第45話 「君の代わりなんてどこにもいない」――欠陥品と捨てられた少女の目覚め
「……暗いな」
ゼロ・ターミナルの防爆扉を一歩出た途端、湿った冷気と古いコンクリートの匂いが、視界ごと遮られた闇の中から押し寄せてきた。
首元に巻いたウールのマフラーを外套の内側へ押し込み、シュンは足元に転がる錆びた鉄パイプを慎重に避ける。
「私の視覚センサーでは、前方30メートルまで照度補正が完了しています。足元への過度な警戒は不要です」
「いや、生身の人間には普通に真っ暗だからね……?」
苦笑いしながらシエラの隣に並んだ瞬間、ピピッ、と静かな電子音が鳴り、シエラの手元端末が青白く発光した。
暗渠の闇をわずかに照らし出した画面には、ジュリアンからの短い通信テキストが着信している。
『表の会議室に局長と警備責任者を完全に釘付けにした。警備の意識はすべて正面に集中している。頼んだぞ』
「……ジュリアンさん、本当にやっちゃったよ」
「予定通りの陽動です。開発院の警備監視網は、正面ロビーと会議室区画へ完全に戦力を集中させています」
シエラは端末の画面を伏せ、暗渠の奥を見据えた。
「問題は、ここからの侵入経路ですが」
「大丈夫、こっちだ。第0系統の幹線受電ルート沿いを進む」
シュンは肩にかけた革製ツールバッグの位置を直すと、迷路のように幾重にも枝分かれする通路の左手へと迷わず足を踏み入れた。
壁面に無数に這う古い高圧ケーブルの束。
支持金具のピッチ、黒ずんだ絶縁被覆の刻印、太い幹線母線の引き回し。
泥水に膝まで浸かり、凍える指先で図面を引き直しながら這い回った当時の感触が、指先に蘇る。
頭上の配管のカーブも、壁面の分岐も、公社時代に一人で施工を丸投げされた記憶と寸分違わず重なっていた。
「この角を曲がると、冷却水のバイパス管がある。足元に30センチほどの段差があるから気をつけて」
「……了解。シュンの空間把握精度は、軍用測量機材に匹敵しますね」
「単に、あの時死ぬほど這い回らされたから覚えてるだけだよ……」
苦笑いを浮かべながら配管の隙間をすり抜け、二人は暗渠の最深部へと滑り込む。
突き当たりに現れたのは、苔生した配管の裏に隠された、分厚い鋼鉄製の保守点検ハッチだった。
帝国軍地下第7機密保管庫の、真裏に位置する点検口だ。
シエラが音もなくハッチの前へ進み出ると、手元端末から細いプローブを引き出し、旧規格の電子錠の受光部へと接続した。
チチチ……と超高速の暗号解読シグナルが点滅する。
わずか3秒後、カチリと乾いた解錠音が暗渠の闇に小さく響いた。
「バイパス完了。内部へ侵入します」
シエラが重いハッチを手前に引いた。
開かれた隙間から、澱んだ重苦しい気流とともに、焦げ付いた異臭が漏れ出してくる。
高熱で焼けた絶縁油の臭いと、濃密な魔力蒸気の熱気だ。
身を低くしてハッチを潜ると、そこは何層ものコンクリートと魔導遮蔽鋼板で密閉された隔離区画だった。
日光の入らない石造りの空間は底冷えがするほど冷え切っているというのに、中央の一角だけが異常な熱気に包まれている。
鋼鉄の拘束ラックに繋がれた円筒形の隔離ポッドから、冷却水の蒸発による白い魔力蒸気が激しく噴き出していた。
シュンはツールバッグを握りしめ、警戒を解かずに歩み寄る。
軍の機密保管庫という厳重な隔離区画、そして『NOAH』という無機質な機体コード。
ジュリアンから知らされた事前情報から、シュンはてっきり、無骨な装甲に覆われた大型の兵器型オートマタを想像していた。
だが、激しく噴き出す白い蒸気を手で払い、覗き窓の強化ガラスを覗き込んだ瞬間――。
「……っ!」
シュンは息を呑み、その場に縫い止められたように立ちすくんだ。
拘束スタンドに固定されていたのは、兵器などではなかった。
