第73話 間一髪の脱出、走り出した我が家
油圧レバーから両手を離したシュンは、作業着の袖を肘の上まで引き上げ、プラットホームへと向き直った。
「よし……予定通り、未明のうちに出よう。午前3時が目標だ」
静まり返った構内を見渡し、居住区のデッキへと視線を向ける。
「出発前の最終準備に入るよ。機器の再測定と、構内の清掃だ」
「清掃、ですか?」
横で携帯端末を構えていたシエラが、琥珀色の瞳を細めて問いかけてくる。
「ああ。扉を開けられた時、人がいた痕跡が残ってたら徹底的に追究されるからね。誰が見ても、ただの空っぽの廃駅に見えるように片付けておかないと」
「……了解しました。床下の主電動機バイパスのノイズ測定とドレン抜きは私が担当します」
「お願い。僕とノアでホームの片付けをやるよ。リリアは——」
「受取シュートの直下ですね〜。お任せください、チリひとつ残さず綺麗にしておきます〜」
リリアはふわりと微笑み、洗剤のボトルとモップを手際よく構えた。
床に散らばった金属粉を回収し、工具を片付けていくシュンの足元へ、四つん這いになったノアがウエスを掲げて声を弾ませる。
「シュン、こっちの油染みも綺麗に拭いたよ!」
「ありがとう、助かるよ。……よし、隅々まで完璧にしておかないとな」
壁際では、取り外したカプラーの受口へ旧軍規格の盲蓋をねじ込み、上から煤を擦り込んでおく。
一方、台車の床下に潜り込んだシエラからは、硬質なやすり掛けの音とともに低い声が届く。
「主電動機バイパス、高圧ライン測定中。……接地抵抗にわずかな揺らぎがあります。端子を磨き直します」
「え、そこまでシビアに見なくても大丈夫じゃないかい?」
「万が一の漏電を防ぐための正常な工程です。妥協は許されません」
「シュン様、受取シュートの拭き上げも完了しました〜」
壁面の物資投下口の下で、リリアが立ち上がった。
スラムから日々の物資を受け取ってきた真鍮のシュート。その直下の石畳は、煤や埃が一掃され、まるで新設されたばかりのように澄んだ光沢を取り戻していた。
「リリア、完璧だよ。……よし、次はホームの照明の撤収だ」
「シュン。ブレーキ配管の結露ドレン抜き、3系統すべて完了しました。……ですが、ちょっと時間をかけすぎでは?」
床下から這い出てきたシエラが、手元の端末の画面を向けながら眉をひそめた。
「作業痕がひとつでも残ってたら、現場の目は誤魔化せないんだよ。僕も現場にいたから分かる」
「……相変わらず、こういうところだけは一切妥協しませんね」
「妥協なんてできないよ。せっかく作った僕たちの家なんだから。……ここでのんびり暮らしたいだろ?」
シュンは息を荒らげながら、最後の工具箱を台車のリビング扉へと運び入れた。
額に滲んだ汗を手の甲で拭った、その時だった。
ふと視界に入った、居住区の壁面に掛かった真鍮時計。
その針の位置を認識した瞬間、シュンの動きが完全に凍りついた。
「6時……10分……? う、嘘だろ……もう朝じゃないか!?」
「午前3時の発車予定から、すでに3時間10分の超過です」
シエラが端末のログをスクロールしながら、抑揚のない声で告げた。
「原因の8割は、シュンがプラットホームの切粉拾いを4往復し、レールの踏面を2度磨き直したことにあります」
「シエラだって、高圧バイパスのアース測定を5回もやり直したじゃないか!」
「それは安全運航のための必須チェックです」
「ふふ、お二人ともお仕事が丁寧すぎますね〜」
リリアが穏やかに微笑みながら、最後の清掃用具をモジュールのデッキへと運び上げた。
「笑ってる場合じゃないよリリアぁ! あと3時間もないんだよ、点検班が来るまで……!」
シュンは頭を抱え、作業着の胸元をぎゅっと握りしめて喉を詰まらせた。
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午前8時15分。
ホームに残されたすべての資材と道具の撤収を完了し、モジュールの重厚な外扉が気密音とともに密閉された。
4人は居住区の前部、運転席のコンソールを取り囲んでいる。
静まり返った車内。
壁面の時計が、秒針を刻むカチカチという規則正しい音だけを響かせていた。
その時だった。
天井の換気ダクトから、ゴオオオ……と地盤を震わせるような重く鈍い唸りが伝わってきた。
シュンは肩を跳ねさせ、天井を見上げた。
「……何の音だ?」
シエラが手元の端末に視線を落とし、即座に波形を照合した。
「公社の大型蒸気トラックです。アイドリングの振動が、外の配管ピットを伝ってここまで届いています」
