第53話 現場を知らぬ浅知恵の露呈。現場を知らない奴ほど、現場を主張する
高い吹き抜けの天井から吊り下げられた真鍮のシャンデリアが、磨き上げられた大理石の床に冷たい幾何学模様を落としていた。
壁掛けの大時計の長針が、午前9時45分を指して淡々と音を刻む。
正面のガラス扉を押し開け、帝国軍事技術開発院局長ヴォルフラム・フォン・アイゼンベルクが足を踏み入れた。
顎をわずかに突き出し、大理石の床を踏み鳴らして大股に進む。
その口元には、勝ち誇った笑みが張り付いていた。
昨夜の肝の冷えた記憶を、顎を上げることで振り払う。
(まさか、本当に魔導炉が暴走するとはな。現場の無能どもめ、パイプの弁を少し回すことすらできんとは……)
だが、結果としては怪我の功名だ。
(ふん……重大な魔力事故が発生したのだ。現場保全と保安規定を盾にすれば、本日の機密監査などいくらでも中止・延期に追い込める)
監査団を玄関先で鼻先であしらい、追い返してやるつもりで、ヴォルフラムは悠然とホールの中央へと進み出た。
だが、エントランスの中央には、すでに整然とした一団が待ち構えていた。
ローゼンバーグ財閥の家紋が刻まれた腕章を巻いた機密監査チーム。
その先頭には、ジュリアン・フォン・ローゼンバーグが静かに佇んでいる。
さらにその背後には、都市警察の捜査員たちが壁際に沿って無言で整列していた。
ヴォルフラムは眉をひそめつつも、すぐに口元に嘲るような笑みを浮かべ、靴音を響かせて歩み寄った。
「おや、ジュリアン卿。わざわざ朝早くから出向いていただいたようだが、無駄足だったな」
ヴォルフラムはポケットから金時計を取り出し、蓋を指先で弾くようにパチンと閉めてみせた。
「残念ながら、本日の機密監査は中止だ。昨夜未明、地下保管庫で予期せぬ重大な魔力障害が発生してね。帝国の保安規定に基づき、現場は全面立ち入り禁止、事故原因の調査を最優先とする。……出直してもらおうか」
そう通告し、外套を払って背を向けようとするヴォルフラムに対し、ジュリアンは身じろぎひとつしなかった。
その端整な顔立ちに、冷ややかな薄い笑みが浮かぶ。
「機密監査の中止、ですか。ずいぶんと素早いご判断ですね」
ジュリアンは澄んだ碧眼をすっと細め、静かに言葉を継いだ。
「ところで局長。ずいぶんとゆっくりなご出勤のようですが、どちらにいらっしゃったのですか?」
ヴォルフラムの足がぴたりと止まる。
振り返った顔に、苛立ちが走った。
「最高責任者の安全を確保した上での判断だ。我々の適切な処置で暴走状態こそ脱したが、一度臨界寸前まで達した炉心だ。まだどんな危険があるか分からん。現場を知らん出資者には分からんだろうが、危険区域への立ち入りは一切許可できん」
「現場、ですか……」
ジュリアンは小さく呟き、冷ややかな目を向けた。
「その『現場』なら、すでに私どもが確認させていただきましたよ。なにぶん、最高責任者の方にまったくご連絡がつかなかったものですからね。……夜明け前から、ずっとここで」
ジュリアンが手元の黒革のバインダーを静かに開いた。
「な……夜明け前から、だと……?」
「早くから待っていたとでもお思いでしたか? 私たちは最初の通報直後から、都市警察と共にこの開発院の全管轄ラインを押さえています」
ジュリアンはバインダーから一枚の記録用紙を抜き取り、ヴォルフラムの目の前に掲げた。
「これが現在の地下第七保管庫の炉心計測ログです。臨界反応は完全停止。一次冷却系の管内温度は摂氏80度以下で安定し、魔力サージのノイズも皆無です」
用紙に印刷された整然とした波形を目にした瞬間、ヴォルフラムの喉がひくりと跳ね上がった。
「なっ……そこまで完璧に安定しているだと……!? そんなはずは……」
「危険がないことは確認済みです。立ち入りを拒否する理由など、どこにもありませんよ、局長」
ジュリアンの宣告に、ヴォルフラムの頬が引きつる。
「さらに言えば、事故原因を調査する必要すらありませんよ。すでに原因も、責任の所在も、すべて確定していますから」
バインダーのページがめくられ、別の書類が提示される。
「『一次バイパス流量を3%絞れ』……貴方が当直技師に下した緊急指示書です。直筆の署名もしっかりと残っている」
「なっ……!」
「そしてこちらが、固着したバイパス弁の解析データです」
ジュリアンは冷ややかにヴォルフラムを見据えた。
「スラッジの溜まる配管で無理に弁を絞れば、熱膨張で軸が固着して減圧沸騰を起こす。現場の常識ですよ」
