第66話 ピンチは思わぬところからやってくる
結露したグラスの表面を、細かな水滴がつうと滑り落ちた。
指先に伝わる心地よい冷たさを確かめながら、シュンは水出しのアイス珈琲を一口含む。
低温で時間をかけて落とした深い苦味が、舌の上で静かに広がっていく。
ソファーの背もたれに深く身体を沈め、薄手の部屋着の襟元をわずかに緩める。
壁面の環境モニターに目をやると、地上の外気温は午後の陽射しを受けて34度を示していた。
だが、この地下リビングを満たす空気は、肌を撫でるようにさらりと冷えている。
「……極楽だなぁ」
誰に聞かせるでもなく、小さく息を吐き出す。
ピピ、と澄んだ電子音がリビングの壁面から響いた。
埋め込まれた通信コンソールの表示板に、緑色の魔導インジケーターが点灯する。
「電信ニュースですか?」
冷えたガラスポットを手にしたリリアが、穏やかな声で尋ねてきた。
シュンはソファーから身を起こし、手元の操作端末に画面を転送する。
「帝国魔電公社の公式発表だね。……どれどれ」
流れてきた見出しに目を走らせ、シュンは軽く眉を持ち上げた。
「……へえ。スラム未整備区画の本格インフラ改修計画、正式に決裁が下りたんだ」
「スラムの、ですか?」
壁際に佇んでいたシエラが、静かに視線を向けた。
端末の文字を覗き込むように、わずかに歩み寄ってくる。
「送電線だけじゃなくて、配管網と魔導導管まで全線張り替え工事に入るみたいだ。……すごいな。僕がいた頃は、どれだけ現場が悲鳴を上げても『スラムに回す予算はない』って一蹴されてたのに」
「経営陣が刷新された影響でしょうか」
「うん。現場の保全に、ちゃんと正規の予算と人員を回したみたいだ。……新しい体制、ずいぶん仕事が早いなぁ」
シュンは手元の端末から顔を上げ、満足そうに目を細めた。
「これでミレイさんたちも、少しは報われるかな。サービス残業で現場を繕う必要もなくなったわけだし」
グラスに残った最後の一口を飲み干し、ソファーの背もたれにゆったりと両腕を預けた。
ふう、と満足そうに息を吐き出す。
「やっぱり、外で働くもんじゃないね。こうやって涼しい部屋から後輩たちの頑張りを眺めてるのが一番だよ」
「……どこまでも怠惰な元・主席技師ですね」
「いいんだよ。もう退職届を出した無関係の人間なんだからさ」
シエラの呆れた視線を受け流しながら、空になったグラスをローテーブルに置く。
「ノアちゃん、冷たい麦茶のおかわりはいかがですか〜?」
「ありがとう、リリア。冷たくておいしい」
ノアが両手で小さなグラスを受け取り、唇を寄せる。
こくりと喉を鳴らして飲むと、冷たさに目を細めながら満足そうに息をこぼした。
「せっかくだし、後輩たちがどんな工区割りで作業するのか見ておくか」
スラム東部工区の配管ルート図を拡大する。
新設される排水バイパスの敷設ラインを追っていた指先が、画面の中央で不意に止まった。
「……ん?」
図面の一角に、見慣れた記号が記されていた。
スラム東部の境界線、崩落した旧鉄道高架の直下。
住民たちが『地下の神様』の祭壇として祀り、毎日手を合わせているあの場所——。
「……物資受取シュートの、すぐ真横……?」
呟きながら、添付された事前調査メモを拡大する。
そこに並んでいた活字が、シュンの視界に飛び込んできた。
『当該縦穴直下は、公社台帳上「高濃度有毒ガス充満・崩落危険区域(スラム東部閉鎖空洞)」に該当』
『掘削着工の前提工程として、閉鎖防爆扉を開放し、坑内ガス濃度測定および地盤安全確認調査を実施する』
「……有毒ガス、充満……」
口の中で繰り返した文言に、指が止まった。
「……これ、僕が台帳に書き込んだ偽装じゃないか……」
背筋を、冷たい汗がつうと伝い落ちた。
端末を握る指先から、急速に血の気が引いていく。
