第58話 袖口のヘリカル・レーシング。追う後輩の執念と、路地裏のゼロ距離
高架下の薄暗い露店街を抜けると、視界が一気に開けた。
頭上を覆っていた煤けたコンクリートの梁が途切れ、初夏の柔らかな青空と、川面を渡る涼やかな風が吹き抜けてくる。
石畳が敷き詰められた運河沿いのプロムナード。
両脇に並ぶ柳のような青葉がさらさらと揺れ、水面には初夏の日差しがきらきらと反射していた。
「日差しが強くなってきたね。少しそこのベンチで休もうか」
「異議ありません。直射日光下での連続歩行は、生体組織への熱負荷となります」
シエラが木陰の石造りベンチへ視線を向け、顎先で促した。
周囲の雑踏へ冷ややかな警戒を配りつつ、日差しを避けるように木陰へと足を進める。
三人は木漏れ日が揺れるベンチへと腰を下ろした。
川辺を行き交う木造の運搬船が、穏やかに波頭を分けて滑っていく。
どこからか、甘い香ばしさを孕んだ熱気が、風に乗って漂ってきた。
「……いい匂いだな。あっちの屋台か」
石畳の遊歩道沿いに、白と赤の日除けを出したチュロスの露店が見える。香ばしい湯気の立つ店先に、何人かの客が並んでいた。
「ノア、チュロス食べる? 滅多に買い食いなんてできないしね」
「買い食い……。ベンチでそのまま食べるの?」
「そう。せっかくだから、出来立てを食べよう」
「食べてみたい。すごく甘くていい匂い」
「じゃあ、ちょっと待っててね」
シュンは立ち上がり、露店の前へと歩いていった。
数分後、湯気を立てる紙包みを三つ、指先に挟んで戻ってくる。
「はい、ノアの――」
差し出そうとしたシュンの手が、ふと止まった。
ベンチのノアは、先ほどの真鍮フランジを両腕でお腹の前にしっかりと抱え込んだままだ。
チュロスで両手が塞がったシュンと、重い金属塊で両手が塞がったノア。
二人はぽかんと顔を見合わせ、数秒の沈黙が落ちた。
「……お互い、手が塞がっちゃってるね」
シュンが思わず苦笑し、肩掛け工具鞄の口をノアの前へと差し出すように屈み込んだ。
「ノア、それ、僕の鞄の中に入れてくれる?」
ノアはこくりと頷くと、腕の中の真鍮フランジを両手で持ち上げ、開いた革鞄の底へと慎重に落とし込んだ。
すとん、と革越しに鈍い重みが収まる。
両手が空いたノアが、ぱっと顔を上げた。
「よし、ありがとう。じゃあ、改めてどうぞ。シエラもね」
「いただきます」
身軽になったノアが両手をいっぱいに伸ばし、細長い紙包みを受け取った。
立ち上る熱気とともに、シナモンと焦がし砂糖の甘い香りがふわりと広がる。
きつね色にカラリと揚がったチュロスには、たっぷりと白い砂糖がまぶされていた。
ノアは紙包みから顔を覗かせたその先端に、おっかなびっくり鼻先を近づける。
深呼吸するように香りを吸い込み、端っこをさくっとかじった。
かりり、と軽やかな音が響く。
ノアの動きが、ぴたりと止まった。
目を丸くしたまま、もぐもぐと小さな口を動かす。
熱々の生地の香ばしさと、シナモンシュガーの優しい甘みが口いっぱいに広がった瞬間、ノアの肩がふっと緩んだ。
「……さくさくして、甘くて、あったかい」
「美味いだろ? 揚げたてだからね」
両手で紙包みをしっかりと握りしめ、ノアは嬉しそうに次の一口をぱくりと頬張った。
口の端についた白い砂糖の粒を、舌先でちょこんと舐めとる。
「シエラも食べてみてよ。街の名物らしいよ」
「……栄養補給の観点から言えば、油脂と糖分の過剰摂取です」
シエラは冷ややかなジト目を向けつつも、差し出された紙包みを指先で受け取った。
指を汚さないよう紙の端をつまみ、控えめに口元へと運ぶ。
かりりと小さな音を立てて端をかじると、切れ長の瞳がわずかに瞬いた。
「……油分過多です」
それでも紙包みの端をつまんだ指先が、二口目を小さくかじった。
「ふふ、文句言いながらもちゃんと食べるんだから」
「……悪くはないです」
水路を渡る風が、三人の髪を優しく撫でていく。
遠くで聞こえる小鳥のさえずりと、噴水の水音。
