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第62話 積み重ねる大切な思い出。削られた安全マージンの限界

 天井の給気スリットから、ひんやりと澄んだ冷気が静かに吹き下りている。

 壁面の環境モニターでは、地上の気温表示がまだ午前のうちに30度を越えていた。


 工作室の作業台の前で、シュンは小型の撹拌レバーに手を添えていた。

 そのすぐ隣では、ノアが台の縁にちょこんと両手をかけ、爪先立ちでシリンダーの中を覗き込んでいる。

 肌触りの柔らかな綿の部屋着が、身を乗り出すたびに軽やかに揺れていた。


「ノア、あんまり顔を近づけると跳ねちゃうよ」


「……ん」


 ノアは少しだけ身を引いたものの、その視線はシリンダーの奥に釘付けのままだ。


「シュン、これ、もうできた?」


「もうすぐだよ。しっかり冷やしながらかき混ぜないと、口当たりが重くなっちゃうからね」


 作業台の上で、霜をまとった銅ブロックの奥から、小型モーターの静かな唸りが響いている。

 二重反転スクリューが滑らかに回転し、完熟野木苺のペーストと濃厚生クリームが濃密なフローズン状へと仕上がっていく。


「よし……トルクが安定したな。スクリュー停止」


 シュンがレバーを戻し、固定ボルトを緩めてシリンダーを引き抜いた。

 金属の蓋を外した瞬間、甘酸っぱい野木苺の芳醇な香りと、白い冷気が溢れ出す。

 中には、きめ細かく空気を含んだ、淡い紅紫色のジェラートが美しく満ちていた。


「わあ……」


 ノアの口から、感嘆の息が小さくこぼれる。


 工作室の扉が開き、リリアがトレイを運んできた。

 銀のスプーンと、霜の降りたガラスのデザートグラスが人数分並んでいる。


「シュン様、ノアちゃん。準備できましたよ〜」


 その後ろから入ってきたシエラが、作業台の上に立ち上る冷気を見やり、小さく息を吐いた。


「……朝食も摂らずに工作室にこもっていると思えば」


「溶けないうちに食べよう。リビングへ運ぶよ」


 シュンはディッシャーを手に取り、滑らかなジェラートを丸くすくい取ってグラスへと盛り付けた。


 リビングのローテーブルを囲み、四人はグラスを手に取る。

 ノアは小さな銀のスプーンを、器のジェラートへとそっと沈めた。

 抵抗もなく滑らかに入り込み、すくい上げた一口をおずおずと口元へ運ぶ。


 舌に乗せた瞬間、ノアの動きがぴたりと止まった。

 スプーンをくわえたまま、トパーズ色の瞳がゆっくりと丸くなる。


「……街のと、ちがう」


 ぽつりと、掠れた声がこぼれ落ちた。


「街のはしゃりしゃりしてたのに……これ、口の中で、すうって溶けていく」


「朝摘みの木苺だからね。それに、今度はちゃんと空気を含ませながら冷やしたんだ」


 シュンが笑いかけると、ノアは目を丸くしたまま何度も頷いた。


 そして、ノアはスプーンでもう一口すくい取ると、ふと思い立ったように背筋をぴんと伸ばした。

 スプーンの底に小さな左手をそっと添え、首をわずかに傾ける。

 真剣な、少しすました顔つきでスプーンをシュンの口元へ差し出した。


「シュン、はい。あーん」


 まっすぐな眼差しと、一生懸命に差し出されたスプーン。


「えっ……あ、うん」


 面食らいつつも、シュンは口を開けて差し出された一口を受け止めた。

 澄んだ野木苺の香りとミルクの濃厚なコクが広がり、思わず相好を崩す。


「……うわ、めちゃくちゃ滑らかだ。大成功だな」


 褒められたノアは、誇らしげに小さな胸を張った。

 その様子を正面から見ていたシエラが、スプーンをグラスの縁にかちりと置いた。

 視線だけを、隣のリリアへ滑らせる。


「……リリア。あなたの過剰な甘やかし癖が、ノアに妙な学習をさせています。自分で食事ができる相手に、わざわざ食べさせようとするなど無駄な手順です」


「ふふ、とってもお上手でしたよ〜。ちゃんと綺麗に差し出せていましたね〜」


 リリアは少しも動じることなく、ノアの柔らかな頭を優しく撫でた。


「……人の話を聞きなさい」


 シエラが額に指先を当てる横で、ノアは満足そうに自分のグラスへと向き直った。

 今度は夢中になってスプーンを動かし、小さな口いっぱいにジェラートを頬張り始める。


「あ、ノア。口元についてるよ」


 シュンが指先でそっと拭ってやると、ノアはぴたりと動きを止めた。


「……っ」


 スプーンを構えたまま固まり、みるみるうちに耳まで真っ赤になって、キュッと小さく身を縮めてしまう。

 さっきの澄ました表情とのギャップに、シュンは微笑ましく目を細め、頭をぽんぽんと優しく撫でた。


 その光景を横から見ていたシエラが、グラスの縁のスプーンへ伸ばしかけた手を止めた。


「……またそうやって、警戒心のない距離感で触れる。生身の人間相手なら苦情が出ますよ」


「え? ついてたから拭いただけだけど……あ、シエラもついてる」


「は……?」


 シュンは何の気なしに指先を伸ばし、シエラの口元もすっと拭い取った。


「ほら、取れた」


 シエラの動きが、完全に凍りついた。

 琥珀色の瞳が見開かれ、唇がわなわなと震える。