「シュン? どうしましたか」
端末を凝視したまま動かないシュンに、シエラが怪訝そうに眉を寄せた。
「お、終わった……」
指先から滑り落ちた端末がローテーブルの端を叩き、空のグラスがカチャリと甲高い音を立てる。
シュンはそのまま、力なくソファーからずるりと滑り落ちた。
「シュン様!?」
リリアの驚く声を背に受けながら、絨毯の上に膝をつく。
そのまま、目の前に立っていたシエラの脚に、すがるように額を預けた。
「……シエラ。……調査班が、ここに来る……」
掠れた声で漏らすシュンを、シエラは眉一つ動かさず見下ろした。
「……私の脚は避難壕ではありません」
「それどころじゃないんだよ……! 扉を開けられたら、全部見つかっちゃう……!」
「頭部の熱源スキャン値が跳ね上がっています。まず頭を冷やしなさい」
シエラはひんやりと冷えた掌を、シュンのうなじにそっと当てた。
染み込む冷涼な温度に、シュンは肩をすくめて身を縮める。
「シュン様、落ち着いてください〜」
リリアが駆け寄り、隣で膝を折る。
温かい手が、シュンの背中をぽんぽんと優しく撫でた。
「大丈夫ですよ〜。深呼吸してくださいね〜」
「リリア……ありがとう……でも、それどころじゃないんだ……」
絨毯の上で小さくなっているシュンの横に、ノアがしゃがみ込んだ。
シュンの顔の高さまで首を傾けて、覗き込んでくる。
「シュン、なにしてるの? シエラお姉ちゃんの足、つめたい?」
「つ、冷たいけど……そうじゃなくてね……!」
ノアのあまりに真っ直ぐな視線に耐えかね、シュンは両手で顔を覆った。
耳の先までカッと熱くなり、絨毯に額を埋める。
「……消えたい……穴があったら入りたい……」
「ここ、地下ですよ」
頭上から降ってきたシエラの平坦な声に、リリアが小さく吹き出した。
リリアに背を支えられ、シエラに腕を引かれて、シュンはどうにか立ち上がった。
ソファーに崩れるように腰を下ろし、深く息を吐き出す。
ローテーブルから端末を引き寄せ、画面の工程表を睨みつける。
「……とにかく、落ち着こう。……問題は、いつ調査班が来るかだ」
「日程の記載は?」
「概要資料だから『今期第2四半期着工』としかない。具体的な日にちまでは分からないんだ」
「サーバーへ侵入しますか?」
「いや。前の体制ならともかく、今の公社は監査がまともに機能してる。下手に探れば、すぐに足がつくよ」
腕を組み、シュンは低く唸った。
「……ジュリアンさんに聞くしかないか」
シエラが、琥珀色の瞳をわずかに細めた。
「……一度捕まると話が長いからと、普段は敬遠しているくせに」
「……親友面されると胃が痛いんだけどね。でも、あの人なら未公開の詳細工程表を持ってるはずだから」
「背に腹は代えられない、と」
「……うん。正確な猶予を知らないと、手の打ちようがないからね」
シュンは重い溜息とともに、発信レバーを押し倒した。
金属の冷たい手応えとともに、端末のインジケーターが静かに緑色の点滅を始める。
最後までお読みいただきありがとうございます!
本話より、いよいよ物語はクライマックス――【本編最終章:深層要塞完全自立・新天地脱出編】が開幕いたします!
公社の再建を見届け、再びゼロ・ターミナルでの平穏な隠居生活へ戻ったシュンたち。
しかし、スラムのインフラ改修に伴い、地下要塞の存在を揺るがす「最大の危機」が訪れることに……!?
隠居の聖域を守るため、お揃いの作業着に身を包んだ4人の総力戦が今、始まります!
「最終章も楽しみ!」「4人の物語を最後まで読みたい!」と思っていただけましたら、広告下部の【ブックマークに追加】や【ポイント評価(★)】で応援していただけますと大変励みになります!
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