第6話 地上のうなり音と、檜香る一番風呂の背徳感
帝国魔電公社・第12ブロック変電施設。
焼けた絶縁油のツンとする刺激臭が、換気の追いつかない施設内に充満していた。
変圧器の鉄芯が、低く不快なうなり声を上げている。ヴヴヴ……という重い共振音が腹の底に響き、足元の鉄板がびりびりと振動していた。
「これ……まずいぞ、本当に……」
若手技師が、油汗の浮いた顔で壁面の計器に目を凝らしていた。油温計の針が警戒域の手前で小刻みに震えている。隣の電圧計では、正弦波であるべき波形が不規則にうねり、鋸歯状のノイズが混じっていた。
「昨日、シュンさんの回路を迂回して標準バイパスに繋ぎ替えてから、うなりが止まらない。それに——」
彼は手元のノートに走り書きされた数値を読み上げた。
「第11ブロックと第13ブロックの変電施設でも、微小な電圧降下と高周波ノイズが観測されてる。こっちの変圧器から波及してるとしか考えられない」
若手技師のもう一人が、変圧器の側面に手を翳していた。
「外装も熱い。冷却フィンの容量が追いついてない感じだ。シュンさんの回路が組んであった時は、フィードバックで負荷が分散されてたんだと思うが、それを外したから——」
「おい、なんだこの騒ぎは」
変電施設の入口から、葉巻の煙が先に入ってきた。続いてギルバート・ハウエルが恰幅のいい体躯を揺らして現れる。金のカフスボタンが蛍光灯の光を反射していた。
「課長! ちょうどよかった、見てくださいこの数値——」
「動いてるんだろう?」
ギルバートは計器をちらりと見て、興味を失ったように葉巻を咥え直した。
「配線を変えりゃ多少は揺れる。馴染み運転だ、馴染み運転。シュンがいた頃だって、この程度の振動はあっただろう」
「いえ、シュンさんがいた時は——」
「あの男は何でもかんでも大袈裟に配線を複雑にしやがるから、余計な手間が増えるんだ。標準接続にしたなら、あとは数値が安定するのを待てばいい」
若手技師が食い下がった。
「しかし課長、シュンさんの回路には共振防止の多重ループが組まれていて、それを迂回した以上、振動の減衰機構が丸ごとなくなってるんです。このまま放置したら——」
「お前たちは俺に説教する立場か?」
ギルバートの低い声が、変圧器のうなり音を切り裂いた。若手技師たちの背筋が伸びる。
「定時はとっくに過ぎてる。減給されたいのか。帰れ」
ギルバートはそれだけ言って、葉巻の灰を床に落としながら変電施設を出ていった。
若手技師たちが残された施設の中で、変圧器は相変わらず低く唸り続けている。油温計の針は、さっきよりわずかに——しかし確実に——警戒域に近づいていた。
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ゼロ・ターミナル、リビング。
「シエラ、メンテ後の診断ログ、どう?」
シュンは革張りソファーに深く沈み込み、水出し珈琲のグラスを傾けながら声をかけた。真空管アンプから流れる弦楽四重奏が、地下室の空気をゆるやかに満たしている。
シエラはサーバーラック横の端末で、自己診断の結果を走らせていた。画面に流れるログの速度は、人間の目では追えないほど速い。
「……主基板の伝送効率が4.2%向上。視覚センサーのノイズ除去率、聴覚センサーの周波数応答、ともに改善しています」
「やっぱり酸化膜が邪魔してたんだな。たった二つの端子でも、信号線の直列抵抗が増えれば全体に響く」
「…………」
シエラは端末の画面から目を逸らさず、しばらく黙っていた。
「……礼は言いません」
「言わなくていいよ」
「ですが……作業自体は、認めます」
そっぽを向いたまま、低い声で付け加える。耳の先にまだ赤みが残っていた。
「シュン様〜、メンテナンスの後はゆっくりお風呂に入りませんか〜? 大浴場のお湯、沸かしておきましょうか〜?」
キッチンから、リリアの声が花びらのように飛んできた。
「お風呂か……」
シュンはソファーの背もたれに頭を預け、天井を見上げた。
(平日の、真っ昼間から入る一番風呂か)
公社に勤めていた頃は、まともに湯船に浸かる時間すらなかった。シャワーで汗を流して、倒れ込むように寝る。それが毎日だった。
「リリア、頼む。沸かして」
「はい〜! 檜の入浴剤も入れておきますね〜」
リリアの嬉しそうな足音がキッチンの奥へ消えていく。
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大浴場は、ゼロ・ターミナルの最奥部にあった。
分厚い防水扉を開けた瞬間、檜の清々しい芳香と温かな湯気が、ふわりと鼻腔を満たした。天井の換気口から緩やかに気流が循環しているおかげで、地下特有のこもった重さはまるでない。
石造りの浴槽は、大人が三人ほど並んで足を伸ばせる広さがあった。地下水脈から汲み上げた清浄水を魔導ボイラーで沸かした湯が、縁からかすかに溢れて床の排水溝へと流れている。水面に揺らめく湯気が、天井のスリット照明に照らされて白い帯を描いていた。
