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第56話 外に出て初めてわかること。そして、初夏の風に混ざる不穏な熱気

 朝の澄んだ空気が、ゼロ・ターミナルの留置線に満ちていた。

 真新しい潤滑油の匂いと、微かに漂う金属の硬質な気配。

 シュンはレストアを終えたばかりの魔導トロッコの前に立ち、車体のバンパーにそっと体重をかけた。


 ぐっと沈み込んだ足回りが、静かに元の位置へと押し戻される。

 昨日組み込んだばかりのエアサスペンションは、滑らかな反発を返してきた。

 深いオリーブドラブの車体には、特製の撥水キャンバス幌が隙間なく張られている。


「よし……減衰圧も魔力チャージも異常なし、だな」


「シュン、運行前点検の全項目において規定値のクリアを確認済みです」


 助手席に滑り込んだシエラが、手元の小型端末から視線を上げた。

 黒い軍用ドレスの裾を乱れなく整え、シートベルトをカチリと真鍮のバックルに噛ませる。


「ただし、本日の運行はあくまで試走です。急制動などの無茶な運転は許可できません。万が一の際は、私が即座に非常停止レバーを引きます」


「わかってるよ。暴走なんてしないって」


 シュンは苦笑しながら運転席の革張りシートに腰を下ろした。

 後部座席からは、衣擦れの柔らかな音とともに、リリアのおっとりとした声が響いてくる。


「ふふ、とても座り心地がいいですよ〜。シートのクッションがふかふかです〜」


 リリアの膝の上には、大きな柳編みのピクニックバスケットが抱えられている。

 その隣で、ノアがシートの革張りに小さな手のひらを当て、興味深そうに撫でていた。


「しゅっぱつ……?」


「うん、出発しようか」


 シュンは手元の魔導操作レバーに手を添えた。

 指先から微小な起動パルスを送ると、真鍮製コンソールの計器が淡い青色に点灯する。


 レバーをゆっくりと前方へ押し倒した。


 キィィン……と澄んだ高周波音が鳴り響き、床下に備えられた静音魔導モーターが滑らかに回転を始める。

 車輪が軋み音ひとつ立てずに転がり出し、トロッコは留置線のレールの上を滑るように進み始めた。


 留置線のポイントを抜けると、前方にぽっかりと口を開けた暗渠が迫ってくる。

 三十年間封鎖されていた旧軍用の引き込み線トンネルだ。


 トロッコが暗渠へと進入すると、周囲の音がすっと吸い込まれるように静まった。

 両脇のコンクリート壁を、ヘッドライトの淡い光が照らし出していく。

 シュンがレバーをさらに一段倒すと、トロッコは速度を増し、滑らかに加速していった。


「おお……全然揺れないな」


「……悪くないですね」


 シエラが計器から視線を外し、わずかに口元を緩めた。

 地下のひんやりとした空気が幌の内側を吹き抜けていき、シュンの前髪を揺らした。


「地上を抜けようとしたら、検問やら野次馬やらで大騒ぎになるからね……。ここなら誰の目にも留まらない」


「……周囲反応、ゼロ。問題ありません」


「よし。じゃあ、このままのんびり行こう」


 シュンが穏やかにレバーを保つと、シエラは琥珀色の瞳をわずかに和らげ、前方の暗渠へと視線を戻した。


 暗渠をしばらく進むと、前方に巨大な鉄扉が立ちはだかった。

 トンネルを塞ぐ旧軍用の防護ゲートだ。


 シュンはブレーキレバーを引き、ゲートの手前でトロッコを滑らかに停車させた。

 運転席のすぐ横、線路脇の岩壁には、旧軍用の認証ポストが立っている。

 車外へ手を伸ばし、真鍮製の解錠スロットに六角柱の暗号キーを差し込んだ。


 キーの頭部に指を当て、わずかに魔力を流し込む。

 ポストの内部で論理タンブラーがカチカチと高速で回転し、壁を伝う配管の奥で、重厚なロックが外れる乾いた音が響いた。