「ぐっ……!」
「監査から逃れるために警報を鳴らすつもりが、自らの浅知恵で本物の暴走を引き起こした。……違いますか、局長?」
ヴォルフラムの額から、じわりと脂汗が滲み出た。
唇から血の気が失せ、指先が微かに痙攣する。
「で、出鱈目だ……! そんな指示は現場が勝手にやったことに決まっている! だいたい、そんなログが本物だと誰が信じるか!」
取り乱して怒鳴り散らすヴォルフラムを見据え、ジュリアンは静かに目を細めた。
「では、ご自身の目で確かめに行きましょうか。……どうぞ、局長」
背後に控えていた都市警察の捜査員二名が無言で歩み寄り、ヴォルフラムの両脇を固めた。
エレベーターで地下深くへと降り、地下第七保管庫の防爆隔壁が開かれた。
漏れ出してきたのは熱気ではなく、冷え切った静寂だった。
警報の消えた保管庫の奥、制御盤のモニターには揺らぎのない正弦波が静かに明滅している。
「な……なんだこれは……!?」
ヴォルフラムは目を剥き、よろめくように後ずさった。
「馬鹿な……誰がこんな制御を……!? 現場の連中にできるはずが……こんなはずは……!」
支えを失ったように膝が折れ、ヴォルフラムは冷たい金属床の上にどさりと崩れ落ちた。
到底理解できない光景を前に、顎をガクガクと震わせる。
ジュリアンは床にへたり込んだ男を、冷徹な眼差しで見下ろした。
「……君には、一生理解できない領域ですよ」
ジュリアンは視線を巡らせ、保管庫の最奥——もぬけの殻となった中央の拘束ポッドを一瞥した。
開放されたハッチ、切断された太い拘束ケーブル。空っぽの円筒。
ジュリアンは誰にも気づかれないほどわずかに、小さく頷いた。
そこへ、都市警察の警部が靴音を響かせて歩み出た。
その手には、局長室の隠し金庫から押収されたばかりの、黒い革表紙の裏帳簿が握られている。
「帝国軍事技術開発院局長、ヴォルフラム・フォン・アイゼンベルク」
警部の落ち着いた声が、静まり返った保管庫に響き渡る。
「貴殿を帝国法規違反、ならびに出資詐欺および巨額開発費横領の現行犯で逮捕する」
「ば、馬鹿な……私は帝国貴族だぞ! こんな不当な……!」
「すでに貴族院法廷への身柄引き渡し令状も出ている。爵位の剥奪と全財産の没収、北方要塞牢獄への永久流刑は免れんぞ。……連行しろ」
警部の宣告に、ヴォルフラムは床に突っ伏したまま言葉を失った。
呻き声すら上げられず、物音ひとつない沈黙の中、両脇を捜査員に抱えられて引きずられていく。
その背中を見送ることすらなく、ジュリアンは静かに踵を返した。
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微かに漂うハーブの香りに、シュンはソファーの上でゆっくりと瞼を持ち上げた。
手足の指先に力が入らず、全身が重い。
ローテーブルの上のティーカップから、白い湯気がふわりと立ち上っていた。
「おはようございます、シュン様。よく眠れましたか?」
エプロンドレス姿のリリアが、柔らかな笑みを浮かべてカップを差し出してくる。
「……おはよう、リリア。ありがとう」
カップを受け取り、温かな湯気を吸い込みながら一口含む。
喉を通る優しい香りに、強張っていた肩の力がふっと解けていく。
「まったく、戻ってきた途端にソファーへ倒れ込むなど、危機管理意識の欠如にも程があります」
壁際に腕を組んで立っていたシエラが、琥珀色の瞳をわずかに細めた。
「だ、だって……無事に帰ってこれたと思ったら、一気に全身の力が抜けちゃったんだよ」
シュンが視線を落とすと、ソファーの端に座っていたノアが顔を覗き込んできた。
「シュン、おはよう。……お顔、痛くない?」
「痛くないよ。ノアこそ、身体のどこか熱くなってたりしないかい?」
「ん。ぜんぜん平気。どこも熱くないよ」
ノアは嬉しそうに目を細め、小さな両足をぱたぱたと揺らした。
「ふふ、昨夜は本当にお疲れ様でしたね。今日はお気の済むまで、ゆっくりお休みになってくださいね」
リリアが優しく微笑むと、ノアも嬉しそうに頷き、シエラを見上げた。
シエラは小さく息を吐き、ふいと視線を逸らす。
「……そんな目で見られたら、反対できるわけがありません。今日だけですからね」
そう言ってそっぽを向くシエラに、リビングには穏やかな笑い声が広がっていった。
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