第65話 公社再生の第一歩。退屈して外に出た男の反省
アンダー・スラッグの廃線路広場に、昼の熱を溜め込んだ夕暮れの風が、ぬるく吹き抜けていく。
錆びついたレールが続く側溝の脇、石造りの足湯処からは、濁りのない白い湯気が穏やかに立ち上っていた。
石の縁に腰を下ろしたミレイは、荒々しく息を吐き出した。
煤と油で薄汚れ、汗が張り付いた作業着の袖口を乱暴に捲り上げる。
紐を緩めた編み上げブーツから足を抜き、丸めた靴下を放り込むと、素足を湯の中へと沈めた。
熱が足先からじわりと染み渡り、強張っていたふくらはぎの筋が緩む。
だが、頭の奥にこびりついた苛立ちは、湯気の中へ溶けてはくれなかった。
ミレイは足先を跳ね上げ、水面をバチャバチャと蹴立てた。
「……っ、もう! あいつを追い出したまでは良かったけどさぁ……!」
跳ね上がった飛沫が、石畳に暗い染みを作る。
作業着の胸ポケットで、呼び出し用の携帯端末がまた短く震えた。ミレイは見もせずに、上から掌で押さえつけた。
「指示を出す管理職もいないし、これからどうやって組織を立て直せばいいのか現場の私に分かるわけないでしょ……!」
吐き捨てた叫びが、がらんとした広場に虚しく響く。
水面を睨みつけ、再び足を振り上げようとした瞬間だった。
「ずいぶんと荒れ模様の波紋だね、ミレイ技師」
穏やかな声が、頭上から降ってきた。
ミレイは弾かれたように顔を上げる。
目立たない生成りの麻の上着を羽織り、手元に畳んだタオルを携えた青年が立っていた。
整った顔立ちに浮かぶ、見覚えのある薄い微笑み。
「え……あ、ローゼンバーグ卿……!?」
「足はそのままでいい。邪魔をしてしまったかな」
ジュリアンは上着の裾を軽く払い、ミレイから少し離れた縁へと腰を下ろした。
丁寧に革靴と靴下を脱ぎ、白い足を湯の中へと滑り込ませる。
「ふぅ……。やはりここの湯は格別だね。熱交換の調律が見事に行き届いている」
「……卿の前で愚痴るなんて、見苦しいところをお見せしました」
「構わないさ。ここには身分も肩書きもない。ただ湯に足を浸す者同士だよ」
ジュリアンは湯面に広がる波紋を眺め、柔らかく目を細めた。
「それに、せっかくの湯だ。胸につかえているものがあるなら、ここに流していけばいい」
ミレイは抱えた膝に顎を乗せ、揺れる湯面を見つめたまま、ぽつりと口を開いた。
「……現場が、もう限界なんです」
ジュリアンは何も言わず、湯面に目を落としたまま続きを待った。
「厄介な人は、追い出せたんです。でも、指示を出せる人が誰もいなくて。今日だけで、復旧の決裁が十七件、宙に浮いたままで……」
「ふむ。舵取りを失った船を、機関士たちだけで動かしているわけだ」
「……私、どうすればいいのか」
ミレイは抱えた膝に顔を埋め、小さく息を吐いた。
ジュリアンは湯から視線を上げ、穏やかな声で告げた。
「君が一人でそこまで背負い込む必要はないよ。技術を真摯に愛する者が、組織の瓦解に巻き込まれて擦り切れるのは帝国の損失だ。……明日、現場に少しばかりの『手当』を手配しよう」
「え……手当、ですか?」
「ああ。組織の歪みは、現場の技師が背負うべきものじゃない。波紋を蹴立てる必要は、じきになくなるはずだ」
ミレイは目を丸くしたあと、ふっと肩の力を抜いた。
湯の中で、強張っていた爪先がゆるりと開く。
「……ありがとうございます」
言いながら、ミレイの視線は湯面の一点に落ちたまま、戻ってこなかった。
ジュリアンは湯に指先を浸し、小さな波紋を一つ作った。
「……だが、まだ浮かない顔をしているね。何か心配なことでもあるかい?」
思いがけない指摘に、ミレイは小さく息を呑み、慌てて視線を伏せた。
