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第55話 「一生ここから出ない」と言った男の、贅沢すぎる退屈

 平日の真昼間から、革張りソファーで完全に脱力する。

 壁際では自動投資ボットが勝手に日給を刻み、水耕プラントからは初夏の爽やかな風が流れてくる。

 理不尽な納期もなければ、怒鳴り散らす上司もいない。


 それなのに。

 クッションに顔を埋めたシュンは、喉の奥から長いため息を吐き出した。


「……退屈だ」


「聞き捨てになりませんね」


 ローテーブルの向かい側で、端末のログを精査していたシエラが顔を上げた。

 琥珀色の瞳が、冷徹な光を帯びてシュンを射抜く。


「ここへ来た日の夜、『一生ここから出ない』と布団にしがみついていた音声ログ、再生しましょうか」


「うっ……シ、シエラさん? そういう忘れたい記録をピンポイントで掘り返すのはやめてくれないかな……」


「活動ログの照合結果を述べたまでです。望み通りの不労生活を手に入れておいて『退屈』とは。贅沢病の最重度と判定します」


「うっ……そ、そうはっきり言われると、何も言い返せないけどさぁ……!」


 シュンはクッションの上でばたばたと両足を跳ねさせ、情けなく身悶えした。


「働きたくはないよ、死んでも嫌だよ! でも、ずっと同じ場所に転がってるのにも飽きちゃったんだ! たまにはちょっと外っぽい気分を味わいたいって思うくらい、許してくれたっていいだろ!?」


「救いようのない我儘ですね。外気導入ファンなら平常通り稼働していますが」


「ファンの風じゃなくて! こう、生身の肌を撫でる本物の初夏の風とかさ!」


 ジト目で睨みつけてくるシエラに対し、シュンはすっと視線を逸らした。

 そのまま、水耕プラントの前でしゃがみ込んでいる小柄な背中へと素早く指を向ける。


「そ、それにさ! 僕個人の話じゃないんだよ! ほら、見てごらん、ノアを!」


 水耕プラントの前で、ノアが葉菜の裏側を熱心に覗き込んでいた。

 名前を呼ばれたことに気づき、トパーズ色の瞳をぱちくりと瞬かせながらこちらを振り返る。


「……ボク?」


「そう、ノアだ! ノアは古代の超並列演算コアを持ってるけど、外の世界をほとんど知らないだろ? 本物の木漏れ日とか、初夏の草いきれとか、冷たいジェラートとかさ……そういう生活実感を体験させてあげる、情操教育が必要だと思うんだよね!」


「情操教育、ですか」


 シエラは眉をわずかにひそめ、冷ややかな視線をシュンへと戻した。

 呆れを含んだ吐息が、薄い唇から漏れる。


「自分の怠惰な気まぐれを正当化するために、ノアの教育を都合のいい口実にするのは感心しませんね」


「ジェラート……?」


 ノアが立ち上がり、袖口から指先だけを覗かせながら小走りで近寄ってきた。

 ソファーの縁に小さな手をかけ、興味深そうに首を傾げる。


「冷たい、やつ……? 甘いの?」


「そう! 果汁とミルクを凍らせたお菓子でね、舌に乗せるとひんやり冷たくて、食べすぎると頭がキーンとするんだ」


「きーん……。ボクの内部温度センサー、警報鳴るかな。……食べてみたい。計算データじゃなくて、舌のセンサーで確かめたい」


 ノアの素直な言葉に、シュンは「ほら見ろ!」とばかりに胸を張った。

 そこへ、キッチンから歩み寄ってきたリリアが、冷たいハーブティーを載せたトレイをローテーブルへ静かに下ろす。

 興味深そうに目を輝かせるノアの頭をそっと撫で、菫色の瞳を柔らかく細めた。


「ふふ、とっても素敵な思いつきだと思いますよ〜。シュン様がそんなに楽しそうに目を輝かせていらっしゃるの、見ている私まで嬉しくなってしまいます〜。私は大賛成ですよ〜」


