第52話 「初期欠陥の不良品」と離した手に、救われた日
「待ってくれ、ノア! 中は摂氏300度を超えてるんだぞ!」
シュンは激しく咳き込みながら、携帯端末でノアの内部ログを弾いた。
外気遮断、完全密閉放熱。画面の数値はすべて正常を示している。
「……いけるのか?」
「うん。コアはちゃんと冷えてる。外の熱、入ってこない」
ノアは胸元にそっと手を当て、こくりと頷いた。
「わかった。……頼む、ノア。でも、決して無理はしないでくれ!」
「シュン、下がってください」
鋭く澄んだ声とともに、シエラが漆黒のドレスの裾を捌いて前に踏み出た。
「私の背後から一歩も出ないで」
右手を前方へ掲げる。
キィィィン……!
空気を震わせる硬質な起動音とともに、シエラの掌の前方に半透明の燐光を帯びた障壁が展開された。
旧帝国軍の特務防護フィールド。
噴き荒れる過熱蒸気と、天井から剥落する赤錆や岩石の破片が、六角形の障壁に衝突して激しい火花を散らし、左右へと弾き飛ばされていく。
「助かるよ、シエラ!」
シュンはフィールドの内側で膝をつき、ツールバッグから携帯テスターを引き抜いた。
ハッチ脇の壁面に埋め込まれた点検用コネクタへ、太いプローブ端子を差し込む。
テスターの液晶画面に、炉心内部の冷媒循環圧と魔力波形が緑色の輝線となって立ち上がった。
「ノア、テスターの回線を君の電脳へ直結させた! 内部の循環圧と魔力波形をリアルタイムで送るから、音声リンクを切るなよ!」
「了解。データ受信、開始」
ノアは小さく頷くと、鋼鉄ハッチのわずかな隙間へと身を滑り込ませた。
過熱蒸気の幕を割り、少女の後ろ姿が闇の中へと消えていく。
漂う重油の焦げた異臭。
視覚センサーを即座に熱源スキャンへと切り替えると、暗闇の中に配管の輪郭線が浮かび上がった。
『ノア、聞こえるか!? テスターから送った配管図を照合してくれ! 正面5メートル、突き当たりを左だ! 一次冷却のバイパスラインがあるはずだ!』
音声リンクからシュンの切迫した声が届く。
「……了解。熱源を確認。配管、赤熱化してる」
ノアは迷いのない足取りで床の瓦礫を踏み越え、突き当たりの太い鋳鉄配管へと歩み寄った。
配管の頭上には、冷媒の流量を調節する頑丈な開閉ホイール。
赤茶色に変色し、熱気で大気が陽炎のように揺らめいている。
『そのホイールを反時計回りに回して全開にしてくれ! ただし、堆積したスラッジを噛み込んで、熱膨張で弁軸が完全に焼き付いてるはずだ!』
「やってみる」
ノアはオーバーサイズの袖口をわずかに引き上げ、赤熱したホイールの両端へと両手を伸ばした。
華奢な指先が、ざらついた鋳鉄の硬度をしっかりと捉える。
ギュオォォォォン……!
ノアの小柄な身体の深部から、地を這うような重低音パルスが唸りを上げた。
細い両腕の内部に組み込まれた高トルクアクチュエータが、安全リミッターの境界線を突破して最大出力を絞り出していく。
踏みしめた両足の靴底が、コンクリートの床面を削って微かに沈み込んだ。
ギギ……ギチチチッ!
金属同士が噛み合い、激しい摩擦音が室内に響き渡る。
ホイールの軸受から、パチパチと激しい火花が四散した。
バキィィィンッ!
激しい金属音が炸裂し、焼き付いていた固着が凄まじいトルクによって力づくで引き剥がされた。
ガガガガガッ!
ノアの両腕が一気にホイールを反時計回りへと旋回させる。
重厚な金属音が鳴り響き、ホイールが最大開口のストッパーへと乾いた音を立てて噛み合った。
「バイパス弁、全開」
ドォォォォン……!
次の瞬間、管内を叩く巨大な衝撃波が配管全体を激しく跳ね上げた。
バイパスラインの閉塞が破られ、隔離されていた大量の冷媒が一気に一次冷却ループへと雪崩れ込んでいく。
だが、息をつく暇はなかった。
ハッチの外側で、シュンの手元のテスターが鋭い警告ブザーを鳴らし始めた。
『しまっ……冷媒が急激に流入したせいで、管内で急速沸騰が起きてる! 熱衝撃だ!』
ズズズズズ……!
