第72話 尽きた猶予、残された最後の一夜
ソファーの前に立ったシュンは、両手をゆっくりと開いては握りしめた。
指関節を一本ずつ曲げ、手首を回す。
「手の痛みは、もう大丈夫ですか〜?」
ふわりと甘い湯気を立てる陶器のカップをトレイに載せ、リリアが歩み寄ってきた。
「うん、リリアのおかげで完全に動くよ。昨夜あんなに強張っていたのが嘘みたいだ」
リリアが小さく微笑み、淹れたてのハーブティーをテーブルに置いた。
そこへ、床下の配管ピットから上がってきたシエラが、作業用グローブを外しながら合流する。
「床下のバイパス結線、絶縁測定ともに異常なしです。……アラームの前に起きてこられるとは、普段の怠惰が嘘のようですね」
「……失礼だな。いくら何でも、こんな時はちゃんと起きるよ」
「その意気込みを、平時にも発揮していただきたいものですが。……まあ、自覚があるなら結構です。配管の遮断弁、いつでも動かせます」
シエラが手元の整備端末を軽くタップし、琥珀色の瞳を向けてくる。
「シュン、ボクも起きたよ! ほら、炉心魔力も100%!」
リビングの扉から、ノアが小走りで駆け込んできた。
長い裾を揺らしながら、シュンの腰元へと無邪気に飛びついてくる。
「よし、全員揃ったね。……それじゃ、今日の工程に入ろう」
シュンは温かいハーブティーを一口含み、息を吐いてカップを置いた。
リビング奥の配管ピットへ向かうと、壁面には太い真鍮製の送水管や吸排気ダクト、高圧の基幹送電線が整然と並んでいた。
これまでゼロ・ターミナルの生活を支えてきた外部インフラだ。
その接続部には、旧軍規格のワンタッチ高圧カプラーが噛み合っている。
「リリア、水耕プラント側の循環弁をバイパスへ切り替えて」
「はい〜」
リリアが壁面の配管盤へ滑らかに歩み寄り、金色のバイパスレバーを倒した。
「内部タンクへの切り替え、完了しました〜」
シュンはカプラーの安全ピンを引き抜き、鋼鉄製の遮断レバーを両手で握った。
腰を落とし、一気に押し倒す。
ガチン、と重厚な金属音が響いた。
カプラー内部のスプリング弁が瞬時に噛み合い、外部配管を寸分の漏れもなく密閉する。
同時に基幹送電線の大型コネクタも外れ、壁面の端子盤から重い遮断音が上がった。
一瞬、天井のブラケットライトが微かに瞬く。
だが次の瞬間には、居住区下部の主魔導炉と蓄電池から安定した魔力が送り込まれ、光は元の明るさを取り戻していた。
壁面の計器パネルに並ぶインジケーターが、次々と鮮やかな緑色に点灯していく。
「外部系統、切り離し完了です」
端末のログを確認したシエラが、淡々と告げた。
「よし。これでいつ走り出しても、外の配管を引きちぎる心配はないね」
シュンは作業着の袖をまくり上げ、居住区のリビングを見渡した。
「次は……一番大事な、部屋の固定作業だ」
「固定作業? 何を留めるの?」
小首をかしげるノアに、シュンは真剣な顔で頷いた。
「ここが走り出したら、レールの振動やカーブの遠心力で部屋中が激しく揺れる。……お気に入りの食器や真空管が割れたら、立ち直れそうにないからね」
「落ち込むのは勝手ですが、散らばった破片を踏んで怪我をされるのは困ります。……備品の固定は重要項目です」
シエラが工具箱からドライバーとボルトを取り出し、シュンに手渡した。
厨房では、リリアが手際よく食器棚に耐震ラッチを取り付け、グラスや調味料の隙間に緩衝材を挟み込んでいく。
「これなら、どんなに揺れても一本も倒れませんね〜」
カチリと心地よいラッチの音が鳴り、次はリビングの大型什器だ。
革張りソファーや真空管ラックの脚部を、床の埋め込みレールへアンカー金具で挟み込み、太い六角ボルトを差し込んでいく。
「シュン、ボクが締める! トルク、いくつ?」
工具箱を抱えたノアが、隣で目を輝かせている。
「45。頼めるかい?」
「まかせて!」
ノアは小さな手でレンチを構え、淀みない手つきでボルトを締め上げていく。
グッと手応えが乗った瞬間、レンチがぴたりと止まった。
「すごいな。ゲージなしで、一発で規定値通りだ」
「えへへ、力任せなだけじゃないよ。ボクの腕のサーボ、ちゃんと手加減できるんだから!」
残る什器や工作室の備品固定を一通り終えると、シュンとシエラは台車下部へと潜り込んだ。
車軸の上に組み込まれた大型の油圧ダンパー。
シュンはレンチの先をあてがい、調整バルブのノッチを一段ずつ慎重に回していく。
「……シエラ、これでどう?」
「……軍用の足回りとは思えないほど、過剰に柔らかいセッティングですね」
携帯テスターを覗き込んでいたシエラが、琥珀色の瞳を向けてくる。
「走り出したら、部屋を揺らしたくないんだ。できる限り衝撃を減らしておきたい」
「……同感です。部屋に軋みひとつ作らせるわけにはいきません」
シュンは小さく頷き、台車から這い出て前部の運転席へと向かった。
運転コンソールには、真鍮のマスコンレバーと重厚な計器類が並んでいる。
壁面の大型高圧ブレーカーを掴み、一気に押し上げた。
重い金属音とともに、ブレーカーが噛み合う。