 ズズズ……と低い地響きとともに、前方の分厚い防護扉が左右の岩肌へとスライドしていった。

 開かれた隙間から、鮮烈な白い光が一筋、暗いトンネルの中へと差し込んでくる。


「よし、開いた。……行こうか」


 レバーを押し倒し、トロッコが再び動き出す。

 光の中へと滑り込んでいった。


 視界が一気に開けた。


 トンネルの冷たい闇から抜け出した瞬間、初夏の眩しい陽光が頭上から降り注ぐ。

 どこまでも澄み渡った青空と、一面に広がる鮮やかな新緑。

 ツタの絡まる古い石造りの手すりと、青々と茂る草木——旧軍用監視台の跡地に残された、見晴らしの良い廃庭園だった。


 シュンは終端の留置レールに合わせてブレーキを引き、トロッコを木陰に停車させた。

 モーターの回転音が止まると同時に、高台を吹き抜ける風が、幌の隙間から車内を通り抜けていく。


 草木の青い匂いと、初夏の柔らかな温もり。


「……あ」


 後部座席で、ノアが立ち上がった。

 手すりに小さな両手をかけ、大きく身を乗り出す。


 吹き抜ける風が、肩口で切り揃えられた柔らかな髪を持ち上げ、濃紺のパーカーの背を大きく膨らませた。

 ノアはトパーズ色の瞳を見開き、胸の前にかざした両手の指先を、そっと開閉させる。


「……すごい。体の周りの空気が、ずっと流れてる」


「日照による地表温度の上昇と気圧差によって生じる、大気の物理的流動です。ただの自然現象に過ぎません」


 シエラが淡々と補足を口にしたが、ノアは首を小さく傾げた。

 頬を撫でていく風に目を細め、胸元にそっと手を当てる。


「ん……計算データは、頭の中にあったよ。でも、全然違う」


「何が違うんだい?」


 シュンがシート越しに振り返って尋ねると、ノアは言葉を探すように、小さく唇を動かした。


「あったかくて、少し涼しくて……葉っぱの擦れる音が、耳の横を通っていく。肌を撫でられると、コアの奥がくすぐったくなるの。……風って、すごく気持ちいいんだね」


 ノアはもう一度、胸の前で小さな手のひらをそっと握りしめた。

 初めて触れた世界の感触を慈しむようなその仕草に、シュンは穏やかに目を細めた。


「そうだね。外に出て、直接触れてみないとわからないことって、たくさんあるよ」


 一行はトロッコから降り、見晴らし台のテラスへと向かった。


 木陰の芝生は柔らかく、初夏の日差しを遮って心地よい影を落としている。

 シュンとシエラが特製の防水シートを広げ、四隅を真鍮のペグで地面に固定した。

 ノアがてこてこと歩いてきて、シートの中央にお行儀よく腰を下ろす。


「ふふ、見晴らしが最高ですね〜」


 バスケットを抱えたリリアが、シートの端に静かに膝をついた。

 身に纏っているのは、淡いミントグリーンのカシュクール風サマードレスだ。


 リリアは前屈みになり、バスケットの留め金を外して蓋を開けた。

 ゆったりと打ち合わされた胸元がわずかに開き、白い鎖骨と柔らかな胸元の陰影がふと覗く。


 高台を吹き抜ける風が、サマードレスの薄い生地を肌に吸い付かせた。

 ふと、柑橘の涼しげな香りが届く。


「……リリア」


「はい、シュン様?」


「そのワンピース……すごく涼しげで、よく似合っているよ」


 リリアはバスケットに伸ばしていた手を止め、菫色の瞳を細めて嬉しそうに目元を和らげた。


「ふふ、嬉しいです〜。シュン様にお見せしたくて、今朝クローゼットから選んでみたんですよ〜」


 リリアは立ち膝のまま、サマードレスの薄い裾を指先でちょこんとつまんで見せた。

 そして、包みから取り出したフォカッチャサンドを両手で持ち、シュンの目の前へとそっと差し出す。

 至近距離で覗き込むような優しい眼差し。ふんわりとした温もりが、間近から伝わってくる。


「シュン様、朝から運転お疲れさまでした。お口に合うといいのですが……どうぞ〜」


「あ、ありがとう」


