第59話 届かない背中と、背後から迫る嘲笑
三人は複雑に入り組んだ日陰の裏路地を縫うように進み、大通りの喧騒を避けて歩いていった。
古いレンガ造りの家々を抜けると、前方にぱっと開けた広場が見えてくる。スラムの中央広場だ。
頭上から照りつける初夏の日差しが、広場の石畳を白く輝かせている。
中央には古びた噴水が水飛沫を上げ、周囲を取り囲むように、日用品や食べ物を商う無数の露店がひしめき合っていた。
初夏特有の熱気の中、広場は人々の呼び声と行き交う足音で賑わっている。
「ふう、ここまで来ればもう大丈夫そうだね」
シュンが工具鞄の重みを肩の上で直しながら息をつくと、隣を歩いていたノアの足が、ふと止まった。
「ノア?」
立ち止まったノアの視線の先には、広場の角にある一軒の露店があった。
看板には、氷の結晶の絵とともに大きな文字が掲げられている。
『冷たい果実ジェラート 搾りたて山羊乳仕立て』
ノアは腕の中に新しい服の包みを抱えたまま、その看板をじっと見つめていた。
描かれた涼しげな氷の絵から、目を離せないでいる。
「ノア、冷たいの食べる?」
シュンが屈んで声をかけると、ノアはこくりと小さく頷き、看板を指差した。
「……冷たいの、食べてみたい」
「よし、じゃあジェラートを食べてから帰ろうか。シエラもいいよね?」
「……任務完了後の速やかな帰投を推奨しますが、熱中症予防のための水分・冷却補給であれば、合理的な判断と認めます」
シエラが淡々と応じ、三人が露店へと足を踏み出そうとした――その瞬間だった。
バチバチィッ……!
鋭い放電音とともに、広場の隅に設置された大型の共同配電ボックスから、青白い火花が激しく爆ぜ散った。
通りを歩いていた人々が足を止め、ざわめきが波のように広がる。
配電ボックスの隙間から、焦げ付いた絶縁油の煙がもくもくと噴き出してきた。
それと同時に、ジェラートの露店の奥から、ガタガタガタッと金属が軋み鳴る不穏な異音が響く。
「おい、嘘だろ……!? 攪拌機が止まっちまったぞ!」
露天商の男が血相を変えて機械のカバーを叩いた。
「冷気が抜ける……! この暑さじゃ、中のジェラートが全部溶けちまうぞ!」
重低音を響かせていた冷却攪拌機が、プスンと力尽きたように沈黙する。
「……過負荷による位相不整、および一次回路の短絡サージです」
シエラが冷静に告げる。
ノアは抱きしめた包みにきゅっと指を食い込ませ、煙を吹く配電盤と、止まってしまったジェラート機を眉を下げてじっと見つめていた。
シュンはその視線に気づくと、煙を上げる配電ボックスの外装へすっと視線を走らせた。
鉄板の隅々まで目を走らせ、小さく息を吐き出す。
「公社の設備じゃないなら……問題ないな」
肩の工具鞄のストラップを軽く持ち直し、シュンは露店主へと歩み寄った。
「店主さん、ちょっと中を見せてもらっていいですか?」
突然声をかけられた店主は、油染みた額に汗を浮かべたまま、勢いよく振り返った。
「ああん? なんだいあんた、危ねえぞ! 火花が飛んでるのが見えねえのか!」
「大丈夫です。電源の大元を一度遮断して、端子を少し整えるだけですから」
「えっ、あんた……技師なのか?」
「まあ、そんなところです」
店主が呆気にとられて頷くのを見届け、シュンは配電ボックスの前へしゃがみ込んだ。
シエラが周囲へと視線を走らせる。
麦わら帽子のつばをそっと押さえ、足を止めた通行人たちに背を向けるようにして、しゃがみ込んだシュンの背後へすっと立った。
ノアもまた、抱えた包みを胸元に引き寄せ、シエラの隣に小さく身を寄せる。
