第57話 目利きの痕跡を前にして、現場を阻む無能な帳票
ゼロ・ターミナルのエントランスに、澄んだ足音が近づいてきた。
工作室の前で工具鞄の留め金を確認していたシュンが、顔を上げる。
通路の奥から歩み寄ってきた人影に、思わず手元が止まった。
身に纏っているのは、涼やかなアイボリーのサマーブラウスに、軽やかなスリット入りのフレアスカート。
頭には、日差しを遮るつばの広い麦わら帽子を被っている。
透き通るような白銀の長髪は、ピンで頭頂近くへとゆるやかに束ね上げられていた。
ピンで束ね上げられた白銀の髪の下に、細い首筋が覗いていた。
耳の後ろの精緻な排熱スリットが、天井の照明を反射する。
シエラは立ち止まり、帽子のつばを指先で軽く押さえた。
腕を持ち上げた拍子に、ノースリーブの袖ぐりから、引き締まった脇と鎖骨の陰影がふと覗く。
「……何を見ているのですか」
琥珀色の瞳が、冷ややかな光を宿してこちらを射抜く。
「あ、いや……その格好」
「……ただの偽装工作ですが、何か問題でも?」
シエラは平然と言い放った。
「普段の格好では目立ちます」
「あはは、確かに。あのドレスだと目立っちゃうもんね」
「当然です。合理的な判断に過ぎません」
淡々と告げるシエラだったが、シュンの視線が露わになった首筋や肩口を彷徨っているのに気づいた瞬間、わずかに眉が跳ねた。
すっと頬が朱に染まり、麦わら帽子のつばを深く引き下げた。
「……無用な視線走査を停止しなさい」
「ご、ごめん。でも、すごく似合ってるよ。本当に良家のお嬢さんみたいだ」
「お世辞は不要です」
シエラは麦わら帽子のつばをぐっと引き下げ、つんと顔を背けた。
その足元へ、てこてこと小さな足音が近づいてくる。
濃紺のパーカーの胸元を小さな手でパタパタと扇ぎながら、ノアが首を傾げた。
「シュン、お出かけ? 夏のお洋服、見に行くの?」
「うん。まずは高架下の市で少し部品を探してから、街の仕立て屋さんに行こうか」
シュンが屈んで視線を合わせると、リビングの扉口からリリアが柔らかく微笑みかけてきた。
手にした冷たい果実水の水筒を、シュンへと差し出す。
「ふふ、いってらっしゃいませ〜。日中は暑くなりますから、水分補給はこまめになさってくださいね〜。ノアちゃん、涼しくて可愛いお洋服が見つかるといいですね〜」
「うん、可愛いお洋服、探してくるね」
ノアは胸の前で小さな両手をぎゅっと握りしめ、嬉しそうに頷いた。
シュンは水筒を受け取って工具鞄を肩に掛け、薄手のコートを羽織ると、ノアの小さな手を引いてエントランスの重厚な気密扉を開いた。
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頭上を覆う重厚なリベット打ちの鉄骨と、無骨なコンクリート橋脚。
スラム外郭を東西に貫く、旧軍用廃線路の高架下。
初夏の生ぬるい空気の中に、煤煙と機械油、そして埃の混ざり合った特有の匂いが立ち込めていた。
薄暗い高架下には、露天商たちの板張りの屋台が延々と連なっている。
並べられているのは、真鍮のバルブ、規格外の歯車、煤けた配管継手など、雑多なガラクタばかりだ。
「……金属がいっぱい。不思議な匂いがする」
シュンと手を繋いだノアが、山積みのパーツに興味深そうに瞳を輝かせた。
その斜め後ろを進むシエラが、麦わら帽子のつばを指先で押さえながら、冷ややかに周囲へ視線を走らせる。
すれ違う露天商たちがその清楚な立ち姿に見とれて足を止めるが、シエラは気にも留めない。
「足元に注意しなさい。機械油で滑りやすくなっています。……それにしても、見るからに粗悪な鉄屑ばかりですね」
