第46話 真っ新な心に灯る、はじめての温もり
地下要塞ゼロ・ターミナルの朝は静かだった。
何重もの防爆扉と分厚い岩盤が、外界の冷気を遮断している。
壁のスリットから吹き出す温風が、かすかに柑橘の香りを運んでいた。
「……い、痛たたた……っ」
ソファーの上で、シュンは呻きながら身じろぎした。
腕を持ち上げようとした瞬間、両肩から背中に激痛が走り、額を背もたれに突っ伏す。
少しでも上体をひねれば、筋繊維が引きちぎれそうだった。
「……うう、指一本動かしたくない……」
瞼をこすりながら顔を上げると、絨毯の上で小さな人影が正座していた。
シュンの濃紺パーカーにすっぽり埋もれている。
肩は落ち、裾は膝の下まで隠れ、袖口からは指先すら見えない。
「……ノア? 起きてたのか?」
声をかけると、小さな肩が跳ねた。
振り返った顔で、透き通るトパーズ色の瞳が瞬いた。
ノアは、長すぎる袖をパタパタと揺らした。
「シュン……おはよう。あのね……この服、着てなきゃダメなの? 緩いし、手が隠れて動きにくいんだけど……」
「あはは……ごめんね、僕の服しかないからさ。でも、昨日の泥だらけの拘束衣よりはマシでしょ?」
「うん。首が痛くならないし、チクチクしない」
ノアは袖口から指先をちょこんと覗かせ、ブラケットライトの光にかざした。
昨夜、この手で装甲扉を押し閉めた感触。
要塞に入った直後、シュンに抱きしめられた時の温もり。
ノアの指先が、小さく握られ、また開かれた。
廊下の奥から、焦がしバターとバニラの甘い香りが漂ってきた。
カタカタと車輪の音を立てて、ワゴンを押すリリアがリビングへ現れる。
「おはようございます、シュン様。ノアちゃんも、よく眠れましたか〜?」
ワゴンには、山盛りのフレンチトースト。
粉糖と蜂蜜をまとった黄金色の生地から、湯気が立ち上っている。
その隣には、淹れたての深煎り珈琲。
「助かるよリリア……全身バキバキで起き上がるのもやっとだったんだ」
「ふふ、昨晩は無茶をなさいましたものね。朝食ができていますよ、さあテーブルへどうぞ〜」
シュンが軋む肩を押さえて席に着くと、ノアはその前でおろおろと視線を泳がせた。
リリアが優しく椅子を引いて座らせると、手が完全に隠れたダボダボの袖口を両手でくるくると捲り上げてやる。
ちょこんと現れた細い手首に木製フォークを持たせ、フレンチトーストを切り分けて皿の端へ寄せた。
「ノアちゃん、温かいうちにどうぞ〜」
「……これ、エネルギー補給データ……?」
「ふふ、データじゃなくて、甘くて温かい朝ご飯ですよ〜」
ノアは恐る恐るフォークを刺した。
生地は柔らかく、蜂蜜がじゅわりと滲む。
小さな口を開け、そっと一口含んだ。
ぴたりと、フォークが止まる。
ノアは目を丸くして、口元を押さえた。
飲み下した瞬間、冷え切っていた胸の中央――主魔導炉の奥底が、じんわりと心地よい熱を帯びていく。
「……っ! ……胸の奥が、ポカポカして……すごく、あったかい……! これが……『美味しい』なの……?」
「そうですよ〜。温かいご飯は、心を満たすんです。たくさん召し上がれ」
リリアが頭を撫でると、ノアは目を細め、捲られた袖を気にしながら次の一口を頬張った。
食卓の端で、シエラが無言で端末を見つめていた。
画面には、ノアの主魔導炉のログと、自機スペックを対比した膨大な演算結果。
スクロールする指先が、硝子の端を強く押さえて止まっている。
「……シエラ? 朝から難しい顔して、どうしたの?」
「……昨夜のデータです。最新鋭の超並列コアに、高トルク多層アクチュエータ……旧式の私とは、桁が違います」
「シエラ?」
「昨夜、あの扉を閉められたのは彼女の出力があったからです。私のトルクでは、シュンを守り切れませんでした」
シエラは視線を落とし、硬い声で小さく息を吐いた。
「……専属機巧の再編を具申します。彼女を傍に置くほうが、遥かに合理的です。旧式の私など、すでに――」
「え? 何言ってるの、シエラ。比べる意味が全く分からないんだけど」
「……事実です。カタログスペックにおいて、私が劣っているのは客観的なデータです」
「馬力なんて重機に任せればいいでしょ。だいたい、シエラがいないと僕の生活は一日で破綻するんだよ?」
シュンはマグカップを置き、珈琲の湯気越しに首を横に振った。
「毎朝シエラが淹れてくれる珈琲の温度じゃないと目が覚めないし、小言で叱ってくれないと部屋をゴミ屋敷にして餓死するし。熱を出したときにシエラの冷たい手が額にないと死んじゃう。僕にとってシエラより上のオートマタなんて、世界中どこにもいないよ」
珈琲ポットを手にしたリリアが、ふんわりと首を傾げて微笑んでいる。
「あら〜? シュン様にとっては、シエラちゃんが一番なんですか〜?」
「えっ!? ち、違うよリリア、そういう意味じゃなくて! リリアのご飯と甘やかしがないと僕のメンタルは一日で消滅するし、リリアだって僕にとって絶対に一番で――!」
「なっ……! だ、誰が一番などと……っ!」
シエラの指先が凍りついた。
白磁の頬から耳の先どころか、首筋までが一瞬で鮮やかな朱色に染まる。
「何を……っ、二人して朝から寝ぼけたことを……っ!」
カチリ。
耳の後ろから金属音が響いた。
直後――
プシューーーーーッ!!