続いて、鉄板がぶつかり合う甲高い金属音が響いた。
複数のくぐもった作業指示が、重く唸る振動に混ざり始める。
「先行の搬入組だ……」
シュンは乾いた唇を舐めた。
強張ったシュンの横顔を見つめ、ノアが心配そうに作業着の裾をきゅっと握りしめた。
シュンはノアの小さな肩にそっと手を置いた。
「大丈夫だよ、ノア」
シュンは運転席のコンソールへと向き直った。
「いま動かすしかない。……あのトラックがアイドリングしてる今なら、低周波の振動はある程度紛れるはずだ」
「了解しました」
シエラが運転コンソールの横に立ち、計器群を見据えた。
「主蓄電池の放電準備、完了。直流電圧600ボルト、安定。……いつでも行けます」
「よし……」
シュンは運転席へと滑り込み、マスコンレバーを握りしめた。
「リリア、ノア、2人ともソファーにしっかり掴まってて」
「はい〜、シュン様。しっかり掴まっていますね〜」
「シュン、がんばって!」
2人がリビングのソファーへと腰を下ろし、肘掛けを握りしめる。
シュンはマスコンレバーを静かに手前へと引き倒した。
「発車する……!」
カチリと、手応えとともにレバーが噛み合う。
壁面の高圧回路から、キリキリと細い励磁音が上がった。
耳を澄ましても、モーターの唸りはほとんど聞こえない。
床下が、微かに身じろぎした。
鉄車輪がきしむ悲鳴すらなく、何百トンもの車体が滑るように前進を始める。
フロントガラスの向こう、プラットホームの景色が、ゆっくりと後ろへ流れ始めた。
チリひとつ残さず磨き上げられた石畳。
煤の払われた柱や、真鍮の受取シュートが、淡い光の中で静かに遠ざかっていく。
「速度、時速5キロ。台車振動、0.02G以下。……このまま巡航に移れます」
シエラの冷静な報告が、静まり返った車内に響いた。
開放された終端の可動岩壁を抜け、車体は漆黒の深層トンネルへと滑り込んだ。
プラットホームの明かりが遠ざかり、前照灯の黄色い光が、闇に伸びる鉄レールを照らし出す。
最後尾が通過した瞬間、背後でズウン、と密閉された重厚な感触が足元へ届いた。
計器盤のランプが青色に切り替わる。
「後方隔壁、完全閉鎖を確認。……ロック完了です」
シエラが静かに告げた。
時計の針は、午前8時45分を指していた。
前照灯の光に導かれ、装甲モジュールは漆黒の深層トンネルを滑るように進んでいく。
シュンはマスコンレバーをもう1段倒し、巡航速度へと乗せると、ハンドルから両手を離した。
背もたれに体重を預け、ドサリと崩れ落ちるようにシートへ沈み込む。
「……出られた……」
長く息が漏れた。
両手の指先が、まだ微かに震えている。
「お疲れ様でした、シュン様」
運転席の背後から、リリアがトレイを手にふわりと歩み寄ってくる。
「珈琲、淹れましたよ〜」
「ありがとう、リリア……。助かるよ……」
シュンはシートから立ち上がり、差し出されたカップを受け取ってリビングへ向かった。
ローテーブルの上にそっとカップを置き、じっと見つめる。
「……見てよ、これ。全然、揺れてないよ」
「ふふ、シュン様が最後まで気にされていましたからね〜」
リリアが小さく笑った。
「……無事に脱出して、まず最初に確認するのが振動ですか」
シエラが小さく息を吐き、ソファーへと歩み寄る。
「シュン、見て! 本当にボクたちの家が走ってるよ!」
ノアが運転席のフロントガラスへ駆け寄り、漆黒のトンネルを食い入るように見つめている。
前照灯に照らし出された坑道の支柱や古びた標識が、流星のように後方へと流れ去っていく。
シュンはソファーに腰を下ろし、カップを口へ運んだ。
走るリビングに珈琲の香りが立ち、窓際ではノアの足音が行ったり来たりしている。
カップの液面は、最後まで波ひとつ立たなかった。
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午前9時。
ゼロ・ターミナル、正面防爆扉の前。
ガコン、と重厚な金属音が静寂を破る。
プシューッ、と古い気密パッキンが割れる重い排気音とともに、正面の防爆扉がゆっくりと開き始めた。
防護マスクを装着した現場作業員たちを従え、手元の測定端末を構えたミレイが、暗闇の中へと最初の一歩を踏み出していた。
最後までお読みいただきありがとうございました!
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次回はいよいよ本編最終話、明日【18:00】に更新予定です!