 差し出されたサンドイッチを受け取ると、指先に焼きたてのフォカッチャの温もりが伝わった。

 その傍らで、シエラがお茶のボトルをトレイに置きながら、冷ややかな視線を向ける。


「……浮かれすぎないように。初夏の日差しは肌を痛めます」


「あらあら、シエラちゃん。ちゃんとお帽子を用意してありますから大丈夫ですよ〜」


 リリアがおっとりと笑いながら、バスケットからつばの広い麦わら帽子を取り出してシエラに差し出す。

 シエラは眉をひそめながらも、それを受け取って静かに頭に載せた。


 竹皮風の紙を開くと、石窯で焼き上げられたフォカッチャの香ばしい匂いが立ち上った。

 真っ赤な完熟トマトと、ルッコラがたっぷりと挟み込まれている。

 シュンは大きく口を開けてかぶりついた。


 香ばしい表面を歯が突き破った瞬間、完熟トマトの果汁がじゅわっと口の中に弾けた。


「……っ、うまい」


 シュンは思わず息を吐き、肩の力を抜いた。

 その隣で、ノアも両手でしっかりとサンドイッチを抱え、大きな口でかぶりつく。


 小さな頬をいっぱいに膨らませ、もぐもぐと一生懸命に咀嚼する。

 ごくりと飲み込んだノアは、大きな瞳を丸くした。


「……ん! トマト、すごく甘いよ。パンも外がカリカリしてて、中がふわふわ」


「ふふ、ノアちゃんのお口に合ってよかったです〜」


 リリアが嬉しそうに目を細め、ノアの口元についたパン粉をナプキンで優しく拭ってあげる。

 シエラが注いでくれた冷たいハーブティーを喉に流し込むと、心地よい清涼感が身体を巡っていった。


 日差しが高くなり、木漏れ日が芝生の上に柔らかな光の輪を描く。

 シュンはふと、隣でグラスを両手で持っているノアに目を留めた。


 ノアは長すぎる袖口をパタパタと小さく仰ぎ、首筋の熱を逃がそうとしていた。

 額の金属端子のあたりに、微かな熱気が籠もっている。


「ノア、ちょっと暑いかい?」


「ん……演算コアは平気だけど、この服、少し重いかも」


「当然です」


 シエラがグラスを置きながら、呆れたように告げた。


「それは冬用の防寒綿で仕立てられた部屋着です。初夏の屋外気温に対して通気性が劣悪すぎます」


「ゼロ・ターミナルの中はずっと空調が効いていたから気づかなかったな。外に出るなら、ちゃんとした服を着せてあげないと」


「あらあら、ノアちゃんの夏服ですね〜。涼しいワンピースや、動きやすいお洋服を選んであげたいです〜」


 リリアが手を叩いて微笑むと、ノアが首を傾げた。


「おようふく……?」


「うん。今度、街の仕立て屋に行って、ノアにぴったりの夏服を選ぼうか」


 シュンが提案すると、ノアは胸の前で両手をぎゅっと握りしめ、嬉しそうに何度もコクコクと頷いた。


 食後の穏やかな時間の中、シュンはシートから立ち上がり、展望テラスの古い石造りの手すりへと歩み寄った。


 手すりに両手を預け、眼下に広がる帝都の街並みを見下ろす。

 遠く霞む巨大な都市の輪郭。林立する煙突から灰色の煤煙が立ち上り、その合間を縫うように、網の目のように張り巡らされた高圧魔力送電線の鉄塔群が見える。

 東の区画には、銀色に鈍く光る中央変電所の変圧器が小さく佇んでいた。


「……あの頃は、あそこの線を繋ぐだけで手一杯だったな」


 シュンは小さく呟いた。

 かつて自分が泥にまみれ、昼夜を問わず駆けずり回って保守していた基幹送電線。

 連日徹夜で油まみれになり、冷水シャワーで眠気を吹き飛ばしていた日々の記憶が、遠い過去のように蘇る。


 背後からは、リリアとノアの楽しげな笑い声と、シエラが麦わら帽子の位置を直す微かな衣擦れの音が届いていた。

 手すりの石肌に手のひらを預け、シュンはふっと口元を緩めた。


(……まあ、今はきっと、ミレイさんたちが現場をしっかり守ってくれているだろうしね)