「いえ……公社のことじゃないんです。辞めてしまった先輩に、ただ、会いたくて」
「それでその顔ということは、会えないわけでもあるのかい?」
「はい。突然辞めてしまわれてから、ずっと連絡も取れなくて……」
ミレイは抱えた膝に顎を乗せ、揺れる湯面を見つめた。
「でも昨日、運河沿いの遊歩道で……先輩の作業着を着た、小柄な女の子を見かけたんです」
「ほう。先輩の服だと、よく分かったね」
「袖口の補修です。……あんな結び方をする人、帝都に一人しかいません」
ミレイの声に、ほんの少しだけ熱がこもった。
「その子を追えば先輩に会えるかもしれないと思ったのに、声をかけようとした時には、人混みに紛れて見失ってしまって……」
ミレイはぎゅっと拳を握りしめ、悔しそうに唇を噛んだ。
「なるほど。手がかりを逃してしまったのが、心残りなわけだね」
「はい……」
ジュリアンは湯面に視線を落とし、穏やかな声で言葉を継いだ。
「君にとって、とても大切な先輩なんだね。……よければ、その技師の名を教えてくれないかい? 私のところでも、何か耳に入るかもしれない」
「……シュン先輩です」
ジュリアンは湯気の中で、わずかに目を見開いた。
直後、手元のタオルで口元を覆い、漏れそうになった笑いを必死に押し殺した。
「……すまない、少し咽せてしまった。……分かった、心に留めておくよ。もし何か分かったら、君にも知らせよう」
「はい……! ありがとうございます」
ジュリアンは湯から足を上げ、持参したタオルで丁寧に水滴を拭い取った。
靴を履き直すと、上着を整えて立ち上がる。
「今夜は足を温めて、ゆっくり眠るといい。明日を楽しみに」
ジュリアンはそれだけ言い残し、薄暮のスラム街へと静かに背を向けた。
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翌朝、第3調律室の重い鉄扉を開けた瞬間、焦げ付いた絶縁材と重油の臭いが鼻を突いた。
油煙の立ち込める室内では、作業灯の光の下で技師たちが慌ただしく行き交っている。
「第4バイパスの予備コイルはどうなってる!?」
「倉庫は空です! 在庫圧縮で、先月ぜんぶ売却されてます!」
疲労で血走った目を擦りながら、ミレイが工具箱を抱えて指示を飛ばす。
その時、背後の扉が再び開いた。
濃紺のスーツを纏った男が、一人で足を踏み入れてくる。
調律室の喧騒がふっと途切れ、技師たちがスパナを握る手を強張らせた。
男は油煙や散乱する配線に眉ひとつ動かさず、ミレイの前まで真っ直ぐに歩み寄る。
無言のままスーツの上着を脱ぎ、近くにあったパイプ椅子の背もたれに掛けた。
さらに白シャツのボタンを外し、肘の上まで手際よく袖を捲り上げる。
「おはようございます。筆頭株主であるローゼンバーグ卿より公社再建の特命を帯びました、再建コンサルタントのハドソンです」
「……コンサル? 役員室なら、本社の最上階ですが」
ミレイが警戒を滲ませて告げると、ハドソンは粗末なパイプ椅子を一つ引き寄せ、腰を下ろした。
「役員室に用はありません。技術のプロはあなたたちです。私には配線の繋ぎ方も分かりませんし、プロの仕事に素人が口を挟む気もありません」
ハドソンは視線を真っ直ぐにミレイへ合わせた。
技師たちはスパナを握る手に力を込め、誰も口を開かなかった。
ミレイもまた、抱えた工具箱に指を食い込ませたまま、硬い視線を外さない。
ハドソンはその沈黙を意に介さず、作業机の上に山積みされた『30分実績報告シート』の束を引き寄せ、パラパラと指先で捲った。
「……書くのに15分、読む人間はゼロ。現場に責任を押し付けるための紙屑ですね」
