第7話 元上司が酒場で勝ち誇る裏で、街路灯が明滅を始める
リリアがキッチンの奥から運んできた深皿から、じっくり煮込んだ牛肉と根菜の芳醇な香りが立ち上った。
湯気の向こうに、とろりと崩れかけた人参と、表面が飴色に照りつく肉の塊が沈んでいる。赤ワインで煮詰めたデミグラスの深い甘みが鼻腔をくすぐり、シュンは無意識に喉を鳴らした。
「シュン様、お風呂上がりにぴったりの煮込みですよ〜。パンもちょうど焼けましたからね〜」
リリアが白い小皿に焼きたてのパンを載せてテーブルに並べた。切り分けた断面から小麦の甘い蒸気が立ち上り、外皮は狐色にパリッと焼き上がっている。
シュンはスプーンでシチューをすくい、ひと口含んだ。
牛肉がほろりと崩れ、舌の上に赤ワインの酸味と根菜の甘みが溶け合って広がっていく。体の芯に残っていた風呂上がりの火照りに、温かなシチューの熱がじんわりと重なった。
「……美味い。リリア、完璧だ」
「ふふ〜、シュン様が美味しそうに食べてくださるだけで、リリアは満点ですよ〜」
菫色の瞳を細めたリリアが、両手を胸の前で合わせてにこにこと微笑んでいる。
パンをちぎってシチューに浸し、染みた汁ごと頬張った。サクッとした外皮の食感と、デミグラスを吸い込んだ中身のしっとりとした弾力が、口の中で幸福な合奏を奏でる。
(公社にいた頃は、自販機の合成パンと安い缶詰だけで夕飯を済ませてたっけ……)
そんな日々がもう二度と戻ってこないことが、スプーンを動かすたびに体の隅々まで染み込んでいく。
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食後の満足感に浸りながら、シュンはサーバーラック横の端末に腰かけた。
青と橙と緑のケーブルが直角に美しく結束されたラックの隙間から、冷却ファンの低い囁きが聞こえる。端末の画面に指を触れると、暗転していたモニターが淡い緑色の光を帯びて目を覚ました。
都市基幹の光魔導ケーブルに直結した暗号化回線。その上で、シュンが退職前から密かに構築していた自動取引プログラムが、今この瞬間も黙々と動き続けている。
収支ログを呼び出した。
画面に流れる数字の羅列。ニュー・ブラッドフォード都市取引所の魔導鉱石先物、絶縁セラミック材の現物価格、変圧器用コイル銅の卸値——それらの間に生じるミリ秒単位の微細な価格差を、プログラムが自動で検知し、買いと売りを瞬時に繰り返している。
本日の確定収益。
画面の右下に表示された数字を、シュンは三度ほど瞬きしながら読み直した。
——銀貨342枚。先週比+4.6%。
(…………銀貨342枚)
公社の月給が銀貨100枚だった。残業代なし、ボーナスなし、ギルバートに手柄を横取りされた分を差し引けば実質70枚がいいところ。
その三倍以上が、昼寝して風呂に入っていただけで、自動的に積み上がっている。
シュンは椅子の背もたれに体重を預け、天井を仰いだ。
(……不労所得、最高だ……もう一生外には出ないぞ……)
両腕がだらりとぶら下がり、全身から力が抜けていく。椅子がきしむ音だけが、静かなリビングに響いた。
「相変わらず倫理観の欠如した寄生アルゴリズムですね」
背後から、感情の凹凸を削り落としたような声が降ってきた。シエラが腕を組み、端末の画面を一瞥している。琥珀色の瞳に緑色の数字の光が映り込んでいた。
「都市の取引基盤に寄生して鞘を抜くプログラムを走らせ、その収益で衣食住を賄い、さらに余剰資金を再投資する。完全な閉鎖循環型の経済的寄生です」
「人聞きが悪いな。合法的な裁定取引だよ」
「合法かどうかではなく、倫理の問題です」
「倫理で飯は食えないよ、シエラ」
「……ただし」
シエラは端末のログに目を落としたまま、ほんのわずかに顎を引いた。
「回線トラフィックの隠蔽処理は精密です。公社の監視網に対する検知リスクは皆無と判定します。設計自体は——認めます」
最後の二文字だけ、声の温度がかすかに下がった。
「ありがとう、シエラ。褒められた気がする」
「褒めていません。事実の報告です」
シュンは革張りのソファーに移動して深く沈み込み、腕を頭の後ろに組んだ。真空管アンプから流れるチェロの旋律が、ラベンダーの香りを含んだ空気をゆるやかにかき混ぜている。
(起きたい時に起きて、好きなものを食べて、風呂に入って、あとは何もしなくていい。その間に勝手に金が増えていく)
口元が、だらしなく緩んでいくのを止められなかった。
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同じ頃——地上。
