第74話 からっぽの廃駅、静かに残る神様の余韻
分厚いゴム製の防護マスク越しに、シュー、シューと自分たちの規則正しい呼吸音が反響していた。
ミレイが掲げた高輝度ランタンの光が、真っ直ぐに暗闇を押し広げていく。
背後には、携帯型の魔導ガス検知器を抱えた若手技師と、工具袋を肩に担いだ2名の作業員が、慎重な足取りで続いていた。
「……主任、計器の数値を見てください」
若手技師が掠れた声を出し、検知器の表示盤をミレイの目の前へ差し出した。
その指針は、完全にゼロの目盛りに張り付いたまま微動だにしていない。
「……酸素も正常値です。魔力濃度の揺らぎも、帝都の市街地よりずっと穏やかで」
「……30年間密閉されていた地下空洞のはずよね」
「ええ。壁に結露もカビもありません。それどころか……」
若手技師がマスクの縁に指を添え、怪訝そうに首を傾げた。
ミレイ自身も、防護服の袖口を撫でる空気に意識を向けた。
驚くほど冷たく乾いている。地下特有の淀んだ重みが、どこにもなかった。
ミレイは手元のランタンをゆっくりと持ち上げ、頭上へと光を向けた。
闇の中に、巨大なアーチを描く石造りのドーム天井が浮かび上がる。
頑丈な鉄骨のアーチ梁が等間隔で奥へと連なり、湿気による腐食も、崩落の予兆となる亀裂もどこにも見当たらない。
そのまま光を足元へと落とした。
左右を走る2本の鉄レールは、表面に赤錆こそ浮いているものの、枕木もバラストも整然と敷き詰められている。
広々とした石造りのプラットホームの石畳には、30年分の埃がどこにも積もっていない。
「……何もないですね」
作業員がランタンを左右に振りながら、呆然と呟いた。
「崩落どころか、泥水の一滴もねぇ。……まるで今朝掃除が終わったばかりの駅のホームだ」
「奥を見てみましょう」
ミレイは靴音を響かせながら、レールの終端へと歩みを進めた。
ホームの端から数十メートル先。
2本のレールは、見上げるような巨大なコンクリート製の車止めに突き当たって唐突に途切れていた。
背後には分厚い天然の岩壁が隙間なく立ちはだかり、完全な行き止まりを形成している。
「盲腸線……ただの折り返し用の終端駅ですね」
若手技師が図面バインダーを軽く叩いた。
「旧図面の赤枠、ただのデタラメだったんですね。当時の調査班が、奥まで入るのを面倒がったんじゃないですか」
「そうね。……記録のいい加減さは、今に始まったことじゃないわ」
ミレイは淡々と応じながら、プラットホームの側壁沿いへと視線を巡らせた。
壁面の高い位置に、斜めに突き出た真鍮製の物資受取シュートが口を開けている。
ミレイは足早に歩み寄り、シュートの真下をランタンの光で照らし出した。
「……あれ? 何も落ちていませんね」
背後から覗き込んだ若手技師が、首を傾げた。
「スラムの連中、毎日何か放り込んでるって言ってましたよね」
「そうね」
照らし出された石畳は、磨いたように乾いていた。
「……本当に、誰かいたのかもしれないわね」
ミレイは静かにランタンの光を下ろした。
「主任、どうしますか?」
若手技師の問いかけに、ミレイは凛とした声で振り返った。
「プラットホーム中央に仮設台を広げて。安全点検報告書を仕上げるわ」
広げられた公式書類のチェック欄を、ミレイはペンを走らせて次々と埋めていった。
『有毒・可燃性ガス濃度:0ppm(検出限界以下)』
『大気組成:酸素濃度21%、呼吸適格環境』
『地盤構造:岩盤変位なし、耐圧基準適合』
『残留物・不法占拠者:不在(完全空洞)』
ペン先が、『不在』の二文字の上で一瞬だけ止まった。
最後の総括欄に、『事前安全点検完了・異常なし』と迷いのない筆致で書き入れる。
ポケットから取り出した公社の正規承認印——第3調律室主任の印を朱肉に押し当て、報告書の末尾へまっすぐに捺印した。
「これで、スラム東部閉鎖空洞の安全確認は正式に完了よ。この区画への公社の調査義務は、本日付ですべてクローズされます」
「了解です! 有毒ガスも崩落もなくて、本当に拍子抜けでしたね」
若手技師がほっと息を吐き、書類をバインダーへと収めた。
「機材を撤収して。扉を施錠したら詰所へ引き上げるわよ」
---
防爆扉を再び施錠し、廃線路広場の現場詰所へ戻ると、工事用ロープの外側に自警団や住民たちが大勢集まっていた。
誰もが固唾を呑み、ミレイたちの戻りを待っている。
先頭に立っていた初老の男が、恐る恐る前に進み出た。
「……ミレイ技師。地下の……あの扉の奥は、どうだったんで?」
周囲の住民たちが、いっせいに身を乗り出す。
ミレイはヘルメットを小脇に抱え、男の目を真っ直ぐに見つめて穏やかに告げた。
「ガスは検出されませんでした。地盤も問題ありません。安全確認は完了しています。もう心配いりませんよ」
男の肩から、ふっと強張りが抜けた。
だが、男はどこか申し訳なさそうに視線を落とし、恐る恐る口を開いた。
「あの……失礼を承知で聞くんだがよ。あの投入口の真下……その、底のところはどうなってたかい? 俺たち、ありがたいからって、毎日毎日いろんな供物を放り込んじまってたろ。……ゴミの山になって、散らかり放題になってやしなかったかい?」
ミレイは小さく首を横に振った。
「チリ一つ落ちていませんでしたよ。石畳の上まで、綺麗に磨き清められていました」
男はぽかんと口を開け、それから笑い混じりに息を吐いた。
「……そうかい。あんなに好き勝手放り込んでたのに、綺麗に受け取ってくださったのか」
張り詰めていた周囲の空気がふっと緩み、住民たちが帽子を脱いで互いの肩を叩き合う。
笑い声がいくつか、天幕の方へ流れていった。
ミレイは小さく頷くと、ヘルメットを抱え直して詰所の天幕へと足を踏み入れた。
---
カタン、カタン、とレールの継ぎ目を拾う音だけが、漆黒の坑道に低く反響していた。
フロントガラスに張り付いていたノアが、振り返ってソファーへ駆け寄ってきた。
背もたれに小さな両手をかけ、覗き込むように顔を寄せてくる。
「シュン、暗闇の奥、ずーっと向こうまでレールが続いてるよ!」
「……うん。どこまでも自由に行けるね」
シュンが小さく頷くと、端末のモニターを閉じたシエラが静かに告げた。
「後方センサー、反応はありません」
「ふふ、これで誰にも邪魔されませんね〜」
リリアが胸元で両手を合わせる。
シュンは小さく笑い、ソファーの背もたれに寄り添うノアの頭にそっと手を置いた。
ローテーブルのカップの中で、珈琲はゆっくりと冷めていく。液面は、やはり揺れていなかった。
最後までお読みいただきありがとうございました!
「間一髪の脱出劇にハラハラした!」「走る我が家がロマンすぎる!」「神様の痕跡にウルッときた!」「ミレイ主任お疲れ様!」と感じていただけましたら、広告下部の【ブックマークに追加】や【ポイント評価(★)】で応援していただけると大変励みになります!
次回はいよいよ本編最終話、明日【18:00】に更新予定です!