「まあガラクタ市だからね。でも、こういう雑多な山の中にこそ、思わぬ掘り出し物が眠ってたりするんだよ」
シュンはそう言いながら、頭上の鉄骨へと視線を巡らせていた。
無秩序に引き込まれた細い配線が、蜘蛛の巣のように張り巡らされている。
「……シュン。歩きながら天井ばかり見上げて、何を警戒しているのですか」
歩調を緩めたシエラが、怪訝そうに眉をひそめて尋ねてくる。
「いや、警戒っていうか……昔の癖でね。こういうボロい配線や碍子を見ると、つい目で追っちゃうんだよ」
「無用な職業病ですね。すでに公社の管轄外です」
「手厳しいなあ。……ん?」
肩をすくめて視線を足元へ戻した瞬間、路肩に積まれた木箱の前で足が止まった。
油染みのついた板切れに、『銅貨二枚均一』と掠れた炭で書かれている。
その箱の底、酸化皮膜で真っ黒に変色した金属の塊に、シュンの目が留まった。
「シュン、何か見つけたの?」
「うん、ちょっと気になるものがあってね」
シュンは膝をかがめ、埃まみれのパーツに指を伸ばした。
表面にこびりついた煤を親指の腹で軽く拭い取ると、重厚な金属光沢がわずかに覗く。
手のひらほどの大きさがある、分厚い六角の真鍮フランジ。そして、その中央マウント部にしっかりと噛み合わされた、長方形の十六ピン端子だ。
指先を掛け、木箱から持ち上げる。
無垢の真鍮ならではの、見た目以上のずっしりとした重みが手首にかかった。
端子の接続部を高架の隙間から差し込む光に透かし、細かなピン列を見つめる。
黒ずんだ真鍮の奥に、酸化することのない金パラジウムメッキの鈍い輝きがあった。裏面の縁には、極小の刻印が潰れずに残っている。
「……旧軍の十六ピン。金パラジウムが生きてるな。それに、この極厚真鍮フランジとセットか」
低く漏らした呟きに、木箱の奥で胡坐をかいていた初老の店主が、煙管から紫煙を吐き出した。
「あんちゃん、そんな真っ黒な鉄屑でいいのかい? 刻印も潰れかけのゴミだぜ」
「ええ、これで十分ですよ」
シュンはポケットから銅貨を二枚取り出し、木箱の縁に置いた。
「もらっていくね」
「へえ、毎度あり。物好きな兄ちゃんだな」
店主は不思議そうに銅貨をつまみ上げ、頭を掻いた。
シュンが膝を伸ばして立ち上がると、足元でノアがすっと両手を差し出してきた。
「シュン、それ、ボクが持つよ。お手伝いする」
「見た目よりずっと重いよ? 落とさないでね」
「うん、大丈夫だよ」
手渡すと、ノアは手のひら大の重厚な金属塊を、小さな両腕でお腹の前へとしっかりと抱え込んだ。
澄んだトパーズ色の瞳をきらめかせ、誇らしげにお腹の前で抱きかかえる。
「……すごくずっしりしてる。ひんやりして、重たいね」
「……銅貨二枚で手放す側の損失を、計算する気にもなりません」
シエラが冷淡に言い放つと、シュンは苦笑しながら頷いた。
「おかげで、トロッコの冷却ラインに欲しかった最高の部材が手に入ったよ。……さて、人が増えてきたし、運河のほうへ抜けようか」
徐々に人通りが増え始めた高架下の露店街を、三人は運河プロムナード方面へと歩き出した。
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強い日差しが高架のコンクリートの隙間から斜めに差し込み、熱気を孕んだ風が吹き抜けていく。
硬質なブーツの足音が、高架下の砂利を踏みしめて響いてきた。
帝都魔電公社の青い作業着に身を包んだミレイが、眉をひそめて歩みを進めていた。
初夏の猛烈な熱気の中、作業着のフロントジッパーはみぞおちのあたりまで大きく寛げられ、乱れた黒髪が汗で首筋に微かに張り付いている。