ニュー・ブラッドフォード歓楽街、上層の高級酒場「グレイヴ・アンド・バレル」。
磨き上げられたカウンターの向こうで、琥珀色のウイスキーがロックグラスの中で揺れていた。氷が解けるカランという涼やかな音が、葉巻の紫煙が漂う薄暗い店内に響く。
ギルバート・ハウエルはカウンター席に肘をつき、グラスを傾けながら上機嫌で笑っていた。
袖口で金のカフスボタンが蛍光灯の光を弾いている。先月、シュンの手柄を横取りして獲得した特別賞与で仕立てた新しいカフスだ。彼はそれを見せつけるように、わざとらしく腕を持ち上げてグラスを口に運ぶ。
「いやぁ、よく言うだろう。組織というのは一人の人間に依存するものではない、とな」
隣に座った同期の管理職——第5運用課の課長が、愛想笑いを浮かべながら頷いている。その後ろには、ギルバートに誘われて断れなかった若手の部下が一人、居心地悪そうにビールのジョッキを握っていた。
「シュンがいなくなった時は正直どうなるかと思いましたが、蓋を開ければ若手が一日で改修を終わらせたよ。結局あいつは何でもかんでも複雑にしすぎるんだ。配線を標準に戻しただけで、すっきり片付いた」
ギルバートは葉巻を咥え直し、紫煙を天井に向けて吹き上げた。
「あいつは今頃、スラムの安宿で再就職先を探して泣きべそをかいているに違いない。なにしろ公社以外にあの手の技術を使える場所なんてないからな。半年もすれば、痩せ細って復職を乞うてくるさ」
グラスの氷が溶けて、カランと乾いた音を立てた。
「その時は——そうだな、減給で再雇用してやるのも一興か。『課長、お願いします、もう一度働かせてください』と土下座する姿が目に浮かぶよ。ガハハ!」
ギルバートの高笑いが、店内の紫煙を震わせた。隣の管理職が引きつった笑みを返し、後ろの若手は黙ってジョッキに口をつけた。
カウンターの向こうで、バーテンダーが無表情にグラスを磨いている。
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その酒場から三ブロック先——第12ブロック商業地区の夜の街路。
ジジッ。
頭上に吊るされたアーク灯が、不快な放電音を立てて明滅した。
白い光がぐらりと揺れ、石畳に落ちる人影が一瞬消えて、すぐに戻る。
ジジジ……ジジッ。
今度は二度、三度と続けざまに瞬いた。通行人の男が足を止め、不安そうに見上げる。隣の街路灯も同じように——ジジ、ジジジ——と不規則に明滅を繰り返している。
商店街のガス灯風の看板が一瞬暗転し、すぐに灯が戻った。だが、その灯の色が微かに赤みを帯びている。電圧が落ちている証拠だった。
街路の向こう、鉄柵に囲まれた変電施設の煉瓦造りの建屋。
その内部では、誰もいない作業場の中で、変圧器の鉄芯が重く唸り続けていた。
ヴヴヴ……。
低い共振音が壁を伝って、施設の外まで微かに漏れ出している。油温計の赤い針が、黄色い警戒ラインを越え、赤い危険域の刻印へと——ゆっくりと、しかし確実に——食い込んでいた。
冷却フィンの隙間から、焼けた絶縁油の刺激臭がじわりと滲み出している。
その臭いに気づく者は、まだ誰もいなかった。
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ゼロ・ターミナル、リビング。
シュンが革張りソファーの肘掛けに頬杖をついて、ぼんやりと食後の珈琲を啜っていた時——ふと、視界の隅で何かが動いた。
サーバーラック上段のオシロスコープサブモニター。公社の基幹送電線を常時モニタリングしている小さな画面だ。
緑色の波形が、正弦波の頂点で微かにギザギザと震えている。朝方には針の先ほどだったスパイク状のノイズが、今は明らかに振幅を増し、波形の稜線を不規則に削り始めていた。
(……ノイズの周期が短くなってる。どこかの変電施設で共振が育ち始めた証拠だな)
シュンは珈琲を一口含んだ。苦味が喉を通り過ぎ、波形の意味するところが脳の片隅で自動的に組み上がっていく。多重フィードバックループを外して標準接続に戻した回路が、負荷の偏りに耐えきれず共振を拾い始めた——そこまで推測して、シュンは思考を止めた。
(まあ、退職した僕には関係ないし)
サブモニターの電源ボタンに手を伸ばし、カチリと押した。緑色の波形が消え、画面が暗転する。
「シュン様〜」
背後から、花びらが風に舞うような声がした。