紙包みを空にしたノアが、満足そうに両手を膝の上で揃え、ふうと小さな息を吐いた。
「ごちそうさまでした」
「よし、お腹も落ち着いたし、本題に行こうか。ノアのお洋服を選びに行かないとね」
「ボクのお洋服……」
ノアは自分の着ているパーカーの胸元を、両手でぎゅっと握りしめた。
ベンチを立ち上がり、運河沿いの並木道を少し歩くと、落ち着いた佇まいのレンガ造りの店舗が見えてきた。
真鍮のフレームで縁取られたガラス窓の奥に、色とりどりの薄手生地や、涼しげな仕立ての衣服が並んでいる。
運河沿いの老舗ブティックだ。
ガラス扉を押し開けると、澄んだベルの音が店内に響いた。
「いらっしゃいませ」
奥のカウンターから、上品な初老の女性店主が柔らかな笑みを浮かべて迎えてくれる。
店内に一歩足を踏み入れた瞬間、ノアの足がぴたりと止まった。
壁一面に掛けられた色鮮やかなサマードレスや、棚に並ぶ滑らかなレース、リボンの数々。
あまりの色彩の多さに圧倒されたのか、ノアはシュンの背後へするりと回り込み、薄手の作業用コートの裾を小さな手できゅっと握りしめた。
「大丈夫だよ、ノア。怪しい場所じゃないから」
「……いっぱい並んでて、目がちかちかする」
コートの後ろから、顔の半分だけを覗かせるノアに、店主が目を細めて微笑んだ。
「まあまあ、可愛らしいお嬢さん。初夏物のお仕立てかしら?」
「ええ。この子の普段着を探していまして。動きやすくて涼しいものを何着か見繕っていただけますか」
「かしこまりました。……お嬢ちゃん、ちょっと近くで見せてもらってもいいかい?」
優しく手招きされ、ノアはシュンの背中を押されるようにして、おずおずと一歩前へ出た。
「……通気性と動きやすさを最優先で。よく動き回りますので」
シエラが腕を組んでそう告げると、店主が目を丸くして微笑んだ。
「おやおや、お連れのお姉さんはずいぶんと物知りで現実的ねぇ。それなら、このあたりの上質な綿麻混紡がいいわよ。肌触りも柔らかくて、洗うほどに風合いが良くなるから」
店主が棚から手早くいくつかの服を取り出し、中央の大きな木製テーブルの上に広げた。
淡い若草色のブラウス。動きやすそうなデニム地のショートパンツ。
そして、陽だまりのような優しい黄色をした、柔らかなコットンのサマーワンピースだ。
「さあ、お嬢ちゃん。触ってごらん」
促されたノアは、恐る恐る小さな指先を伸ばした。
黄色のワンピースの裾に触れる。
「……あっ」
壊れ物に触れるように、小さな指先で生地の端をそっとつまみ上げる。
「やわらかい……。ごわごわしてない」
「ええ、極細の綿糸を丁寧に織り上げた特注品だよ。こっちのショートパンツと合わせれば、元気に駆け回っても足にまとわりつかないわ」
店主がメジャーを手に取り、ノアの肩幅と着丈を素早く測っていく。
シエラが横からじっとその様子を見つめ、腕組みをして頷いた。
「……こちらのワンピースに、下はショートパンツを。走り回っても問題のないように」
「ふふ、お姉ちゃんのお墨付きなら間違いなさそうね。この組み合わせで包みましょうか?」
「ノア、どう? この黄色いワンピースと、ショートパンツ」
シュンが視線を合わせるように屈んで尋ねると、ノアは広げられた服をじっと見つめた後、こくりと頷いた。
「……ボク、これがいい。あったかいお日様の色」
「決まりだね。店主さん、これをお願いします。あと、着替え用の薄手のインナーも二組付けてください」
「はい、毎度ありがとうございます」
手際よく畳まれた服が、淡い青色の包装紙に包まれ、細い麻紐で綺麗に結わえられた。
店主から手渡された包みを、ノアは両手でそっと受け取ると、胸の前でぎゅっと抱きしめた。
透き通るトパーズ色の瞳が、木漏れ日を浴びて静かに輝いていた。
「……ボクだけの、お洋服」
小さく呟いたその声に、シュンは思わず目元を緩めた。
「帰ったらリリアにも見せてあげようね」
「見せたい! リリア、喜んでくれるかな」