「リリアまで……。シュンが調子に乗るだけです」


「いいではありませんか〜。ずっと地下にこもりきりでは、お身体が固まってしまいますもの。ね、シュン様?」


「さすがリリア、話がわかる……!」


 シュンはソファーの上で両手を合わせて拝み、シエラは小さく肩を竦めた。


「とはいえ、街中を堂々と歩き回るわけにはいかないよね」


 シュンはソファーから起き上がり、顎に手を当てた。


「公社の目もあるし、何より人混みは胃が痛い。……人目を避けて、僕らだけで外の空気を吸える場所か」


 壁面の情報端末を指先で弾き、全体見取り図を呼び出す。

 画面の端、通常ログから外された古い引き込み線をタップした。


「……ここ、生きてるかな。留置線の奥にある封鎖トンネル。確か、郊外の高台に抜けてたはずだ」


「旧第3監視台跡地へと続く軍用軌道ですね。防護扉のロックは生きていますが、車両がありません」


「車両なら、留置線の奥に転がってたはずだよ。よし……ちょっと見に行ってみよう」


 シュンはリビングの脇に掛けてあった作業用の白衣コートを羽織ると、足早に通路へと向かった。


 リビングを抜け、資材通路の奥へと進む。

 鈍く光るレールが二本並ぶ留置線の奥、非常用照明の薄暗がりの中に、鋼鉄の車両が静かに佇んでいた。


 旧軍用の保守軌道トロッコ。

 長年の放置によってフレームや車輪の表面には赤錆が浮いているが、極厚の圧延鋼板で組まれた無骨な車体は、歪みひとつなくレールの上にしっかりと乗っている。


「うわあ……ボロボロだね」


 横に並んだノアが、目を丸くして見上げる。

 シュンは車軸の付け根を指先でコンコンと叩き、分厚いフレームの表面を手のひらで撫でた。


「錆びてるのは表面だけだよ。フレームは歪みもないし、頑丈そのものだ。……うん、これなら手を入れれば十分走る」


 工作室からツールワゴンと油圧ジャッキをガラガラと引き出してくる。

 シュンは腕まくりをすると、車体の下へ潜り込んだ。


「よいしょっと……。このモーター、重すぎるな。降ろしちゃおう。ノア、そこのレンチを取ってくれるかい?」


「ん、これ?」


「ありがとう、助かるよ」


 ノアからレンチを受け取り、シュンは古いモーターのマウントボルトを緩めにかかった。

 錆びついたエンジンをジャッキで引き摺り下ろし、代わりに工作室からいくつかの木箱を運び込んでくる。


 床に並べられた見慣れない部品と、広げられたキャンバス地の幌を見下ろし、腕を組んだシエラが眉を寄せた。


「……静音コアに、エアサスペンション。装甲トロッコでピクニックにでも行くおつもりですか」


「風情だよ、風情。せっかく外の空気を吸いに行くんだから、のんびり走りたいじゃないか」


 シュンは笑いながら、車体の下へ潜り直した。

 新しいモーターをマウントに乗せ、ボルトを通そうとするが、フレームの奥まった隙間に大人の手がなかなか届かない。


「うーん……ここ、指先がギリギリ入らないな」


「ボクがやるよ」


 横から身を滑り込ませたノアが、小さな手をすっと伸ばした。華奢な指先が狭い鉄骨の隙間に入り込み、ボルトの先端を奥のナットへ正確に噛み合わせる。


「ここ? 止まったよ」


「おお、助かった! そのまま軽く押さえてて」


 シュンがスパナで本締めを済ませると、車輪の脇で腕を組んでいたシエラが、呆れたように小さく息を吐いた。手元のツールワゴンからトルクレンチを手に取る。


「……締め付けトルクが目分量すぎます。均等に圧力が分散していません。貸しなさい」


「あ、手伝ってくれるんだ。ありがとうシエラ」


「安全基準を満たしていない車両に乗せられるのは御免ですから」


 シエラは淡々と告げると、レンチのヘッドをボルトに噛ませた。

 無駄のない所作で力を込めていくと、カチリ、と硬質な金属音が地下の静けさに小気味よく響く。手際よく、すべてのボルトのトルクを一本ずつ正確に揃えていった。

 そこへ、トレイを持ったリリアが資材通路を歩いてきた。


「ふふ、みなさん油まみれですね〜。麦茶が冷えていますよ〜」


「生き返る……! ありがとうリリア」


 冷えた麦茶を一気に飲み干し、最後の仕上げに取り掛かる。

 撥水キャンバス地の幌をフレームの上へ掛け、四隅の真鍮製スナップボタンをパチン、パチンと手際よく留めていく。油を差した車輪をシュンが手のひらで軽く押すと、分厚い鉄の塊は、軋み音ひとつ立てずにレールの上を「スーッ」と滑らかに滑り出した。