シュンは工具鞄から厚手の絶縁手袋を取り出して手早く装着し、ペンチを抜いた。
配電ボックスの留め金を外し、分厚い鉄扉を引く。
熱を帯びた油煙と焦げ付いた絶縁材の臭気が、扉の隙間からどっと噴き出した。
内部の配線板を一瞥する。
端子板のネジ周りには、長年の油煙と埃が黒く焼き付いていた。
被覆は熱でわずかに変色し、接触抵抗の増大による典型的な局部発熱を起こしている。
「……油煙の焼き付きと、酸化被膜の接触不良か」
短く呟き、シュンは足元へと視線を落とした。
石畳の隙間に転がっていた、白く角張った珪石の破片を指先で拾い上げる。
親指の腹で鋭い角の感触を確かめた。
「おい、兄ちゃん……! そんな小石なんか拾ってどうすんだよ!?」
店主が目を丸くして声を上げる。
シュンは答えず、ペンチの先端で端子ネジをわずかに緩めると、珪石の鋭利な角を露出した銅端子の接触面へと当てた。
手首の角度をきっちり45度に寝かせる。
シュッ、シュッと、硬質な擦過音が連続して響いた。
一定のストロークと精密なピッチ角で、端子の表面を規則正しく擦り上げていく。
黒ずんで絶縁化していた酸化被膜が細かな粉となって削り落とされ、その下から鮮やかな赤銅色の金属光沢が現れた。
間髪を入れず、ペンチの先端でネジを締め込む。
手首の返しだけでトルクを測り、締めすぎによる金属疲労を避けつつ、熱膨張を見越した適正な面圧でピタリと止めた。
さらにシュンは、工具鞄のサイドポケットから手持ちの耐熱コードを1本引き抜いた。
ペンチの刃先で両端の被覆を素早く剥ぎ取り、一次側の端子台からボックス底面のアースバーへと最短距離で結線する。
ボックスを開けてから、ここまでわずか1分足らず。
「よし……これで大丈夫なはずだ」
シュンはボックス側面の主幹ブレーカーレバーに手をかけ、迷いなく押し上げた。
カチッ……ヴゥゥゥゥン……!
リレーが重々しく吸着し、安定した通電音がボックス内に満ちる。
直後、ジェラート露店の奥から、ガタッと揺れる金属音が響いた。
止まっていた冷却攪拌機が、引っかかりのない滑らかな低音を唸らせて力強く回転を再開する。
銅配管の継ぎ目から、冷涼な白い冷気が勢いよく吹き戻ってきた。
「う、動いた……!? 冷気が戻ってきたぞ!」
店主が金属槽を覗き込み、顔をほころばせて叫んだ。
「おい兄ちゃん、あんた本当に1分で直したのかよ……! 嘘だろ、魔法技師の親方でも呼ぶしかないと思ってたのに!」
「端子の酸化被膜を落として、サージの逃げ道を作っただけですよ。これでしばらくは落ちないと思います」
シュンは絶縁手袋を外し、ペンチと一緒に鞄へしまいながら穏やかに微笑んだ。
「助かった、今日の仕込みが全部パーになるところだったよ……! おい、礼だ! これ、食べてってくれ!」
店主は手早く丸いディッシャーを操り、鮮やかな紅色の木苺ジェラートを器にこんもりとすくい上げた。
小さな木製スプーンを添えて、カウンター越しに差し出してくる。
「一番いいところの搾りたて山羊乳と、摘みたての木苺仕立てだ! 遠慮しないで持ってきな!」
「あ、ありがとうございます」
シュンが受け取った器からは、初夏の日差しの中で微かな冷気が立ち上っていた。
隣でじっと見上げていたノアへ、その器をそっと差し出す。
「ほら、ノア。溶けないうちにどうぞ」
「……うん」
ノアは腕の中の包みを片腕で抱え直すと、差し出された器を両手でそっと包み込むように受け取った。
器の底から手のひらへじんわりと伝わる冷気に、小さな指先がぴくりと動く。
木製スプーンを慎重に握り、先端を赤い氷の山へと差し入れた。
