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第54話 「ここはノアの家だよ」

 静かなリビングに、壁面の通信コンソールから低く電子音が響いた。

 真鍮のパネルに並んだインジケーターランプのうち、暗号回線を示す青い光が規則正しく点滅を繰り返している。


「……ジュリアンさんからだ」


 ソファーから立ち上がり、壁際のコンソールへ歩み寄る。

 受話スイッチを指先で押し上げると、薄型モニターに走査線が走り、執務服姿のジュリアンが映し出された。

 手元に積まれた分厚い報告書を手早く片付け、画面越しに視線を向けてくる。


「やあ、シュン。無事な顔が見られて何よりだよ」


「ジュリアンさん。そちらはもう片付いたんですか?」


「ああ。昨夜は危険な事態に巻き込んでしまって、本当にすまなかったね」


 画面越しに申し訳なさそうに眉を下げるジュリアンに、シュンは小さく首を横に振った。


「あの時も言いましたけど、僕も逃げるわけにはいかなかったんです。気にしないでください」


「ありがとう。そう言ってもらえると救われるよ。……巻き込んでしまった君には、今回の顛末をきちんと話しておきたいのだが、少し時間をもらってもいいかい?」


 シュンが小さく頷いて先を促すと、ジュリアンは表情を引き締め、手元の書類へと視線を落とした。


「昨夜の炉心暴走だがね。開発院の最高責任者——ヴォルフラム局長が、本日の機密監査を潰そうとパイプラインに細工したのが発端だったんだ」


「……監査を潰すために、パイプを?」


「ああ。警報を鳴らして立ち入り禁止にするだけのつもりだったらしいが、稚拙な真似をして制御を失ったのさ」


「巻き込まれた方は、たまったものじゃないですよ……」


「全くだよ。命知らずにも程がある。……だが、結果としては自滅してしまったんだ」


「自滅、ですか?」


「ああ。あの避難騒ぎのおかげで、誰もいない局長室を押さえることができてね」


 ジュリアンが手元の書類をトントンと机に揃える。


「隠し金庫から、裏帳簿が丸ごと出てきたよ。以前君に話しただろう? 横領と失態を、全部NOAHのせいにして闇に葬ろうとしていた件だ」


「……あの横領の証拠が見つかったんですね」


「ああ。巨額の予算を着服していた主犯は、他ならぬ局長本人だった。出勤してきたところを都市警察に引き渡して、すべて終わりだ」


「……良かったです。本当に」


 ほっと胸を撫で下ろしてから、シュンは少し苦笑交じりに眉を上げた。


「しかし、僕が地下で作業している間に監査の捜査まで進めてたなんて。ジュリアンさんも、意外とちゃっかりしてますね」


「はは、君にそう言われると返す言葉もないな。……だが、君なら必ず安全に止めてくれると信じていた。だからこそ私は現場を君に委ね、査察に専念できたんだ」


「信じてくれたのは嬉しいですけど……本当に綱渡りでしたよ」


「はは、だが結果は完璧な冷温停止だ。……もちろん、地上からの停止策も進めていたよ」


「分かってますよ」


「ありがとう。……そして、もう一つ重要な報告がある。機体コードNOAHの処遇についてだ」


 ジュリアンが机の脇から別の書類を一枚取り上げる。

 ソファーの端で画面を見つめていたノアが、袖口をきゅっと握りしめた。


「公式記録上、NOAHは昨夜の事故に伴い、機体全体が気化・全損したとして書類処理を完了させたよ」


「……全損、ですか」


「消失扱いだと、捜索令状が残り続けるからね。案件そのものを消滅させるのが、君たちの日常を守る最善手だ」


「ありがとうございます……これで、本当に追われる心配はなくなったんですね」


 書類を執務机に置いたジュリアンが、ふっと息を継ぐ。

 そして次の瞬間、その碧眼が一気に爛々と輝きを帯びた。


「——さて、事務的な報告はここまでだ! シュン、あの波形ログを見せてもらったよ! 一体どうやったんだい!?」


 身を乗り出し、画面いっぱいに詰め寄ってくるジュリアンに、シュンは思わず両手を上げて苦笑した。


「あ、あの、落ち着いてください。停止のシーケンスを組んだのは僕ですけど、実際に灼熱の現場に入って手動弁を開け、波形を同期させたのはノアなんですよ」


「……なんだって!? NOAHが、あの極限環境下で超並列演算を自律実行したというのかい!? デッドロックの完全脱却プロトコルをすでに確立しているとでも!? 素晴らしい、ぜひそのアーキテクチャの波形データを——」