言い捨てると同時に、ハドソンは書類の束を足元の屑籠へ無造作に投げ捨てた。
ドサリと重い音が響く。
「本日付で全廃します。記録はテスターの自動ログ1本に統一してください。浮いた工数はすべて、現場の巡回と点検に充てなさい」
調律室のあちこちから、息を呑む気配が漏れた。
技師たちが顔を見合わせ、目を見開く。
「……ミレイ技師。役員会へ行きます。ついてきなさい」
ハドソンはパイプ椅子から立ち上がった。
背もたれに掛けた上着には目もくれず、捲った袖のまま扉へ向かう。
本社最上階の役員室には、昨日の熱気がまだ澱んでいた。
窓際に運び込まれた業務用の送風機が、生ぬるい空気をかき回している。
ミレイは扉の脇に立ったまま、工具箱の取っ手を握り直した。
汗染みの浮いたシャツの役員たちが押し黙る円卓の中央へ、ハドソンは数枚の書類を滑らせた。
「削った保守費が年間で金貨八百枚。昨日一日の損害見積もりは、その四十倍です」
「し、しかし……人員を増やせば、今期の収支が……」
「次に同じ事故が起きれば、株主代表訴訟の被告席に座るのは、皆さん個人です」
ハドソンは胸ポケットから万年筆を抜き、キャップを外して円卓に置いた。
「保全予算の全面復活と、人員の即時補充。——決裁欄はそこです」
しばらく、送風機の唸りだけが続いた。
やがて一人の役員が、汗ばんだ手で万年筆を取った。
役員室を出た廊下で、ハドソンは足を止めた。
胸ポケットから取り出した1枚の用紙を、ミレイへと差し出す。
「……これは?」
「現場リスクを財務リスクに翻訳する申請テンプレートです」
ハドソンは淡々とした口調で告げた。
「現場の技師がどれほど『危ない』と叫んでも、経営陣の耳には『現場のわがまま』としか届きません。……心当たりがあるでしょう?」
「……はい」
「彼らが動くのは『金額』と『法的リスク』だけです。これからはあなた自身が、この数字を突きつけて役員会から予算をもぎ取りなさい」
「私が……」
「ええ。あなたが」
ハドソンは、ほんのわずかに口元を緩めた。
「……現場を頼みますよ」
ハドソンはミレイの肩を、軽く一度だけ叩いた。
「では。私はまだまだやることがありますので、これで」
踵を返し、迷いのない足取りで廊下の奥へと歩み去っていく。
手渡された紙の確かな重みを指先に感じながら、ミレイは背筋をぴんと伸ばした。
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ゼロ・ターミナルのリビングは、穏やかな夜の空気に包まれていた。
シュンはソファーに身を預け、湯気の立つマグカップに口をつける。
深い焙煎の香りが、鼻腔を心地よく満たしていった。
壁面の通信コンソールから、低く電子音が響いた。
「……ジュリアンさんからだ」
シュンはカップをローテーブルに置き、コンソールへと歩み寄った。
受話スイッチを指先で押し上げると、スピーカーから楽しげな声が流れてくる。
『夜分にすまないね、シュン。……公社に、ミレイという技師がいるだろう? 君の後輩かい?』
「……えっ、ミレイさん? どうしてジュリアンさんが彼女の名前を……」
『昨晩、彼女が言っていたよ。君の作業着を着た女の子を、街で見かけたとね』
「…………え」
『それで、親友。君はいったい、女の子に何を着せて——』
「な、何を言って――!」
考えるよりも早く、右手がコンソール脇の物理強制遮断レバーを押し倒していた。
ガチャン、と重い金属音が響き、スピーカーの音声がプツンと途絶える。
背後から、衣擦れの音が微かに聞こえた。
振り返ると、シエラが琥珀色の瞳を細めて佇んでいた。