すっと柔らかく沈み込んだスプーンの上に、淡いピンク色と真紅の果肉が乗った。
それを、小さな唇へと運ぶ。
――その瞬間。
ノアの動作が、ぴたりと完全に停止した。
スプーンをくわえたまま、トパーズ色の瞳がまん丸に見開かれる。
舌の上に触れた瞬間の、刺すような冷たさ。
そして次の瞬間にふわりと溶け広がる、爽快な果実の酸味と濃厚な山羊乳の甘み。
ノアはスプーンをゆっくりと唇から離すと、きゅっと肩をすくめ、もう片方の手を胸元へと当てた。
長い睫毛がパチパチと瞬き、冷涼感が喉を通り抜けていくのを確かめるように、小さく首を傾げる。
「……つめたい」
ぽつりと、掠れた声が零れた。
「つめたくて……舌の上でふわって消えて……甘い。これ、おいしい……」
「ふふ、口の中で一瞬で溶けちゃうよね」
シュンが目を細めて笑いかけると、ノアは小さく頷き、もう一口スプーンですくって口いっぱいに頬張った。
その隣で、シエラが麦わら帽子の下から視線を落とす。
「……知覚センサーの応答に問題はありません」
シエラが小さく呟き、麦わら帽子のつばの下からノアの横顔をちらりと見やった。
「シエラ、素直に『美味しくてよかったね』でいいんだよ」
「プロトコルに基づいた報告です」
シエラは小さく唇を結び、すっと視線を逸らした。
遠巻きにしていた周囲の露天商たちが、「おい、配電ボックス直ったのか?」「誰がやったんだ?」とざわめき始める。
シュンは集まる視線に気づいて小さく苦笑した。
「店主さん、ごちそうさまでした。お代はここに置いておきますね」
シュンはカウンターの隅へ硬貨を2枚、カランと置いた。
「おい、兄ちゃん! 礼だって言っただろ、金はいいって!」
「いえ、本当に美味しかったので。……じゃあ、僕たちはこれで失礼します」
引き止める店主の手をかわすように軽く会釈し、シュンは二人の背中へ手を添えた。
「行こう、二人とも」
三人は広場の雑踏をすり抜け、郊外のトロッコ留置トンネルへと続く細い路地へと、足早に姿を消していった。
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荒い息遣いとともに、石畳を蹴る硬いブーツの音が響いていた。
「はぁっ……はぁっ……! 間に合って……!」
スラム中央広場の入り口へ、汗ばんだ首の手ぬぐいを押さえ、ミレイが猛烈な勢いで飛び込んできた。
右手に握りしめた小型の携行端末には、スラム境界の自主パトロール中に受信した微小サージの警報ログが点滅している。
しかし――息を切らして広場の中央へ踏み込んだミレイは、その場に立ち尽くした。
「……あれ?」
立ち上る黒煙も、逃げ惑う群衆もない。
初夏の日差しの下、広場は何事もなかったかのように露店の喧騒に包まれていた。
角にあるジェラート露店からは、快調に回転する冷却攪拌機の重低音と、吹き出す冷涼な白煙が見えている。
「火災も……機器の停止もなし? でも、確かにここから短絡サージの波形が……」
ミレイは足を速め、ジェラート露店のカウンターへ駆け寄った。
「店主さん! すみません、公社の者です! さっき、このあたりで激しい火花や煙が出ませんでしたか!?」
片付けをしていた店主が、驚いて目を丸くする。
「あん? 公社の技師さんかい? ああ、さっき配電ボックスから火花が吹いて、攪拌機が止まっちまって大騒ぎだったよ」
「えっ……じゃあ、どうして今は動いているんですか!?」
「さっき若い兄ちゃんが通りかかってな。鞄から道具を出して、1分足らずで直していっちまったんだよ」
「――え?」
ミレイの心臓が、ドクンと跳ね上がった。