真っ白な高温蒸気が、両耳の排熱スリットから勢いよく噴き出した。
「わ、シエラちゃん、湯気がすごいです〜♪ お顔が茹で蛸みたいに真っ赤ですよ〜」
「測、測定誤差です……っ! 排熱プロトコルが一時的に誤作動しただけで――っ!」
視線が宙を泳ぎ、端末を取り落としそうになりながら、震える声で言い繕う。
だが顔の赤みは引かず、耳の後ろからの蒸気は止まらない。
「ごちそうさまでした! すっごく美味しかった!」
綺麗に空になった皿を前に、ノアが満面の笑みを浮かべた。
ソファーへ戻ったシュンの姿を見つけると、椅子から飛び降りてトコトコ駆け寄ってくる。
ダボダボの裾を揺らし、迷わず膝の上へ飛び乗った。
「シュン! お腹いっぱいになったよ!」
「うわっ、ノア!? 嬉しいけど、まだ全身バキバキだから優しくね……!?」
密着してくるノアに顔をしかめつつ、長すぎる袖から覗く小さな頭を撫でる。
そこへ、蒸気を収めたシエラが歩み寄ってきた。
ツンと澄ました顔でノアを見下ろす。
「……ノア。無防備に飛びつくのは行儀がよくありません。それに、呼び捨ても禁止です。『シュン様』と呼びなさい」
「えー? だってシエラお姉ちゃんも『シュン』って呼んでるじゃん! なんでシエラお姉ちゃんはよくて、ボクはダメなの?」
「お、お姉……っ!? だ、誰がお姉ちゃんですか……っ! それに、私とシュンの間には初期ロット専属機巧として長年培ってきた特殊な運用プロトコルがあるのです! 昨日配属された新参機と一緒にしてはいけません!」
「あれ? シエラお姉ちゃんのお顔、また真っ赤だよ? 耳から湯気出てるよ?」
「測定誤差です! 他機の排熱スリットを勝手にスキャンしてはいけません!」
カチ、カチリとスリットが開閉を繰り返し、プスプスと白煙が漏れる。
シエラは耳の先まで真っ赤になって再びフリーズした。
食器を片付けて戻ってきたリリアが、口元を押さえてくすくす笑う。
「ふふ、シエラちゃんったら〜。すっかり頼もしいお姉ちゃんですね〜」
「リリアまで……っ! だ、誰がお姉ちゃんですか……っ!」
抗議するシエラの声が裏返り、リビングに笑い声が零れた。
壁面の通信コンソールから、電子音が鳴った。
ピピピ、ピピピ……と青い着信ランプが点滅する。
シエラは咳払いをして表情を引き締め、端末を確認した。
「……ジュリアン氏からの暗号回線です。追跡はありません」
「繋いでくれ」
スイッチを押し込むと、スピーカーから弾んだ声が響いた。
『やあ、シュン! 無事に戻れたかい!?』
「ええ、ジュリアンさん。おかげさまで、全員無傷で要塞まで帰還できました」
『よかった! こちらも査察を装って正面から突っついてやったんだがね、保管庫がもぬけの殻で、連中は全員泡を吹いて倒れそうになっていたよ! ヴォルフラム局長なんて今頃胃薬を瓶ごと煽ってるはずさ!』
痛快な笑い声。一拍置いて、声のトーンが真摯なものへ変わる。
『……それで、頼みがあるんだ、シュン。外部監査で奴らの不正を完全に暴くまで、ノアの存在を表に出すわけにはいかない。最高の魔電調律ができる君のところで、正式に彼女を匿っていてくれないだろうか』
「ジュリアンさんのおかげであの子を連れ戻せたんです。僕もあんな連中にノアを返す気はありませんから、もちろん構いませんよ」
『ありがとう、シュン! 君ならそう言ってくれると信じていたよ! ……ところで、あの超並列コアのインピーダンス整合はどうやって解決したんだい? ぜひ朝まで語り合いたいんだが――』
「それでは疲れているので切りますね」
シュンは迷わずレバーを弾いて回路を遮断した。
ツーツーツー……と切断音が響く。
「……相変わらず、帝国屈指の大富豪に対する扱いとは思えませんね」
「シュン、いま通信してた人、だれ? ボクの記録データにある……『お友達』?」
「友達じゃないよ! ただの厄介な好事家……!」
「……向こうは一方的に『生涯の魂の親友』と主張していますが」
「絶対に違うからね!?」
全力で首を振るシュンの横で、モニターの速報テロップが静かに文字を刻んでいた。
『帝都速報:帝国魔電技術開発院・地下機密区画にて未明に警報。関係者への聴取が進行中――』
シュンは膝の上のノアに手を添え、ソファー深くに身を沈めた。
温風が運ぶ柑橘の香りと、リリアが淹れてくれたお茶の湯気。
微かな香気の中、シュンの瞼がゆっくりと落ちていった。
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