 初夏の薫風が、手すりに預けた手のひらの上を通り抜けていった。


---


 真鍮の冷たい金属光沢と、煤煙の重苦しい臭気。

 帝国魔電公社・本社ビルの最上階会議室には、冷房の冷え切った空気が淀んでいた。


 円形テーブルの上座に座るレジナルド・クロフトが、壁面の投影スクリーンを指先で指し示していた。

 手にした薄型の携帯魔導端末を軽やかにタップしながら、神経質そうな薄い唇を開く。


「下層スラムへの巡回・点検業務は、本日付で全面禁止とします」


 クロフトは投影スクリーンから視線を外すことすらなかった。


「対価を支払わないエリアに技師の工数を割くのは、業務ロスです。以上」


 並み居る公社の管理職たちが、保身から視線を伏せて黙り込む。

 重苦しい沈黙が広がる円形テーブルの末席で、ただ一人、油染みのついた作業着姿のミレイが椅子を引いて勢いよく立ち上がった。


「勝手な机上論を言わないでください!」


 テーブルに両手を叩きつけ、静寂を切り裂く。


「感情論は結構です、ミレイ主任」


 クロフトは眉ひとつ動かさず、端末の画面から視線を上げることすらしない。


「契約外の違法配線で何が起ころうと、公社の責任ではありません。不法占拠者たちの不始末まで背負い込む義理はないのですよ」


「感情論じゃありません、物理と魔電工学の話です!」


 ミレイは作業着の左胸ポケットに手を差し入れ、四つ折りにされた一枚の用紙を取り出した。

 テーブルを前へと詰め寄り、クロフトの端末の目の前へ、バン、と広げて叩きつける。


 青インクの緻密な幾何学模様で描かれた——基幹送電線のバイパス安全マージン設計図。

 余白には、『ここは閉めるな。逃げ道を作っておけ』という、几帳面で見慣れた筆跡が残されていた。


「スラムで短絡火災が起きたら、逆流サージが中央変電所を直撃するんですよ! このバイパスと巡回は、それを逃がすための命綱なんです!」


 ミレイは強く拳を握りしめ、クロフトを射抜くように見据えた。

 だが、クロフトは図面の青インクを冷淡に一瞥すると、嘲るように鼻を鳴らした。


「……属人的な非公式コードの遺物ですね」


「なっ……」


「前任者が勝手に組んだ余剰マージンを、現場の人間がありがたがって保守していただけのこと。当社の今期の至上命題は、無駄な保守コストの削減と稼働率の最大化です。起きるかどうかもわからない事故のために、巨額の点検費用を投じるなど、投資対効果の観点から論外です」


 クロフトは端末の画面を冷淡にタップし、決定事項の承認ボタンを押した。


「即時撤退を命じます。命令違反は服務規程に基づき即刻処分します」


「クロフトさん……っ!」


「話は終わりです。現場へ戻りなさい」


 冷たく言い放たれた言葉に、ミレイは奥歯を強く噛み締めた。

 震える指先でテーブルの上の設計図を掴み取り、左胸のポケットへと再び押し込む。


 クロフトはもはやミレイを一顧だにせず、窓の外の送電網を見下ろしていた。


 その視線の先——地上に張り巡らされた送電線の彼方。

 下層スラムの密集地帯の路地裏で、老朽化した配線の束が、チチッ……と微かな紫色の火花を散らしていた。


最後までお読みいただきありがとうございました!


「ピクニックが美味しそう!」「私服シエラが可愛い!」「路地裏の密着にドキドキした!」「手作りジェラート食べたい!」「無能コンサルにイライラする……!」など、少しでも楽しんでいただけましたら、広告下部の【ブックマークに追加】や【ポイント評価(★)】で応援していただけると大変励みになります!

次回も明日【18:00】に更新予定です!

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