 次の瞬間、首筋から耳の先までが一気に鮮やかな朱色に染まった。


「……っな……!?」


「わ、私は自分で拭けます……! な、何を考えているのですか……!」


 シエラは卓上の布ナプキンを引き寄せ、口元を強く覆い隠しながらバッと顔を背けた。

 真っ赤になって取り乱すシエラの顔を、リリアが口元に手を当てて覗き込む。


「ふふ、ノアちゃんとお揃いの色になっちゃいましたね〜」


 空になったグラスをトレイにまとめ、シエラとリリアが厨房へと片付けに立った。

 心地よい冷涼感と満腹感に包まれ、シュンは革張りのソファーに深く身体を沈める。

 天井を見上げて脱力していると、まぶたが自然と重くなってきた。


 トコトコとやってきたノアが、迷うことなくソファーへ上がり、シュンの膝元へすっぽりと収まった。

 背中を預けてちょこんと座ると、見上げるようにしてシュンを見つめる。


「……シュン」


「ん? どうした?」


「……ジェラート、すごく美味しかった」


「そっか。よかった」


「うん。……昨日、お外に行って」


 とろんと重たくなったまぶたを、ゆっくりとしばたたかせる。


「いっぱい歩いて、黄色いお洋服を選んで。街で冷たいの食べて……お部屋で、着てみて」


「うん」


「今日は、シュンが……もっと美味しいの、作ってくれて」


 小さな指先がシュンのシャツの裾をぎゅっと掴み、口元を微かに緩める。


「……すごく、楽しかった」


「そっか。また作ろうね。お出かけも、また行こう」


「うん……」


 小さく頷いたノアは、そのままシュンの服にそっと頬を寄せた。

 シュンが柔らかな髪を撫でてやると、まぶたがゆっくりと落ちていく。

 心地よい静けさの中、すやすやと穏やかな寝息が零れ始めた。


 厨房からリリアとともに戻ってきたシエラが、ソファーの上の光景を見て足を止めた。

 まだ少し耳の先を赤らめたまま、呆れたように息を吐き出す。


「……本当に、警戒心というものがありませんね」


 言いながらも、シエラはリリアから受け取った薄手のサマーブランケットを広げ、二人の肩口へそっと掛けた。


「冷房で身体を冷やして風邪でも引かれたら、私の警備業務に支障が出ます」


「ありがとう、シエラ」


 シュンが小さく笑うと、シエラはそっぽを向いて自分の定位置へと戻っていった。

 サマーブランケットから、洗いたてのリネンの香りが微かに届く。

 シュンがそっと瞼を閉じると、空調スリットから降りる柔らかな冷気が、リビングの静寂を優しく満たしていた。


---


 唸りを上げる巨大変圧器の重低音。

 過熱した絶縁油の焦げ臭い匂いと、逃げ場のない熱気が地下配電室を満たしていた。

 午後を回り、帝都全域の気温は観測史上最高を記録。

 工場の魔電炉と商業地区の冷房設備が一斉稼働し、電力需要のグラフはレッドゾーンを突き破らんばかりに跳ね上がっている。


 けたたましい警報ブザーの音を切り裂き、監視卓の若手技師が叫んだ。


「第二系統、受電電圧が急降下! 変圧器の温度、百二十度を突破しました!」


 計器盤の前で作業着の袖を捲り上げたミレイが、額に張り付いた黒髪を払い、鋭く指示を飛ばす。


「アース側の吸い込みを上げて! 第三系統の負荷を産業用ラインへ逃がして!」


 ミレイが指示を飛ばす壁面の主配電盤——その一角にある『第3緊急バイパス系統』のインジケーターが、不吉な赤色点滅を刻み始めていた。

 高圧送電網の致命的なサージを地中深くのアースへ逃がす、最後の安全弁。

 だが、その配管を覆う冷却ジャケットの流量計は、完全にゼロを指していた。

 昨夕、クロフトが下した『保全申請却下』の冷酷な文字が、端末のログ画面に残り続けている。

 冷却剤の補充を禁じられたバイパス配管は、熱溜まりによって許容限界寸前まで達していた。


 配管の表面温度計が限界値を超え、赤熱した被膜からかすかな白煙が立ち上る。

 ミレイは作業着の左胸ポケットにそっと手を当てた。

 薄い布越しに伝わる、几帳面に折りたたまれた系統図の感触。

 青インクで引かれた配線の余白に残る、『ここは閉めるな。逃げ道を作っておけ』という先輩の筆跡。


 このバイパスが焼き切れれば、逃げ場を失った数十万ボルトの逆流サージは、主幹送電網を逆走する。

 その先にあるのは——保全申請を切り捨てたクロフトが座る、公社本社ビルの中枢システム。


「耐えて……お願いだから、耐えて……!」


 ミレイの祈りを掻き消すように、配管の奥からジジジ……と高周波のコロナ放電音が唸りを上げた。

 赤色点滅が激しく波打ち、赤熱した継ぎ目から、パチッと鋭い火花が爆ぜ散った。


最後までお読みいただきありがとうございました!


「ピクニックが美味しそう!」「私服シエラが可愛い!」「路地裏の密着にドキドキした!」「手作りジェラート食べたい!」「無能コンサルにイライラする……!」など、少しでも楽しんでいただけましたら、広告下部の【ブックマークに追加】や【ポイント評価(★)】で応援していただけると大変励みになります!

次回も明日【18:00】に更新予定です!

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