第50話 救ってくれた手が、救いたい手になった夜。無知によって引かれた引き金
天井の埋め込みスリットから、調律された柔らかな温風が静かに流れていた。
壁面の真鍮ブラケットは常夜灯の絞りまで落とされ、穏やかな薄明かりが寝台の足元を仄かに照らしている。
ふんわりと沈み込む大きな羽毛布団の中、三体のオートマタが放つそれぞれの温度に包まれて、部屋には微かな布擦れの音だけが漂っていた。
やがて、深く沈んでいたシュンの呼吸が、小刻みに揺らぎ始めた。
微かに肩が跳ね、横向きに丸まっていた身体が小さく震え始める。
シーツの上の指先がぎゅっと握り込まれ、額には細かな汗が浮いていた。
閉ざされた瞼の裏、暗い夢の底から、冷え切った記憶が這い上がってくる。
深夜の公社。冷え切った床に散乱する設計図の束。
背後で乱暴に閉ざされた鉄扉の重い金属音と、耳朶を引っ掻く濁った声。
『お前の代わりなんて、いくらでもいるんだよ』
「……っ……」
喉から絞り出された掠れた吐息とともに、シュンの身体が硬く強張る。
シエラの琥珀色の瞳が、瞬きもなく静かに開かれた。
わずかな遅れもなく、反対側で横たわっていたリリアもまた、音もなく上体を起こす。
シエラは無言で身を寄せると、ひんやりと冷たい掌をシュンの額へとそっと重ねた。
熱を帯びて強張った首筋へ、もう片方の冷涼な指先を滑らせる。
リリアは音もなく身を寄せ、温かな両腕でシュンの肩を包み込んだ。
柔らかな身体を背中へと密着させ、硬直した背筋を掌でゆっくりと撫で下ろす。
規則正しいぬくもりが、乱れた脈動を静かに受け止めていた。
「……ん……」
シュンの胸元で、ノアが身じろぎをした。
濃紺のフードから覗く向日葵色の瞳が、薄闇の中で微かに瞬く。
ベッドの上で苦しげに息を詰めるシュンと、その額を冷まし、背中を温め続ける二体の無言の所作を、ノアはじっと見つめていた。
シュンの胸元から顔を上げ、二体の手元と、苦悶に歪む横顔を交互に見上げる。
「……シュン、くるしいの……?」
リリアは口元に人差し指をそっと添え、穏やかに首を横に振った。
背中を擦る手は一度も止めない。
シエラが首筋に触れた手をそのままに、視線だけをノアへと向けた。
極めて低い、囁くような声音が紡がれる。
「……悪夢です。昔、外の世界で焼き付けられた……くだらない呪詛のログですよ」
「のろい……?」
「『お前の代わりなどいくらでもいる』と……そう吐き捨てられて、心血を注いだすべてを奪われて、ここに逃げてきたのです」
シエラの淡々とした言葉が、寝室の静寂に落ちる。
冷たい地下の第7機密保管庫。
赤い警告灯が点滅する中、整備台の上の自分を見下ろしていた白衣の男たちの乾いた声。
『初期欠陥の不良品だ。代わりの試験機など、いくらでも作れる』
暗闇の中で、回路が焼き切れる痛みに耐えながら、冷たい廃棄処分を待つしかなかった時間。
胸の主魔導炉が、小さく脈を打った。
(……シュンも、ボクと同じだったんだ)
冷え切った保管庫の底で、壊れかけた自分の手を握りしめてくれた温もり。
『君の代わりなんて、どこにもいないよ』と、震える声で言ってくれたあの人の顔。
ノアは大きなパーカーの袖口から、小さな両手をすっと滑り出させた。
シエラの指先が置かれたすぐ隣。
シーツを白くなるほど強く握りしめていたシュンの右手を、小さな両の手のひらで、包み込むようにそっと重ねる。
「……シュン」
壊れ物に触れるように、指と指のすき間を温かな肌で埋めていく。
小さな指先が、硬直した手のひらをぎゅっと抱きしめた。
冷たさと温もりが重なり合い、シュンの肩からすっと強張りが抜けていく。
シーツから離れた指先が、微かに、ノアの小さな手を握り返した。