電圧計の針が滑らかに跳ね上がり、所定の直流電圧を指して静止した。
オシロスコープの緑色の光線が、ノイズのない美しい直線を描き出す。
シュンは深呼吸をひとつし、マスコンレバーに手を添えた。
ノッチを極低速の『第1ノッチ』へと、わずかに倒す。
主蓄電池から、直流魔力が流れ込んだ。
整流子を磨き上げた主電動機が、腹の底を震わせるような極低周波の唸りを上げて励磁する。
重厚な台車の鉄車輪が、レールの上でギシリと軋んだ。
車体がわずかに前へと身じろぎする。
「動いた……!」
シュンは即座にブレーキ弁を操作した。
鋭い排気音とともに、鉄車輪が再びレールをしっかりと噛んで停止する。
床下でテスターを構えていたシエラが、運転席へと顔を上げた。
「コイル温度、回転トルクともに安定。……自走系統、正常に生きています」
「よし……!」
シュンは小さく拳を握った。
停止した車輪の周りから、熱せられた機械油の匂いが微かに立ち上っている。
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夜が更け、構内は静まり返っていた。
ひとまず本日の走行テストを終え、リビングのソファーで一息ついていたときだった。
壁面の通信コンソールから、低く電子音が響いた。
「ジュリアンさんからだ……こんな夜遅くに何だろう」
シュンは立ち上がり、コンソールへと歩み寄った。
受話スイッチを指先で押し上げ、回線を開く。
「はい、シュンです」
『やあ、親友。夜更けにすまないね』
スピーカーから響いてきたのは、いつになく弾んだ声だった。
「いえ……何かありましたか」
『君が気にしていた配管工事の件だ。第3工区の水密試験が、一発で通ってね』
「……はい」
『工程が前倒しになったんだ。役員会が、繰り上げ日程を先ほど承認したよ』
シュンの背筋に、冷たい汗が伝った。
『東端の閉鎖空洞の点検は、明朝9時着手だ。工程表を送ろう』
コンソールの小型モニターに、転送された工事工程表が映し出される。
『東端閉鎖空洞 事前安全点検:翌朝09:00着手』
シュンは息を呑み、言葉を失った。
『君の後輩たちは優秀だね。これで安心して眠れるだろう?』
スピーカーから快活な笑い声が響く。
シュンは凍りついた喉を唾で湿らせ、かすれた声でマイクへ応えた。
「あ……はい……ありがとうございます、ジュリアンさん。わざわざ、ご連絡を……」
『親友に真っ先に知らせたかったのさ。では、おやすみ!』
プツリ、と通信が切れた。
静まり返ったコンソール。
シュンは受話スイッチを戻すと、そのまま天板の上に突っ伏した。
両手で頭を抱え込み、深い呻き声を漏らす。
「……嘘だろ……なんでそんなに優秀なんだよ、ミレイさんたち……!」
「シュン様……?」
心配そうに駆け寄ってきたリリアが、丸まったシュンの背中にそっと手を添える。
シエラとノアも、コンソールの画面を覗き込んだ。
「……明朝9時。ジュリアンさんが稼いでくださった猶予が、一晩で消えたということですね」
シエラの声が低くなった。
「朝9時に地上が始業したら、点検班があの防爆扉のすぐ外に来る……。すぐそこに人がいる状態で動かすのは、あまりにリスクが高すぎる」
シュンは顔を上げ、三人を見つめた。
「現場が無人になって、スラムの街が完全に寝静まる深夜……未明のうちに発車するしかない」
「同感です。地上の環境騒音と振動が途絶える午前3時前後が、もっとも安全な時間帯です」
シエラが冷静に頷いた。
「よし……それなら、最後の準備を終わらせよう」
シュンは立ち上がり、プラットホームの最奥へと向かった。
三人がその後に続く。
線路の終端に立ち塞がるのは、見上げるほど巨大なコンクリート製の車止めと、頑丈な岩壁だ。
外見はただの行き止まりだが、凹凸塗装されたプレートの奥に油圧機構が組み込まれている。
壁面の点検カバーを開けると、真鍮の銘板に『深度連絡用・可動防爆遮断弁 V-704/M』の刻印が刻まれていた。
シュンは奥に収められた頑丈な油圧操作レバーを両手で掴んだ。
「行くよ」
レバーを一気に押し倒す。
グオオオ……と、大地を震わせるような重低音が響いた。
高圧油圧シリンダーが唸りを上げ、巨大な遮断弁が作動を始める。
手前のコンクリート製車止めが左右へ割れて退避し、背後の偽装岩壁が岩盤のスリットへ引き込まれていく。
床下の鋼鉄製渡り板がバタンと倒れ、レールが繋がった。
現れたのは、底知れない漆黒の闇。
その奥へと、鈍い光を放つ2本の鉄レールが吸い込まれるように伸びていた。
地下深くの冷涼な空気が、遮断弁の隙間からプラットホームへと音もなく吹き抜けてくる。
「進路、開通しました」
シエラが暗闇を見つめ、静かに呟いた。
ゼロ・ターミナルの淡い照明が、漆黒のトンネルの入り口を照らし出している。
2本のレールの先は、光が届く前に闇へ溶けていた。
最後までお読みいただきありがとうございました!
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