 一段ギアを上げて熱狂的にまくしたてようとする画面の横で、だぼつく袖口から指先をちょこんと出し、ノアが小首をかしげた。


「シュンのお友達と、お話ししようか?」


「……ううん。教育に悪そうだから、やめておこう」


 シュンはコンソール脇に備え付けられた、赤い大型の物理遮断レバーに手を伸ばした。

 迷うことなく、レバーを真下へと押し下げる。


 カチリ、と硬質な金属音が響き、スピーカーから溢れ出ていた早口の声がぷつんと途絶えた。

 モニターの光がすっと消え去り、リビングに再び穏やかな静けさが戻る。


「……回線の物理遮断、および一時暗号キーの消去を確認しました。長話を未然に防ぐ処置として、妥当と判断します」


 壁際に控えていたシエラが、淡々とした声で告げる。


「ふう……危ないところだった。あのまま聞いてたら、お昼になっちゃうよ」


 シュンは息を吐き出しながらソファーへ戻り、再び腰を下ろした。


 隣に座っていたノアが、自分の小さな手のひらを見つめている。

 指先をゆっくりと握りこみ、それから顔を上げてシュンを見つめた。


「ボク……ずっと、ここにいていいの?」


「ああ。ずっとここにいていいんだよ。もう追ってくる人なんて誰もいない。……ここはノアの家だよ」


 シュンが優しく笑い、柔らかな髪にそっと触れて撫でる。

 ノアの瞳が丸くなり、嬉しそうに口元が綻んだ。


 ノアがソファーの上をつつと滑るように寄ってくると、迷わずシュンの膝の上へちょこんと腰を下ろした。

 そのまま胸元へすりすりと額を預けてくる。

 小柄な体躯の柔らかな温もりが、部屋着越しに直接伝わってきた。


「ノア。シュンは昨夜から稼働し通しで疲労しています。そのような無防備な密着は、生体への過剰な負荷となり——」


 歩み寄ってきたシエラが、眉をひそめて口を開きかける。

 だが注意の言葉が紡がれる前に、ノアが膝の上から振り返った。


「シエラお姉ちゃんも、一緒に座ろう?」


 無邪気なトパーズ色の瞳で見上げ、空いている左側のクッションを小さな手でぽんぽんと叩く。


「……なっ……」


 琥珀色の瞳をわずかに泳がせ、すっと視線を天井へと逸らす。


「……シュンの姿勢の崩れを、物理的に是正するためです」


 早口にそう言い添えると、シエラは視線を逸らしたまま、シュンの左隣に腰を下ろした。

 肩と腕がぴったりと触れ合う距離で、そっと寄り添ってくる。


 ローテーブルの上の空になったカップをトレイに載せていたリリアが、その様子を見て穏やかに目を細めた。


「ふふ、仲睦まじいですね〜」


「リリアも、今日はお休みしよう?」


 膝の上のノアが、今度は右側を振り返って声をかける。

 リリアはトレイを抱えたまま、驚いたように小さく瞬きをした。


「あらあら……私までですか?」


「うん。みんなでお休み」


「ふふ、それならお言葉に甘えましょうか」


 トレイをテーブルに戻すと、リリアもシュンの右隣へ腰を下ろした。

 穏やかな笑みを浮かべ、シュンの右腕を優しく抱き寄せてくる。


 正面の膝の上には胸元にすり寄るノア。

 左側にはそっぽを向きながら密着するシエラ。

 右側には穏やかな笑みで腕を抱き寄せるリリア。


 三方から完全に塞がれ、身動きが取れなくなったシュンは、天井を見上げて脱力した声を漏らした。


「……あの、みんなノアに甘すぎない?」


「一番甘やかしている人が何を言っているのですか」


 シエラから即座に鋭いツッコミが返され、リリアがくすくすと肩を揺らす。