代金を支払い、三人はベルの音に見送られて仕立て屋を後にした。
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重苦しい沈黙が支配するフロアに、無機質な打鍵音と、押し殺したような舌打ちが響いていた。
窓から差し込む昼下がりの強い日差しが、デスクの上に山積みされた帳票を容赦なく照らし出している。
「……ふざけないでよ、もう」
端末の画面を睨みつけながら、ミレイは奥歯をギリリと噛み締めた。
画面には、外部アドバイザーであるクロフトが導入した、悪名高い新システムが表示されている。
『実績進捗報告:過去30分間の作業内容、使用工具一覧、成果指標を100文字以上で記述せよ』
「30分ごとにこんな書類書かせてたら、現場の配管が冷え切っちゃうじゃない……! あいつ、本当に現場の何を分かってるのよ……!」
キーボードを叩きつけるようにエンターキーを押し込み、送信を完了させる。
フロアのあちこちから、同じように書類の催促アラートと技師たちの苛立つ呻きが響いていた。
「……やってられない。胃に何か入れないと、頭がショートする」
首筋に滲んだ汗を手ぬぐいで乱暴に拭いながら、ミレイは小さく息を吐いた。
左胸のポケットに収められた、四つ折りの手書き配線図を上から指先でそっと押さえる。
硬い紙の角を確かめるように指先に力を込め、荒い呼吸を整えた。
「堅焼きパンでもかじって、午後のスラム点検の計画を立て直さなきゃ」
斜め掛けにした重い本革工具鞄のストラップを肩に掛け直し、ミレイは早足で公社を出た。
高架下で聞き出した、あの旧軍用十六ピン端子と真鍮フランジのことが頭から離れない。
石畳の敷かれた運河沿いのプロムナード。
川面を渡る初夏の風が吹き抜けてくるが、火照った身体を冷ますには到底足りない。
露店で堅焼きパンを買い、適当にかじりながら現場へ向かおうと、遊歩道を足早に進む。
その時だった。
行き交う人々で賑わう人混みの前方。
十数メートル先を、小走りで進む小柄な人影が、ミレイの視界をふっと横切った。
「……ん?」
何気なく向けた視線が、その人影に引き寄せられた。
小柄な少女だ。
両腕で大事そうに、リボンの結ばれた紙包みを抱えている。
だが、違和感はその服装だった。
身に纏っているのは、明らかに成人の男物と思しき、膝丈まである濃紺の作業用パーカー。
華奢な肩幅に対して身頃が余りすぎ、袖口は手首を完全に覆い隠して、だらりと垂れ下がっている。
(……あの濃紺のパーカー、どこかで……)
記憶の糸を手繰り寄せようとした、その瞬間。
少女が腕の中の紙包みを抱え直した拍子に、右手の袖口がくるりと外側へ翻った。
ミレイの視線が、その袖口の縫い目に吸い寄せられる。
「……え?」
擦り切れかけた袖口の端を、しっかりと留めている縫い糸。
それは、帝都の仕立て屋が使うような綿糸や絹糸ではなかった。
初夏の日差しを浴びて、鈍く半透明に光る、極細の耐熱コード。
(……高耐熱、グラスファイバー絶縁糸……?)
(なぜこんなものが、あの子の服に……?)
それだけではない。
ミレイの目が、その規則正しすぎる縫い目のピッチを捉えた。
裁縫の跡ではない。
等間隔の螺旋巻き、結び目は折り返しの内側――。
ミレイの呼吸が、止まった。
(……ヘリカル・レーシング……!?)
『ミレイさん、作業着の袖口がほつれたらね、針と糸を探すより、この絶縁糸でヘリカル・レーシングをかけるのが一番なんだよ。擦れても絶対に解けないし、引っかからないから』
かつて第3調律室の片隅で、工具を手にした先輩が、困ったように笑いながら見せてくれた、あの手つき。
衣類の補修に配線の緊縛結束をそのまま流用するような真似をする技師など、世界中でただ一人しかいない。
(あの濃紺のパーカー……先輩の予備の作業着……!)
少女が一人で街を歩いているはずがない。確実に、すぐ近くに連れがいる。
(先輩が……シュン先輩が、すぐ近くにいる……!!)
