光っていた。
「何の騒ぎだ、朝っぱらから」
若手技師たちの動きが一瞬止まった。
徹夜の隈が刻まれた若手の一人が、油汗の浮いた顔で振り返った。作業着の襟元は汗で黒く染み、両手が小刻みに震えている。
「課長——第12ブロックの変圧器が、未明にトリップしました。保護回路が落ちて、第11、第13ブロックまで連鎖停電しています。3ブロック分の市街地が、今もブラックアウトしたままです」
「はあ? 変圧器? お前たちが先日、標準接続に戻したあれか?」
「はい……。シュンさんの多重ループ回路を迂回して標準バイパスに繋ぎ替えたあの変圧器です。課長に指示された通りに」
ギルバートのこめかみが、ぴくりと跳ねた。
「で、さっさと再起動すればいいだろうが。保護回路をリセットして、配線を繋ぎ直せ」
若手技師が、唇を噛んだ。隣の同僚と目を合わせ、そしてまっすぐにギルバートを見た。
「無理です」
その二文字が、騒がしい執務室の空気を一瞬凍らせた。
「シュンさんの多重ループ回路を外したせいで、位相ズレと共振が制御不能になっています。僕たちが繋いだ標準バイパスでは、各ブロック間の負荷分散がまったく機能していません。パラメータの計算式も、回路の減衰定数も——シュンさんの設計図に書かれた数値の意味すら、僕たちには分からないんです」
若手技師の声が、わずかに震えた。
「このまま無理に再起動したら、異常電圧が基幹線を逆流して中央魔導炉まで到達します。そうなったら、第12ブロックどころかニュー・ブラッドフォード全域が落ちます」
執務室が、電信印字機のカタカタという機械音だけになった。
ギルバートの太い喉仏が、ゆっくりと上下した。額に浮いた脂汗が、蛍光灯の光を鈍く反射している。
「…………つまり、お前たちでは直せない、と」
「はい。直せるのは——シュンさんだけです」
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ギルバートの顔から、血の気が引いていった。
首筋に手をやり、ネクタイを緩め、そしてデスクの端を掴んだ。指先が白くなるほど力が入っている。
「直せるのはシュンだけ」——その言葉の意味が、遅れて脳の奥まで染み込んでいく。先日までの自分が何と言っていたか。酒場で何と吹聴していたか。「若手にやらせたら一日で片付いた」「あいつは今頃スラムで泣きべそだ」——あの言葉が、今、一つ残らず自分の喉元に突き刺さっている。
「……クソッ」
絞り出すような声だった。
ギルバートはデスクを拳で叩き、血走った目で執務室を見回した。若手技師たち、当直の記録係、隣の課から様子を見に来た連中——その全員が、何も言わずにギルバートを見ている。
「すぐにシュンを呼び戻せ!」
怒声が執務室の壁を震わせた。
「電信を打て、自宅に人を走らせろ! 土下座でも何でもして連れてこい! 今すぐだ!」
若手技師の一人が、慌てて人事端末に駆け寄った。キーを叩く音が、乾いた執務室に響く。画面にシュンの職員番号を入力し——そして、その手が止まった。
「……課長」
画面を見つめたまま、若手技師の声が掠れた。
「シュンさんのデータが……ありません」
「何?」
「人事データベースの職員マスターから、シュンさんの個人コードが消えています。電信アドレスも、現住所登録も——全部、空欄です」
ギルバートが端末の前に詰め寄り、画面を覗き込んだ。
淡い緑色のモニターに表示されていたのは、たった一行の文字列だった。
——該当する職員データは存在しません。
ギルバートの口が、半開きのまま固まった。
「馬鹿な……退職したからって、データがすべて消えるわけが——」
「通常の退職処理では消えません」
当直の記録係が、おずおずと口を開いた。
「退職者の個人データは、人事課の保管庫に五年間アーカイブされるのが規定です。ですが——シュンさんの場合、アーカイブ先のデータ領域ごと初期化されています。調律室の通信ログ、入退室記録、緊急連絡先リスト……すべて、跡形もなく」
退職届を提出したあの朝。穏やかに一礼して背を向けた、あの男。あの静かな表情の裏で、公社のデータベースから自分の痕跡を一つ残らず消し去っていた。社員証も、マスターキーも、きれいに返却して。連絡を取る手段すら残さずに。
「あ、あいつ……最初から……!」
ギルバートの声が、裏返った。
金のカフスボタンが嵌った袖で額の汗を拭い、椅子の背もたれを掴み、そしてその手が滑った。指先から力が抜けていくのが、自分でも分かった。
「どこだ……あいつは今、どこにいるんだ……!」
誰も答えなかった。
電信印字機だけが、カタカタカタカタと、際限なく苦情の紙テープを吐き出し続けていた。
最後までお読みいただきありがとうございました!
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