「ふふ、シュン様、とっても温かそうですね〜」


 リビングに柔らかな笑い声が溶けていく。


---


 穏やかな時間が流れ、時計の針が昼前を指す頃。

 リビングの奥に設えられた完全自動水耕栽培プラントでは、魔導LEDの光の下で青々とした葉が鮮やかに息づいていた。


 摘みたての柔らかなレタス、完熟した真っ赤なトマト、爽やかな香りを放つフレッシュバジル。

 香ばしくトーストしたパンに挟まれた春野菜のサンドイッチが、ローテーブルの大皿に山盛りに並んでいる。

 陶器のカップからは、シエラが丁寧に淹れた深煎り珈琲の芳醇な香りと、細い湯気が立ち上っていた。


「シュン様、昨夜はお疲れでしたものね。どうぞこのまま……ふふ、はい、あ〜ん、です」


 リリアが、一口大に整えたサンドイッチを指先でつまみ、シュンの口元へそっと運んでくる。


「リ、リリア、自分で食べられるよ……」


「駄目ですよ〜。頑張ったシュン様を甘やかすのが、私のお仕事ですから。ほら、どうぞ」


 菫色の瞳を細めて穏やかに微笑まれ、シュンは小さく息を漏らして口を開けた。

 シャキリとした瑞々しいレタスの歯ごたえと、パンの香ばしさが口いっぱいに広がる。


 その様子を見ていたノアが、嬉しそうに目を輝かせた。


「ボクも! シュン、これ、トマト!」


 自分が手入れを続けた完熟トマトが挟まれたサンドイッチを、小さな両手で持ち上げ、一生懸命に差し出してくる。


「ありがとう、ノア」


 シュンが身を寄せて頬張ると、口いっぱいに果汁が弾け、自然な甘みが広がった。

 噛みしめるうちに、シュンの口元が自然と緩んでいく。


「……うん、すごく甘いよ。ノアがお世話してくれたおかげだね」


「ん! ボクのお野菜、おいしい!」


 誇らしそうに胸を張るノアの頭を撫でてやると、左隣から湯気の立つカップがすっと差し出された。


「……全く、二人とも甘やかしすぎです。シュン、急いで咀嚼して喉を詰まらせては困ります。適度な水分補給を求めます。ほら、冷めないうちに飲んでください」


 シエラが陶器のカップの縁を、シュンの口元へそっと添えてくる。


「シエラまで……」


 苦笑しながら傾けられた珈琲を口に含むと、澄んだ苦味と芳醇な香りが喉を潤し、後味をすっきりと引き締めてくれた。


 薄暗い調律室で、泥まみれの軍手を外す指先が震えていた夜があった。

 冷たい実験台の隅で、小さな身体を丸めていた姿があった。


 珈琲のカップを傾ける。

 左肩に預けられた白銀の髪が、微かに揺れた。


最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!

第54話をもちまして、【第4章:捨てられた少女機巧と春の道楽クラフト編】が大団円完結となります!


不当に「欠陥品」と捨てられたノアを救い出し、シエラやリリアと共に4人で囲む焼きたてピザと春野菜サンド。

「ここはノアの家だよ」という居場所の約束、そして愚かな権力者の自滅を安全圏から見届け、さらに強固となった至福の不労生活――。

シュンたちの温かな春の日常を、最後まで見届けてくださり本当にありがとうございました。


もし「最高にスカッとした!」「ノアが幸せになれて本当によかった!」「4人の日常が温かい!」「面白かった!」と感じていただけましたら、ぜひ広告下部にある【ポイント評価(★★★★★)】や【ブックマーク追加】で応援していただけますと幸いです。作者の最大の励みになります!

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