「よし……! 完璧、ちゃんと転がるな」


 立ち上がって満足げに息を吐くシュンの横で、ノアが自分の両手を胸の前に掲げ、まじまじと見つめていた。


「……手、真っ黒になっちゃった」


「あはは、夢中で手伝ってくれたからね。僕も全身ススだらけだよ。……よし、道具を片付けて、リビングで手を洗おうか」


 一行は工具をツールワゴンにまとめ、工作室を経由してリビングへと戻った。


 洗面台で入念に手を洗い終えたシュンは、ソファーに「あーっ」と深く身を沈めた。

 リリアが差し出してくれた冷たい珈琲をひとくち啜り、固まった肩を回す。


 その傍らで、ダイニングチェアに座ったノアが、じっと手首を回していた。

 手首を傾けるたびに、小さく「きゅ、きゅ」とぎこちない擦れ音が鳴っている。


 ウエスで指先を拭き終えたシエラが、それを見咎めて眉を寄せた。


「ノア。無理に手首を回すのをやめなさい。作業で金属粉が関節に入り込んでいます」


「ん……なんか、引っかかる」


「放っておくと駆動部が摩耗します。手入れを教えますから、じっとしていなさい」


「手入れ……?」


「機巧同士の相互メンテナンスです。まずは私が手本を見せます。手首を出しなさい」


 ノアが素直に腕を差し出すと、シエラはその前に片膝をついた。

 パーカーの袖口をそっと引き上げ、手首の関節スリットを露出させる。

 小型の魔導ブロワーを取り出し、微細なエアを吹き付けて隙間の埃を払う。続いてアルコールを含ませた細い綿棒で、金属端子の隙間を丁寧に拭き上げた。


「ん……くすぐったい」


「微小な振動をくすぐったいと誤認しているだけです。これで手首の稼働ノイズはゼロになりました。次はノアの番です。私の背面の第2排熱スリットを点検しなさい」


「うん、やってみる」


 シエラは立ち上がり、椅子に背を向けて腰を下ろした。

 黒い軍用ドレスの背中にあるジッパーを、肩甲骨の間あたりまで引き下げる。布地をわずかに左右へ割り、肩口を少し寛げると、白く滑らかな背筋の中央に、縦に走る繊細なスリット状の排熱孔が露わになった。


