第5話 「この……無自覚スケベ技師……!」
昼食のあと、シュンはリビングの奥に据えた作業台の引き出しを開けた。
革製の工具ロールが、几帳面に巻かれたまま収まっている。紐を解いてテーブルの上に広げると、白銅のピンセットが二種、微小魔力プローブが一本、精密ドライバーのセットが四本、それぞれの革の溝にぴたりと嵌まって並んでいた。刃物のように薄い先端が、天井のスリット照明を受けて鈍く光る。
最後にルーペ付きの作業用眼鏡を引き出しの奥から取り出し、レンズを息で曇らせてから柔らかい布で拭いた。
「シエラ、準備できた。こっちに来て」
サーバーラックの前で自己診断ログを走らせていたシエラが、クリップボードをラックの上に置いて振り返った。琥珀色の瞳がシュンの広げた工具一式を一瞥し、それからわずかに細められる。
「……昨日の今日で、本当にやるんですか」
「うん。環境が変わったばかりだから、端子の状態くらいは目視で確認しておきたい」
「自己診断ではすべてのパラメーターが基準値内です。異常は検出されていません」
「それは分かってる。でも自己診断で拾えない微小な接触抵抗の変化は、ピンセットで直接見ないと分からないだろ。前にも言ったよね」
シエラはしばらく黙ってシュンを見つめていた。やがて小さく息を吐き、作業台のそばに置かれた椅子へ歩いていく。
「……三十分以内に終わらせてください」
「努力する」
「努力ではなく、確約を求めています」
「善処する」
「それは努力と同義です」
シエラは椅子に後ろ向きにまたがり、背もたれに両腕を載せて姿勢を正した。銀色のショートボブが首筋で揺れ、その下の耳の先が、もうほんのりと色づいている。
シュンは作業用眼鏡を額に上げたまま、シエラの背後に回った。
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黒い軍用ドレスの背面。左右の肩甲骨の間に、衣装の生地に溶け込むように走っている一筋の継ぎ目。
「開けるよ」
「……どうぞ」
シエラの声がわずかに硬い。シュンは慣れた手つきで、背面のファスナーを襟元から肩甲骨の下まで引き下ろした。衣装の裾が左右に開き、滑らかな白磁の肌が露わになる。
その中央に嵌め込まれたメンテナンスハッチ——厚さ3ミリの耐魔合金プレートを、シュンの指先がそっと撫でた。
「冷たくないか?」
「……あなたの手の方が温かいだけです。早くしてください」
合金の縁に指をかけ、ロック機構を外す。カチリ、と精密な金属音。プレートを横にスライドさせると、その下に、銀と真鍮で精緻に組まれた主制御基板が姿を現した。
シュンは思わず息を止めた。
何度見ても、この光景だけは技師としての心を掴んで離さない。
白磁のように滑らかな背中の窪みの中に、まるで宝石細工のように埋め込まれた旧世代の軍用基板。現代では製造不可能な微細配線のパターンが、真鍮の導体と銀の信号線で幾何学模様を描いている。その表面に、米粒ほどの魔力端子が十数個、等間隔に並んでいた。端子の一つひとつが、シエラの内部を流れる魔力と電気信号の結節点だ。
背中の肌のぬくもりと、基板の金属の冷ややかさ。その境界線が、スリット照明の下でかすかに揺れている。シエラの呼吸——正確には冷却機構のポンプが刻む、ごく微かな振動のせいだった。
シュンは作業用眼鏡を目元まで下ろし、ルーペのレンズを基板に近づけた。吐く息がシエラの背中にかかる距離。
「……近いです」
「近くないと見えない」
「それは物理的にはそうですが——」
「息、止めようか?」
「…………いいです。さっさと終わらせてください」
シエラの肩が微かに強張った。
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ルーペ越しに見る端子は、おおむね良好な状態だった。
だが、七番端子と八番端子——信号伝送系のメインラインに接続された二つの接点に、肉眼ではまず見えない薄い酸化膜が載っているのが分かった。ゼロ・ターミナルの空気はリリアの結界で浄化されているとはいえ、地上との往復で持ち込まれた微量の湿気が、こうした軍用合金にさえ薄皮一枚の錆を生む。
「七番と八番に酸化膜が出てる。取るよ」
「……了解です」
白銅のピンセットの先端を、ゆっくりと端子に近づけた。先の細い方——0.3ミリ径の精密型だ。酸化膜の縁にピンセットの腹を当て、息を詰めるようにして薄い被膜を剥がしていく。カリ、と小さな手応え。真鍮の素地が現れ、スリット照明の光を受けて鈍い金色に光った。
シエラは微動だにしない。だが、スカートの上に載せた拳が、ぎゅっと握り込まれていた。
「次、八番」
八番端子の酸化膜を同じ要領で除去する。こちらはやや深い層まで錆が食い込んでいて、ピンセットの先でそっと撫でるように、三度ほど繰り返す必要があった。
「……シュン」
「ん?」
「もう少し……手早く、お願いします」
「急いで端子を傷つけたら本末転倒だよ」
シュンは八番端子の被膜を綺麗に取り終え、クリーニングクロスで周辺の微粒子を拭き取った。
「よし。酸化膜は除去した。次は導通確認するよ」
シエラの肩がぴくりと震えた。
「……導通確認」
「うん。接触抵抗が基準値に戻ったか、パルスを流して確かめる」
「…………」