壁面の岩肌を揺るがすような、重い地響きが伝わってくる。
テスター画面のオシロスコープ上で、緑色の波形が激しく針のようにトゲ立ち、危険領域の天井へと乱振れを起こしていた。
急激な温度変化に伴う魔力脈動の異常発振。
このまま共振が頂点に達すれば、炉心そのものが内側から破裂する。
『周波数は……5,200Hz! 冷媒の急激な流入で、インピーダンスが完全に崩れてる! ノア、炉心の主制御端子に直接アクセスしてくれ!』
「主制御端子、視認」
ノアは白濁した蒸気の中を駆け、炉心隔壁の脇にある制御盤へと右手を伸ばした。
人差し指の先端がカチャリとスライドし、露わになった魔導端子を制御ポートへと差し込む。
『逆位相で同期させてくれ! 波形を反転させて、サージを相殺するんだ!』
シュンの切迫した叫びが飛ぶ。
だが、荒れ狂う高圧魔力の周波数は、ミリ秒単位で不規則に揺らいでいた。
静止したノアの体内、超並列演算コアが静かに全回路を駆動させた。
数億通りに及ぶ波形の位相差が、無限の並列領域で同時に計算され、瞬時に単一の解へと収束していく。
接続されたポートの隙間から、微細な紫電がパチリと散った。
『ノア、いけるか……!?』
「……同期波形、生成完了」
端子を通じて、逆相の魔電パルスが炉心の主回路へと送り込まれる。
ピタ、と。
まるで空間の時間が止まったかのような静寂が訪れた。
荒れ狂っていたオシロスコープの輝線が、急速にトゲを失っていく。
針のように跳ね上がっていたノイズが完全に相殺され、揺らぎのない、滑らかな黄金の正弦波へと収束した。
ズゥゥゥン……と、配管を激しく揺らしていた地響きが急速に遠ざかっていく。
轟音を立てていた蒸気の噴出圧が急激に弱まり、炉心の駆動音が低く穏やかなアイドリング音へと移行した。
自律安全停止——完全な冷温停止。
シュー……という細い排気音を残し、保守ハッチの隙間から噴き出していた蒸気が完全に途絶えた。
シエラの胸元で黄色く点滅していたインジケーターが、静かに澄んだ青色の点灯へと戻る。
「……炉心内部の臨界反応、完全停止を確認。管内温度、摂氏80度まで急速に降下しています」
シエラが右手を下ろし、展開されていた防護フィールドがふっと大気の中へ溶けるように消えた。
カチャリ、と重いラッチの外れる音が響く。
歪んだ鋼鉄ハッチが内側から押し開かれ、衣服を煤で汚したノアが静かに通路へ歩み出てきた。
外装の熱歪みひとつない、無傷の姿だった。
「……はぁ……っ……止まった……」
シュンは張り詰めていた全身の力が一気に抜け、その場にずるずるとへたり込んだ。
冷たい岩壁に背中を預け、荒い息を吐き出す。
膝の震えが止まらず、指先がかすかに痺れていた。
へたり込んだシュンを見下ろし、ノアが小首を傾げた。
煤のついた小さな顔を真剣に引き締め、シュンの正面へ歩み寄る。
そして床にちょこんと正座し、両手をいっぱいに広げた。
「シュン。……ひざまくら、する?」
「……えっ」
「あたま、乗っけていいよ。よしよし、ってする。シエラお姉ちゃんのとき、シュン、ふにゃふにゃになってた」
ノアは悪気のない無垢な表情で、自身の小さな膝をとんとんと叩いてみせた。
カチャリ、と背後で硬質な視覚センサーの駆動音が響いた。
不意の暴露に、シエラの瞳が一瞬大きく見開かれる。
「なっ……!? ……ノア! それは主人の堕落を助長する極めて有害な行為です。直ちに中止しなさい!」
咄嗟にノアから視線を逸らしたシエラは、そのまま氷のような視線をシュンへと突き刺した。
「だいたい、貴方が普段から情けない姿を晒すから、この子が妙なプロトコルを学習するのです。教育上、極めて不適切です」
「ぼ、僕のせい!? いやノア、ありがとうね、気持ちだけで十分だから!」
シュンは慌てて両手を振って辞退しつつ、煤まみれのノアの柔らかな頭にそっと手を伸ばした。
指先で優しく髪を撫でると、ノアは目を細め、くすぐったそうに小さな頭を預けてくる。
「シュンたちの、お家……守れた?」
「ああ。ノアのおかげだよ。本当に、ありがとう」
そのとき、シュンのコートのポケットで携帯端末が短く震えた。
液晶画面に表示された発信元はジュリアン。
シュンが通話ボタンをタップし、耳元に当てる。
『シュン! 無事かい!? 保管庫方面の異常な魔力サージが瞬時に消滅したんだが、何があった!?』
スピーカー越しに、切迫したジュリアンの声が響く。
「ジュリアンさん。……ええ、なんとか炉心を冷温停止させました。全員無事です」
『……冷温停止させたのか。あの臨界寸前の状況から……!』
通信の向こうで、ジュリアンが大きく息を吐き出す気配が伝わってきた。
低く、短い笑い声が漏れる。
『……いや、驚くべきじゃなかったな。君なら絶対にやってのけると信じていたよ、親友。怪我はないかい?』
「かすり傷ひとつありませんよ。ノアが頑張ってくれたんです」
『ノア……? ……そうか』
通信の向こうで、ジュリアンが言葉を詰まらせた。
沈黙のあと、重く深く息を吐き出す気配が伝わってくる。
『……あの子が、止めてくれたのか……』
ぽつりと零れ落ちた声はかすかに掠れ、すぐに姿勢を正すように深く息が吸い込まれた。
『心から感謝するよ、シュン。ノアにも、どうか僕からの礼を伝えてほしい。地上は僕が完全に抑え込む。君たちはもう何も心配せず、ゆっくり休んでくれ』
「ありがとうございます、ジュリアンさん」
通信が切れ、端末の画面が暗転した。
シュンは両腕を床に投げ出し、天井の岩肌を見上げて完全に脱力した。
「……もう一歩も動けない……」
「まったく、情けない人です」
シエラが呆れたように小さく首を横に振りながらも、静かに二人の傍らに歩み寄って立ち止まった。
ノアがシュンの隣にちょこんと腰を下ろし、煤で汚れた袖口を小さく引く。
冷温停止した暗渠の静寂の中に、シュンの穏やかな呼吸と、寄り添う二体の微かな炉心音だけが静かに溶け合っていた。
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