全身の血が沸騰するような激しい拍動が、ミレイの背筋を一気に駆け抜けた。
「先輩……っ!」
ミレイは叫びそうになる喉元を抑え、工具鞄を脇に抱え直すと、石畳の路面を力任せに蹴りつけた。
人混みをかき分け、少女の後ろ姿をめがけて猛烈なダッシュを開始する。
「そこ、どいて……! 通してっ!」
行き交う人々の肩をすり抜け、露店の並びを風のように駆け抜ける。
距離は二十メートル、十五メートル。
少女の背中が、仕立て屋の角を曲がろうとした、その刹那だった。
少女の隣を歩いていた、銀髪の連れの女性が、ふいに背後を振り返ったように見えた。
だが、次の瞬間にはもう、吸い込まれるように角の向こう側へと掻き消えていた。
「待って……っ!」
ミレイは叫びながら仕立て屋の角へと飛び込み、荒い息のまま立ち止まった。
「はぁっ、はぁっ……っ!」
乱れた黒髪を振り乱し、肩を上下させて激しく息を吐く。
だが、曲がり角の先にある石畳の路地には、干された白いシーツが初夏の風に揺れているだけだった。
探していたパーカーの少女も、その連れの姿も、完全に掻き消えている。
「うそ……っ、どこへ……!?」
ミレイは路地のレンガ壁にドンと掌を突き、唇を強く噛み締めた。
荒い呼吸とともに、胸元が激しく波打つ。
「……先輩が、すぐ近くにいるはずなのに……っ!」
爪先で石畳をギリッと踏みしめる。
あと数十秒。ほんの少し追いつくのが早ければ、あの少女を捕まえて、先輩の居場所を聞き出せたはずだった。
「……絶対に、見つけ出してやるんだから……!」
ミレイは荒い息のまま工具鞄のストラップをぐっと引き締めると、鋭く踵を返し、別の路地へと駆け去っていった。
遠ざかっていく激しい足音が、やがて雑踏の喧騒の中に消えていく。
その角のすぐ脇、建物の隙間に潜む薄暗い日陰の路地裏。
シュンは壁に背中を預けたまま、心臓が破裂しそうな勢いで硬直していた。
ほんの数十秒前のことだ。
仕立て屋を出て角を曲がろうとした瞬間、シエラが無言でノアを抱え上げ、シュンの手首を強引に引いてこの隙間へと滑り込ませたのだ。
吐息が肌をかすめるほどのゼロ距離。
目の前数センチの距離に、シエラの涼やかな美貌があった。
アイボリーの薄手ブラウス越しに、オートマタ特有の硬質でひんやりとした体温が、シュンの胸元へダイレクトに伝わってくる。
ノースリーブの袖ぐりから覗く白く滑らかな肩のライン。くっきりと浮き出た鎖骨と、うなじから微かに立ち上る、清涼な精油の微香。
シエラはシュンの胸を手のひらで軽く押し留めたまま、切れ長の瞳を鋭く尖らせ、路地の外を凝視していた。
その真剣な横顔と、至近距離から伝わる冷涼な肌の質感に、シュンの心臓が激しく跳ね上がる。
(ち、ちかっ……! 近すぎるって……!)
目のやり場を完全に失い、シュンは壁に手をついたまま固まっていた。
シエラの腕の中に抱え込まれたノアだけが、大事そうに服の包みを抱えたまま、きょとんとした顔でシュンを見上げている。
やがて、シエラがゆっくりと息を吐き出した。
「……追跡者の完全な離脱を確認」
呟き、警戒を解いたシエラが、ふっと視線を外から正面へと戻した。
――その瞬間だった。
目の前数センチの至近距離で、真っ赤になって息を呑んでいるシュンと、まともに視線がぶつかる。
シュンの胸元を強く押さえつけたままの、自分の手のひら。
互いの吐息が肌をかすめ合うほどの、逃げ場のないゼロ距離。
「…………っ」
シエラの涼やかな琥珀色の瞳が、わずかに見開かれた。
トン、と弾かれたようにシュンの胸元から手を離すと、シエラは半歩身を引き、つんと顔を背けた。
シュッ……。
耳裏の細い排熱スリットから、微小な白い熱気と蒸気が、大気の中へと逃がされる。
「シエラお姉ちゃん、お耳から湯気出てるよ?」
シエラの腕の中に抱えられたままのノアが、無邪気に指を差した。
「……高負荷の索敵演算および緊急制動に伴う、正常な熱交換処理です。何ら問題ありません」
シエラは耳元を掌でそっと隠すように押さえ、早口で告げると、小さく咳払いを落とした。
「……ふうぅっ……!」
ようやく解放されたシュンは、膝から崩れ落ちそうになりながら、路地のレンガ壁に背中を預けて深く息を吐き出した。
心臓がまだ早鐘を打っている。
「し、シエラ……あ、ありがとう。びっくりしたよ、急に引っ張られたから……」
「後方からの急加速接近を感知したため、緊急保安行動を発令しました。……私の判断に、何か不服でも?」
シエラは冷ややかな視線をシュンへ向け直すが、その瞳の奥には微かに落ち着かない光が揺れていた。
「い、いや、全然! 完璧な判断でした……! でも、心臓が止まるかと思ったよ……」
「追跡者が周囲を再捜索する可能性があります。速やかにこのエリアを離脱します」
シエラはすっと背筋を伸ばすと、ノアを抱えたまま、足早に歩き出した。
耳元には、まだ微かに熱を帯びた精油の香りが漂っている。
「そうだね、すぐに出よう」
心臓を落ち着かせようと深呼吸しながら、シュンもまた、二人の背中を追って歩き出した。
日陰の路地を縫い、三人は人混みの喧騒を避けるようにして、静かにその場を後にした――。
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