シエラは何か言いかけて、口を閉じた。背もたれを掴む指先に力が入り、椅子の木が軋む音がした。
「……最小出力で、お願いします」
「分かってるって」
シュンは精密工具を置き、右手の人差し指と中指を揃えた。指先に淡い燐光が灯る——微弱な魔力パルスの準備。技師が端子の導通を確認するための、最も基本的な手技だ。
指先を七番端子に、そっと触れた。
肌と金属の境界、温かさと冷たさの狭間に、チリ、と微かな火花が散る。パルスが端子を通り、主基板の回路に流れ込む。
その瞬間——シエラの背筋が、弓なりに反った。
「——っ、ん……!」
甘い、と形容するしかない吐息が、シエラの唇からこぼれ落ちた。華奢な肩甲骨が翼のように持ち上がり、背筋に鳥肌が走る。白磁の背中の両側が桜色に染まっていくのが、至近距離のシュンにははっきりと見えた。
パルスが止まると、シエラは肩で大きく息をついた。背もたれを掴む指が白くなるほど力が入っている。
「——……っ、シュン……!」
「大丈夫?」
「大丈夫ではありません……! 言ったはずです、変なパルスを流すなと……!」
「変なパルスじゃないよ。標準の導通確認パルスだ。出力は0.02ミリ魔力。規格の最小値」
「問題は出力ではなく……!」
シエラは背中を向けたまま、首だけを捻ってシュンを睨んだ。琥珀色の瞳が潤み、頬から耳の先まで、さっきとは比べものにならないほど赤く染まっている。
「……端子の接触面を、清掃した直後に、パルスを流せば……伝導率が上がって……っ、通常の三倍以上の感度になるに決まっている……でしょう……!」
「ああ——そうか。酸化膜取ったばっかりだから、素地がむき出しで……ごめん、そこまで考えてなかった」
「考えてなかった……!?」
シエラの声が裏返った。
「この……無自覚スケベ技師……!」
「いや、技術的には正しい手順なんだけど——」
「技術的には正しくても! こちらの身にもなりなさい……!」
シエラは背中をシュンに向けたまま、首筋に自分の掌を押し当てた。冷却モードの起動だ。ひんやりとした掌が首筋の熱を吸い取っていくが、耳から首、背中に広がった桜色はなかなか引いていかない。
「……八番も確認するよ」
「……っ」
シエラの肩がびくりと跳ねた。
「今度はパルスの出力を半分にする。0.01ミリ魔力。さっきよりずっと小さい」
「…………」
沈黙。背もたれを掴む指先が、何度か握り直されるのが見えた。
やがて、シエラは短く息を吐いた。
「……早く、終わらせなさい」
シュンは頷き、右手の燐光をさらに絞り込んだ。指先を八番端子に触れさせる。
チリ、と火花。
「……っ、ぅ……」
さっきよりも小さい、押し殺すような吐息。シエラの背筋がわずかに震え、肩甲骨の間に浮き出た基板が、彼女の鼓動に合わせて微かに脈打った。シュンの指先には、端子を通して、シエラの内部を巡る魔力の波が伝わってくる。温かくて、精密で、規則正しい波動。心臓の代わりに彼女を駆動する疑似魔導炉の鼓動だった。
数秒で確認を終え、シュンは指を離した。
「抵抗値ゼロ。七番も八番も完璧だ」
「……知っています」
シエラの声は低く、かすかに震えていた。
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「シエラちゃ〜ん、お疲れさまですよ〜」
リリアが、小さな銀のトレイを両手で運んできた。水出し珈琲のグラスが二つと、焼き菓子の盛られた白い小皿。グラスの表面に結露が浮かび、琥珀色の液体の中で氷がカラリと涼しい音を立てた。
「はい、シュン様もどうぞ〜」
「ありがとう、リリア。ちょうど喉が渇いてた」
シュンはメンテナンスハッチのプレートを元の位置に戻し、カチリとロックした。ドレスの背面ファスナーを引き上げてやると、シエラは礼も言わず椅子から立ち上がり、リリアからグラスをひったくるようにして受け取った。冷たい珈琲を一気に半分ほど飲み干し、グラスの冷たい表面を頬に当てている。
「シエラちゃん、背中までピンク色で、とっても感度が良くなってるみたいですね〜」
リリアが菫色の瞳を細めて、にこにこと笑った。
シエラのグラスを持つ手が止まった。
「……違います。信号フィードバックの過渡応答が正常化しただけです」
「でも、シュン様がお手入れしている間、シエラちゃんの排熱量が通常の2.7倍に上昇していましたよ〜。すごいですね〜」
「リリア」
「はい〜?」
「黙りなさい」
「ふふ〜」
リリアがくすくすと笑いながらキッチンに戻っていく。シエラはグラスを頬に押し当てたまま、自分の冷却モードをフル稼働させていた。首筋に当てた掌の冷気がうっすらと白い霧を作っている。
シュンは水出し珈琲を一口飲んだ。すっきりとした苦味が喉を通り、長時間の精密作業で強張っていた肩の力が抜けていく。
ふと、サーバーラックのサブモニターに目を向けると、公社の基幹送電線を示す緑色の波形が、微かに小刻みな痙攣を繰り返していた。朝方よりもノイズの振幅がわずかに増え、周期的なギザギザが波の頂点を削っている。
(……地上の方、少し波形が暴れ始めたな)
シュンはグラスの氷をカランと鳴らし、ソファーの背もたれに深く体重を預けた。
最後までお読みいただきありがとうございました!
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