「……ふぅ……」
浅く乱れていた呼吸が、深く穏やかな寝息へと変わる。
険しく寄っていた眉間が解け、安らかな寝顔が戻っていた。
ノアはその手を離さないまま、シュンの胸元へと額を預けた。
常夜灯の淡い橙色が、静かに重なる四人の呼吸を照らしていた。
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湿った冷気と重油の臭いが、地下通路の底に淀んでいた。
天井を這う真鍮の太い配管が、外壁の結露で濡れたように光っている。
通路の奥から、カチャリと工具の触れ合う乾いた音が近づいてきた。
ランタンの薄暗い灯りを掲げ、開発院の当直技師が歩みを止める。
胸ポケットから引き出されたのは、真新しい決裁書類だった。
第1開発局長ヴォルフラムの署名と、緊急封鎖の朱印が押されている。
表題には『冷却バイパス流量一時制限ニ関スル緊急措置』の文字が並んでいた。
「……ったく。明朝の査察を止めるためだけに、こんな夜中に呼び出しやがって」
技師は吐き捨てるように紙片をポケットへ押し込むと、バイパス制御盤の金網扉を開けた。
一次冷却系から分岐した手動弁ホイールは、分厚い埃をかぶっている。
配管の継ぎ目には赤錆がこびりつき、横に吊るされた点検票は半年前の日付で止まったままだ。
「『主系統には触るな。バイパスを3パーセント絞るだけでいい』……か」
技師は指示書の文面を呟きながら、厚手の作業手袋を嵌め直した。
ホイールの鋳鉄スポークに両手をかけ、体重をかける。
キィィィ……ッ。
錆びついた金属のこすれ合う甲高い音が、地下通路の湿った空気を切り裂く。
技師はホイールの目盛りに目を凝らし、わずかに角度を変えた。
その瞬間だった。
絞られた弁座の微小な隙間を抜けようと、冷媒の流速が一気に跳ね上がる。
管底に沈殿していた硬質な鉱石滓が一斉に巻き上げられ、高速の渦となって弁座へとなだれ込んだ。
乱流によって熱交換が破綻し、弁座付近の局所温度が急激に跳ね上がる。
熱を帯びた鋳鉄の弁軸が、黄銅製の弁座に向かって瞬時に熱膨張を起こした。
設計上のクリアランスが一瞬でゼロを割り込み、金属と金属が限界を超えて噛み合う。
ガガガッ……ガチィィィン!
鈍く重い金属破壊音が、配管の奥底から響き渡った。
「なっ……!?」
技師の腕に、岩盤を掴んだかのような硬直した手応えが返る。
慌ててホイールを逆方向へ回そうとするが、ピクリとも動かない。
巻き込まれたスラッジが金属の隙間に食い込み、熱膨張した弁座と弁軸が完全に焼き付いていた。
「おい、嘘だろ……!? 動け、動けよ……っ!」
技師はスポークにしがみつき、足を踏ん張って全体重を預けた。
だが、固着したホイールは微動だにしない。
額に冷や汗を滲ませ、壁面の電動アクチュエータの操作レバーを緊急全開へと押し倒す。
バツンッ!
けたたましい火花が制御盤の奥で炸裂し、過負荷遮断器が甲高い音を立てて跳ね上がった。
焦げた被覆の臭いとともに、細い白煙が漏れ出す。
「くそっ、過負荷でブレーカーが落ちただと……!?」
シューーーーーッ!
配管のフランジ継ぎ目から、鋭い悲鳴のような音を立てて白い過熱蒸気が噴き出した。
ドスン、ドスン、と通路の床を揺らす重低音が響き、太い真鍮配管が激しく脈打つように跳ね上がる。
制御盤の壁面に取り付けられた真鍮の温度計。
青色の安全領域を指していた細い針が、カタカタと狂ったように小刻みに震えながら、警戒を示す赤色の限界線へと、確実に這い上がり始めていた。
最後までお読みいただきありがとうございました!
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