 ノアが椅子の背後に回り、身を乗り出すようにしてスリットを覗き込む。

 大きな瞳を凝らし、金属の隙間をじっと見つめた。


「あ、ちっちゃいチリが挟まってる」


「ブロワーを使いなさい。無理にこじ開けてはなりません」


「うん……あ」


 ノアはブロワーに手を伸ばしかけたが、ふと何かを思いついたように顔を寄せた。

 排熱スリットの間近、わずか数センチの距離まで口元を近づける。


「……ノア? 何を——」


「ふー……ふぅーーっ」


 小さくすぼめられた唇から、温かな生きた吐息が、開かれたスリットの奥へと直接吹き込まれた。


「ひゃぅっ……!?」


 シエラの細い背筋が、弓なりに跳ね上がった。

 白銀の髪が激しく揺れ、耳の裏側に隠された微小スリットから、鋭い排熱音とともに白い蒸気が噴き上がる。


「なっ……ななな、何を……っ!?」


 シエラは椅子の上で身を捩り、両手でドレスの胸元を強く握りしめた。

 首筋から耳たぶ、頬に至るまでが一瞬にして朱に染まり上がる。


「そ、そのような直接的な呼気の吹き込みは……ひゃんっ、やめなさい! 息を吹きかけるのをやめなさいと言っていますっ!」


「えっ……でも、チリ飛ばそうと思って。……ふー」


「ふー、ではありませんっっ!」


 シエラは跳ねるように立ち上がり、振り返ってノアの両肩を掴んだ。

 頭頂部からうっすらと熱気を立ち上らせながら、激しく肩を上下させている。


 ソファーの端で珈琲を口に運んでいたシュンは、盛大に喉を詰まらせた。


「ごほっ……! げほっ、ごほっ……!」


「シュン様、大丈夫ですか〜?」


 リリアが駆け寄り、優しく背中をさすってくれる。

 シュンは大きく開かれたシエラの背中から、慌てて視線を逸らした。


「シエラお姉ちゃん、怒った……?」


「怒ったのではありません! 排熱スリットは敏感な熱源センサーなんです! いきなり生温かい息なんて吹き込まれたら……演算処理が狂うでしょうがっ!」


 シエラは耳の裏から微小な蒸気を噴き上げながら、慌てて背中のドレスを掻き抱いた。


「……もう結構です。本日の相互メンテナンスはここで終了とします!」


「えー……。ボク、もっと手入れの練習したい。……じゃあ、リリアとやる?」


 ノアが無邪気にリリアを指差した瞬間、シエラの表情が凍りついた。

 まだ熱の引かない顔のまま、真顔で力強く首を横に振る。


「……だ、駄目です。リリアとの相互メンテナンスは、ノアにはまだ早すぎます」


「どうして?」


「リリアのメンテナンスは……過剰に快楽刺激が強すぎます。それはもう少し、あなたが経験を積んだらにしなさい」


「あらあら〜、シエラちゃんったら」


 リリアがおっとりと首を傾げ、穏やかに微笑む。


「そんな大げさな〜。私はただ、シュン様やシエラちゃんのお身体の隅々まで、心を込めてとろとろに解きほぐして差し上げているだけですよ〜?」


「ごほっ、ごほっ、ごほぉっ……!!」


 シュンは目を丸くして珈琲を取り落としそうになり、耳まで真っ赤にして激しく咳き込んだ。


「シュン様、本当にお苦しそうですね〜。今夜はゆっくり、全身のメンテナンスをして差し上げましょうか〜?」


「だ、大丈夫、本当に大丈夫だから……!」


 顔を真っ赤にして手を振るシュンを、リリアがふわりと微笑んで見つめている。

 その背後で、シエラは乱れたドレスの肩口を慌てて正すと、耳元まで赤く染めながら背中のジッパーを首元まで一気に引き上げていた。


---


 真鍮の冷たい金属光沢と、煤煙の重苦しい臭気。

 帝都の中枢に聳え立つ、帝国魔電公社・本社ビルの最上階執務室。


 窓の外に広がる送電網を見下ろしながら、チャコールグレーのベストを纏った男が端末を指先で叩いていた。

 煤ひとつついていない指先。ノーネクタイの襟元からは、冷房の冷気すら生ぬるく感じるほどの無機質さが漂う。


「……裁量に任せた結果がこの有様ですか。全作業を30分単位で可視化しなさい」


 背後に控える公社の役員たちが、青ざめた顔で深々と頭を下げる。

 レジナルド・クロフト——公社が外部から招いたこの男の前では、誰もが口を噤むしかなかった。


 地下深くの湿った冷気が淀む、第3調律室。


 天井の配管から時折ぽたぽたと落ちる冷たい水滴を避けながら、ミレイは作業机の前に立ち尽くしていた。

 机の上には、本社から通達されたばかりの分厚い書類の束——『30分実績管理表』が山積みにされている。


「……30分ごとに、作業を中断して帳票を書け?」


 ミレイの唇から、掠れた声が漏れた。

 調律ピットの奥から、キィィン……と配管の軋み音が微かに響く。

 わずかな圧力の揺らぎを捉えて腰を浮かせかけたミレイは、机に積まれた白紙の山を見下ろし、ギリッと紙束の端を握り潰した。


「現場を一度も見に来ないくせに……あのコンサル野郎……!」


 奥歯を強く噛み締め、荒い息を吐き出す。

 深く息を吸い直すと、ミレイは机の最下段の引き出しを開けた。


 黒ずんだ真鍮の工具箱の底。

 誰にも見つからないよう隠されていた、四つ折りの一枚の用紙を指先で取り出す。


 広げられた紙片には、走り書きの青インクで、第3調律室管轄エリアのバイパス系統図がびっしりと書き込まれていた。

 余白には、『ここは閉めるな。逃げ道を作っておけ』という、見慣れた几帳面な筆跡。

 かつてこの部屋で、誰よりも泥にまみれて図面を引いていた先輩の手書きメモ。


 ミレイは指先でその筆跡をそっと撫でると、丁寧に折り畳み、作業用外套の左胸ポケットへと滑り込ませた。

 ジッパーを首元まで引き上げ、配管ピットの暗闇を見据える。


 スパナを握り直した指先が、ぎゅっと白くなるまで柄を締め込んだ。

 配管ピットの暗がりへ向けて、作業灯のスイッチが入る。


最後までお読みいただきありがとうございます!

本話より【第5章:外に出て初めてわかることと、現場軽視の机上論編】が開幕いたします!


ノアが家族に加わり、3体の美少女オートマタたちと過ごす地下要塞の完全不労ライフ。

シュンが次に挑むのは……まさかの「大人の乗り物道楽」と外へのピクニック!?

新たな章でも、至福の日常とお色気メンテナンス、そして現場を舐めた者たちの痛快な自滅劇を毎日お届けしてまいります!


「第5章も楽しみ!」「トロッコのレストアがワクワクする!」「4人の日常をもっと読みたい!」と思っていただけましたら、広告下部の【ブックマークに追加】や【ポイント評価(★)】で応援していただけますと大変励みになります!

次回も明日【18:00】に更新予定です!

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