「若い……技師……?」
「ああ。白衣みたいなコートを着て、肩から革の工具鞄を提げてたな。あっという間に動かしちまって、魔法使いかと思ったぜ」
ミレイは弾かれたように踵を返すと、広場の隅にある共同配電ボックスへと駆け寄った。
鉄扉に手をかけ、一気に引き開ける。
携行端末のライトを内部へと照射した瞬間――ミレイの息が喉の奥で止まった。
「……あ」
光の輪の中に浮かび上がった内部の光景に、ミレイは目を奪われた。
黒ずんでいたはずの端子板の接触面。
そこには、幾何学的なほど正確に斜め45度で揃えられた、無数の細かな研磨傷が刻まれていた。
削り落とされた酸化被膜の下から、赤銅色の金属光沢が均一に覗いている。
「おいおい、どうしたんだい急に。その兄ちゃんなら、足元の小石を拾って中で何かやってたみたいだが……」
追いついてきた店主が、怪訝そうに配電ボックスを覗き込んだ。
「……小石……?」
ミレイは思わず端子板へと顔を近づけた。
専用の研磨工具も使わず、拾った石の角だけで、母材を傷つけずに酸化被膜だけを削ぎ落としたというのか。
さらに、端子ネジの締め込み。
ペンチの先端で締められた痕跡があるにもかかわらず、ネジ頭の沈み込みは寸分の狂いもなく均一に揃っている。
締めすぎず、緩みすぎず。熱膨張を見越した適正トルク。
そして――何よりもミレイの目を釘付けにしたのは、一次側の端子台からボックスの底面へと、最短距離で滑らかに渡された1本のバイパスコードだった。
「……位相逃がし、バイパス……」
『余計な熱とノイズは、大地へ逃がしてやるのが一番スマートなんだよ』
かつて公社の薄暗い配管ピットで、徹夜明けのシュンが笑いながら端子を締めていた。
ミレイの指先が小刻みに震え、その耐熱コードの被覆へとおずおずと伸びていく。
「先輩……! シュン先輩だ……!!」
喉の奥がきゅっと締まり、視界が一気に熱く滲んだ。
間違いない。世界中でこんな芸当ができる人間は、あの人しかいない。
ミレイは勢いよく振り返ると、露店主へと詰め寄った。
「店主さん! その人、どっちへ行きましたか!? いつ、どっちへ行きましたか!?」
「な、なんだい急に!? え、ええと……5分くらい前だよ! 銀髪の綺麗な女の子と、包みを抱えた小さい子を連れて、あっちの郊外へ抜ける路地へ入っていった!」
「ご、5分……!?」
ミレイの息が止まった。
5分。
たったの5分。
自分がスラムの境界で波形ログの解析に手間取っていた、あのわずかな時間。
あと5分早く走っていれば。
あと5分早く、この広場に飛び込んでいれば――。
「うわああああんっ!! 5分! たった5分だったのにいいいっ!!」
ミレイはその場にがっくりと両膝をつくと、両手の平で石畳の地面をバンバンバンッと激しく叩きつけた。
「5分……! 先輩がここにいたのに! こんなに近くにいたのにいいいっ!!」
石畳を叩く乾いた音が広場に響き、小さな土煙が舞う。露天商がぎょっとして後ずさった。
手の平を真っ赤にしながら、ミレイは涙でぐしゃぐしゃになった顔を歪め、子供のように地面を叩き続けた。
その時だった。
「――くくっ。みっともないな、公社の技師ともあろう者が」
冷たい嘲笑を含んだ声とともに、ゆっくりとした拍手の音が頭上から降ってきた。
石畳を硬い革靴で踏み鳴らし、背後から長い影が伸びてくる。
地面を叩いていたミレイの動きが、ぴたりと止まった。
最後までお読みいただきありがとうございました!
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