シュンは服を脱ぎ、掛け湯で体を流してから、ゆっくりと湯船に足を下ろした。
足首から脛、太腿、腰へと、柔らかな湯がじんわりと肌を包み込んでいく。肩まで深く沈み込むと、体の芯に溜まっていた強張りが一気にほどけて抜けていった。
「ふあぁぁ……」
声にもならない声が、石造りの天井に反響して消えた。
伸ばした手足がどこにもぶつからない。湯の中で指先を広げても、浴槽の壁は遥か遠い。檜の入浴剤が溶けた湯は、ほんのりと木の甘い香りを纏っていて、吸い込むたびに鼻の奥が穏やかに温まった。
(平日の、15時……)
シュンは湯船の縁に後頭部を預け、天井を見上げた。
(今頃、地上の第3運用課では——ギルバートが葉巻を吹かしながら怒鳴り散らし、若手たちが胃をキリキリさせながら変圧器と格闘している時間だ)
その光景が脳裏に浮かんで、すぐに湯気の向こうに溶けて消えた。
(僕はその同じ時間に、外界から隔絶された地下要塞の一番風呂に浮かんでいる)
自分の口元が、だらしなく緩んでいるのが分かった。
公社にいた頃は、真冬でもシャワーだけだった。浴槽に湯を溜める時間などなかった。帰宅して——いや、仮眠室で目を覚まして、立ったまま冷たいシャワーヘッドの水を浴び、濡れた髪のまま作業着に袖を通す。それが日常だった。湯船に肩まで浸かるという、ただそれだけの行為がどれほど贅沢なことか、あの頃の自分は想像すらしなかった。
湯の揺らぎが、静かに体を撫でていく。天井の照明が水面に反射して、ゆらゆらと光の模様を石壁に投げかけていた。どこか遠くで冷却ファンの低い囁きが聞こえるだけで、それ以外は、湯の中に沈んだ自分の脈拍しか聞こえない。
(……もう二度と、あの場所には戻らない)
目を閉じると、檜の香りと湯の温もりだけが世界のすべてになった。
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「シュン様〜、湯冷めしちゃいますからね〜」
脱衣所に出ると、リリアが大判のタオルを両手で広げて待っていた。薄手の部屋着の裾が足元で揺れ、石鹸と花の香りが、湯上がりの蒸気に混じってふわりと漂ってくる。
「ほら、こっち向いてくださいね〜」
リリアがシュンの頭にタオルを載せ、柔らかい手つきで髪を拭き始めた。ふかふかのタオル越しに伝わる、優しくて温かい指先の力加減。くしゃくしゃと髪を揉むたびに、菫色の瞳が至近距離でにこにこと細められる。
「シュン様のかみ、さらさらですね〜。ちゃんとシャンプーしましたか〜?」
「した……してるよ」
「えらいですね〜。満点です」
額から顎の下まで丁寧に水滴を拭い取ると、リリアは冷えたガラスのコップを差し出した。透明な液体の中にレモンの薄切りが浮かび、底に蜂蜜の金色が沈んでいる。
「はい、特製の蜂蜜レモン水ですよ〜。お風呂上がりにぴったりです」
一口含むと、レモンの爽やかな酸味が口の中にひろがり、すぐに蜂蜜のまろやかな甘さが追いかけてきた。湯上がりの火照った喉を、冷たい液体がすうっと通り抜けていく。
「……うまい」
「ふふ〜、よかったです」
バスローブのままリビングに戻ると、ソファーの前にシエラが立っていた。
「座りなさい」
有無を言わさぬ口調で指示され、シュンは素直にソファーに腰を下ろした。
次の瞬間、ひんやりと冷たい掌が、首筋にそっと当てられた。
「——っ、冷た……!」
「のぼせ防止です。体表温度が通常値を1.2度超過しています」
シエラの冷却モードの掌が、火照った首筋の熱をじわじわと吸い取っていく。ひんやりとした心地よさが、血管を伝って頭の芯まで染み渡った。
「……ありがとう、シエラ」
「勘違いしないでください。体温管理ルーチンの一環です」
そう言いながらも、冷たい掌は離れなかった。
シュンはソファーの背もたれに体重を預け、ふと、サーバーラック上段のオシロスコープモニターに目をやった。ゼロ・ターミナルの電力波形は、変わらず完璧な正弦波を描いている。
その隣のサブモニター。公社の基幹送電線の波形を映す小さな画面。
朝には針の先ほどだった高周波ノイズが、今は明らかに振幅を増していた。正弦波の頂点でギザギザと暴れ、周期的なうねりを帯び始めている。どこかの変電施設で、素人が組んだ迂回配線が共振を拾い始めた証拠だ。
シュンは蜂蜜レモン水の最後の一口を飲み干した。
(まあ——僕にはもう、関係のない話だ)
首筋にはシエラの冷たい掌。隣のキッチンからは、リリアが鼻歌を歌いながら夕食の支度を始める音。弦楽四重奏の柔らかな旋律と、ラベンダーの香りと、蜂蜜レモンの甘い余韻だけが、窓のない地下室にゆるやかに満ちていた。
最後までお読みいただきありがとうございました!
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