「……生体ではなく機巧ですが。囲っている点については、あながち否定できませんね」
「……僕としては、どっちかっていうと、囲まれてる側なんだけどね……」
シュンは情けなく肩を落とし、苦笑いを零した。
ソファーへ戻ろうとした視線が、ふと壁の木製ハンガーで止まった。
掛けられているのは、おととい買ったばかりの日だまり色のサマーワンピース。
その前で、ノアが柔らかな布地にそっと指を触れていた。
「シュン、新しい服を買ってもらえて本当に嬉しかった。ボク、またみんなでお出かけしたいな」
振り返ったノアの顔には、屈託のない笑みが浮かんでいた。
そのワンピースと、ノアが現在着ているダボダボの作業着パーカーを見比べた瞬間、シュンの思考が完全に凍りついた。
「……あ」
固まったまま、シュンは恐る恐る口を開いた。
「……シエラ。僕たち、おととい一番最初にどこへ行ったっけ……?」
「高架下のジャンク市ですね。目当ての旧軍用端子とフランジを見つけて、シュンが夢中で買い込んでいました」
「……その次は?」
「運河沿いでチュロスを食べ、仕立て屋でノアのワンピースを購入しました」
「……ノアを着替えさせたのは?」
「帰宅後です。それまでノアは、そのパーカーのまま紙包みを抱えて歩いていました。……袖口の補修を、帝都中に見せびらかしながら」
「…………」
「……ええ。服を買いに出たはずが、最初に向かったのはジャンク市でしたからね」
シュンは両手で頭を抱え、その場に崩れ落ちた。
「……順番も、着替えも……。最初から仕立て屋に行って、その場で着替えさせればよかった……」
絨毯に額を擦りつけるシュンを見下ろし、シエラが小さく息を漏らす。
情けなく丸まっている背中に、ふわりと温かい気配が寄り添ってきた。
「ジャンク市のシュン様、ずうっと目をきらきらさせていらしたって。ノアちゃん、とっても嬉しそうに教えてくれたんですよ〜」
リリアが穏やかな笑みを浮かべ、湯気立つハーブティーのカップを差し出してくる。
「……久々に外に出て、ちょっと浮かれすぎたかなぁ」
シュンは照れくさそうに頭を掻いた。
受け取ったカップを両手で包み込む。柑橘とハーブの穏やかな香りが鼻先をくすぐった。
温かいハーブティーを一口含み、ゆっくりと息を吐き出す。
いつの間にか隣に来ていたノアが、パーカーの袖口でシュンの指先をちょんとつついた。
「シュン。次は、最初にお洋服屋さんね」
「……はい」
シエラが小さく鼻を鳴らし、リリアがくすくすと肩を揺らす。
ノアの萌え袖の端で、半透明の絶縁糸の螺旋が、読書灯の光を受けて鈍く光った。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!
第65話をもちまして、【第5章:外に出て初めてわかることと、現場軽視の机上論編】が完結となります!
軍用トロッコでの初夏ピクニックに蚤の市での部品調達、そして手作りジェラート機を囲む至福のおやつとお昼寝。
現場を無視した机上論コンサルの痛快な自滅と、公社再建への確かな第一歩――。
シュンと3体の美少女オートマタたちが紡ぐ温かな初夏の日常を、最後まで見届けてくださり本当にありがとうございました。
もし「第5章も面白かった!」「4人の日常に癒やされた!」「自滅ざまぁが痛快だった!」「シュンの買い物の反省に笑った!」と感じていただけましたら、ぜひ広告下部にある【ポイント評価(★★★★★)】や【ブックマーク追加】で応援していただけますと幸いです。作者の執筆の最大の励みになります!
第6章も明日【18:00】より更新予定ですので、どうぞお楽しみに!