斜め掛けにした重い本革工具鞄の太いストラップを指先でぐっと押し上げ、肩に掛け直しながら息を吐いた。
左胸のポケットには、四つ折りにしたシュンの手書き配線図が収められている。
「……あいつ、現場も見ないでスラムの巡回を中止しろだなんて。ここが燃えたら、幹線まで一発で落ちるのに」
首筋に滲んだ汗を手の甲で拭いながら、高架下を走る配線ピットを見上げる。
無許可で引き込まれた無数の配線が、蜘蛛の巣のように絡み合っていた。
碍子のひび割れや、微かな唸り音を確認し、手帳に手早くチェックを入れていく。
『銅貨二枚均一』と書かれた木箱が並ぶ露店の前を通りかかったとき、店先で煙管を燻らせていた初老の店主が、ミレイに気づいて声を上げた。
「おや、公社の嬢ちゃんじゃないか。こんな暑いのに、また点検かい?」
「ええ、親父さん。最近、このあたりの配線で変な電圧降下や火花はなかった? 誰かが勝手に線を引っ張ったりとか」
「いやあ、特にはねえよ。……ただ、そういやさっき、お前さんと同じように高架下の配線を見上げながら歩いてる兄ちゃんがいたぜ」
「え? 配線を?」
ミレイは歩みを止め、怪訝そうに眉を寄せた。
「ああ。で、うちの二枚銅貨のガラクタ箱の前でピタッと足が止まってな。何年も底に転がってた真っ黒な鉄屑を、躊躇なく引っ張り出して買っていったんだよ。煤をちょいと拭っただけで『これだ』って顔してさ。『旧軍の十六ピン……極厚フランジとセットか』なんて専門用語を呟いてよ。あんな刻印も潰れかけたゴミ、何に使うんだか」
「……っ」
ミレイの呼吸が止まった。
「……旧軍の、十六ピン端子……? それに、極厚フランジ……?」
思考が一瞬で跳ね上がる。
無意識に、左胸ポケットに収めた四つ折りの手書き配線図の上から、指先が強く触れていた。
——『冷却ラインを組むなら、これが一番頑丈で確実なんだけどね』
図面の余白に走り書きされた、あの几帳面な筆跡が脳裏を過ぎる。
(……まさか、シュン先輩……!?)
「親父さん! その人、どっちへ行ったの!?」
「え? あ、ああ、運河のほうへ向かったようだが……」
ミレイは工具鞄のストラップをぐっと引き上げると、高架下の雑踏へ飛び出した。
人混みをかき分け、周囲を血眼になって見回す。
「先輩……シュン先輩!」
だが、行き交うスラムの住民や露天商の雑踏の中に、探している青年の背中はどこにもなかった。
視界にあるのは、埃っぽい露店と行き交う人々の波だけだった。
運河へ続く通りへ駆け出そうとした、その瞬間。
腰のホルダーに収められた携帯魔導端末が、けたたましいアラート音を鳴り響かせた。
ミレイは端末を引っこ抜く。
液晶画面には、真っ赤な警告枠とともに文字が点滅していた。
『警告:実績報告シート(30分枠)未提出。至急、第3調律室へ帰還し入力せよ。外部アドバイザー・クロフト』
「っ……! こんな時に、あの無能コンサルが……!」
端末を握りしめる指先に、ギリリと力が籠もる。
先輩の確かな痕跡が、すぐそこにあるのに。
「嘘でしょ……すぐそこにいるのに……!」
ミレイは奥歯を強く噛み締め、ダンッ、と爪先で硬い砂利を蹴りつけた。
舞い上がった埃の中、地団駄を踏みながら、公社の方角へと引き返さざるを得なくなる。
「……待っててください、先輩。絶対に、見つけ出してみせますから……!」
遠ざかるブーツの足音だけが、埃の舞う高架下に虚しく響いていた。
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