振り返ると、リリアがふかふかの羽毛布団を両腕いっぱいに抱えて、にこにこと微笑みながら立っていた。布団の表面が真っ白で、まるで雲の塊を抱いているように見える。石鹸と花の香りが、布団の温もりと一緒にふわりと漂ってきた。
「ベッドを温めておきましたよ〜。湯たんぽも仕込んでありますからね〜」
「ありがとう、リリア。今日も完璧だ」
「ふふ〜」
リリアは布団を胸の前で抱え直し、菫色の瞳をきらきらと輝かせた。
「あの、シュン様。今夜は安眠促進のフルコースとして——心拍同期モードで、リリアがご一緒に添い寝いたしましょうか〜?」
布団の向こうから、リリアがにっこりと顔を覗かせている。
「シュン様の心拍に合わせてリリアの疑似鼓動を同期させると、副交感神経が活性化してぐっすり眠れるんですよ〜。ほら、こうやって——」
リリアが布団ごとぐいっと距離を詰めてきた。柔らかな腕がシュンの首元に回りかけ、エプロンドレスの胸元から石鹸の甘い香りが至近距離で鼻腔を満たす。
「ち、近い——リリア、近すぎる——!」
シュンは反射的にソファーの背もたれに上体を反らした。頬に血が上っているのが自分でも分かる。リリアの菫色の瞳が、至近距離で不思議そうに瞬いている。
「? シュン様、お顔が赤いですよ〜? もしかしてまだ湯冷めしていませんか〜?」
「いや、これは湯冷めとか、そういう問題じゃ——」
「リリア」
冷水のような声が、背後から割って入った。
シエラがつかつかとソファーの横に歩み寄り、片手でリリアの肩をそっと——しかし有無を言わさず——押し戻した。
「甘やかしのプロトコルが暴走しています。これ以上の過剰接触は、この男の残り少ない知能指数をさらに低下させます」
「えぇ〜、でもシエラちゃん、シュン様の安眠のためですよ〜?」
「安眠ではなく覚醒状態に追い込んでいます。数値が物語っています」
シエラはリリアを退かせると、くるりとシュンの正面に回った。
琥珀色の瞳が、無表情のまま真っ直ぐにシュンを見下ろしている。
「シュン」
「は、はい」
「頭部の表面温度が1.8度超過。熱暴走と判定します」
シエラは前屈みになり——冷たい自分の額を、シュンの額にぴたりと押し当てた。
銀色のショートボブがさらりと頬を掠める。氷のように冷えた肌の感触が額から脳の奥まで染み込んでいく。吐息がかかるほどの距離で、琥珀色の瞳がシュンの瞳を覗き込んでいた。
「…………」
「…………」
心臓が、耳の奥で煩いほどに脈打っている。
シエラの睫毛の一本一本が数えられるほどの距離。冷たい額の感触の向こうに、彼女の内部を巡る魔力循環のかすかな振動が伝わってくる。
「……掌より接触面積が広い分、熱伝導率が高いだけです」
シエラは額を離さないまま、低い声で言った。耳の先が、ほんのわずかに色づいている。
「変な邪推はしないでください」
「……してない」
「嘘です。心拍数が40%上昇しています」
シエラはそれだけ言って、すっと身を引いた。額に残った冷たさの余韻が、じんわりと消えていく。
「ふふ〜、シエラちゃんもシュン様のお世話がしたかったんですね〜」
「違います。体温管理ルーチンの実行です」
「でも、シエラちゃんの頬も少し温かくなってましたよ〜?」
「リリア、黙りなさい」
シエラがそっぽを向いた横顔の耳が、さっきよりはっきりと赤く染まっていた。
シュンは二人のやり取りに、ようやく息をついた。額に残る冷たさと、鼻の奥にまだ漂う石鹸の香り。正反対の温度と性格を持つ二人の残像が、ゆるやかに重なって溶けていく。
立ち上がり、ベッドルームへ向かう廊下を歩きながら、ふと口の中で呟いた。
(明日は何をしようかな……)
予定のない明日。起きたい時に起きて、食べたい時に食べて、何もしたくなければ何もしなくていい。その自由が、公社にいた頃のシュンにとってどれほど遠い夢だったか。
羽毛布団に潜り込むと、湯たんぽで温められた布の中が柔らかい繭のようにシュンを包み込んだ。枕元のスリット照明が滑らかに光量を落とし、リリアの結界が生み出すラベンダーの香りが、穏やかな闇の中に満ちていく。
心地よい温もりに身を委ねてそっと瞼を閉じれば、何百メートルも離れた頭上の地表で街路灯のアーク灯が不穏な明滅を繰り返していることなど、外界から隔絶されたこの地下要塞の中では知る由もなかった。
最後までお読みいただきありがとうございました!
「シュンが羨ましい!」「オートマタ二人に癒やされた!」「元上司ざまぁ!」と思っていただけましたら、広告下部の【ブックマークに追加】や【ポイント評価(★)】をポチッと押していただけると励みになります!