華奢な手足と、まだ幼さを残したあどけない顔立ち。
肩のあたりで切り揃えられた、煤で汚れた柔らかな髪。
そこに囚われていたのは、自分よりもずっと小柄な、少女型のオートマタだった。
「……嘘だろ」
掠れた声が、喉の奥から零れ落ちた。
こんな小さなフレームに、あの超並列演算コアを積んでいるのか。
極限まで微細な回路に、開発院の連中は力づくで過負荷パルスを流し込み続け、動かなくなれば欠陥品として灰にする。
『代わりなんていくらでもいる。口答えせず明朝一番で灰にしろ』
あの冷酷な文字が脳裏をよぎり、奥歯がギリ、と音を立てた。
シュンはポッドの前へ膝をつくと、ツールバッグのジッパーを一気に引き開けた。
ポッドの内部から、胸部の排熱ファンが甲高い金切り音を上げていた。
無理やり過負荷をかけられ続けた回路が限界寸前の熱暴走を起こし、華奢な身体が小刻みに震えている。
「シエラ、ポッドの開放を手伝ってくれ!」
「了解」
二人がかりで緊急開放レバーを押し上げると、シューッという高圧排気音とともに強化ガラスのハッチが跳ね上がった。
熱風と白い魔力蒸気が一気に噴き出し、シュンの前髪を激しく揺らす。
シュンはツールバッグからテスターと絶縁プローブを引き出した。
少女の胸元、焼けるような熱気を放つメンテナンス端子の保護カバーを外すと、プローブを迷いなく直結する。
ジジジジッ……!
接続した瞬間、テスターのアナログ指針が目盛りを振り切って激しく乱振れし、不規則な高調波ノイズが室内に響き渡った。
シュンはテスターの減衰ダイヤルを一段階絞り、跳ね上がる針の軌跡を凝視する。
(……何重にも折り重なったこの異常な周波数帯はなんだ……!?)
プローブを伝って指先に流れ込んでくるのは、天文学的な密度で渦巻く演算トラフィックの脈動だった。
(……まさか、超並列演算コアがあらゆる事象を無限に計算し続けた結果、完全なデッドロックに陥っているのか……!?)
壊れているんじゃない。思考の出口を見失って、固まっているだけだ。
だが、端子周辺の樹脂は焼けて焦げ付き、排熱ファンは甲高い金切り音を上げ続けている。
このまま熱暴走が続けば、微細回路が物理的に焼き切れる。
シュンはプローブを握り直すと、指先から自身の魔力を微細に絞り込んで送り込んだ。
暴走するノイズの奥底、かろうじて息づいている固有の生体魔導周波数を指先で探り当てる。
内部抵抗を見極め、波の頂点と谷を重ね合わせ、インピーダンスを整合させていく。
「怖かったね」
立ち込める蒸気と熱気の中、シュンは震える少女の胸元を見つめ、静かに、優しく語りかけた。
「……大丈夫。君は壊れてなんかいないよ。君の代わりなんて、どこにもいない」
小刻みに震えていた小さな肩が、ふっと強張りを解いた。
全事象の計算という無限の螺旋の中で、たったひとつの揺るぎないアンカーが下ろされる。
チ……と、澄んだ音が小さく響いた。
テスターの針の激しい乱振れが急速に減衰し、一本の滑らかな軌跡へと吸い込まれるように落ち着いていく。
耳障りだったファンの金切り音がスッと静まり、端子を包んでいた異常な発熱が、目に見えるように引いていった。
内蔵された自立冷却循環系が正常な脈動を取り戻し、吹き荒れていた白い蒸気が静かに霧散していく。
やがて、長い睫毛がかすかに震えた。
重たげに押し開かれた瞳は、透き通るようなトパーズ色――暖かな向日葵の色をしていた。
ぼんやりとしたその瞳が、額に汗を滲ませながら優しく微笑んでいるシュンの顔を、じっと見つめ返した。
「……おはよう、ノア」
「……あ……な……た……?」
掠れた小さな声。
シュンはプローブをバッグに収め、拘束フレームの固定ボルトへ手をかけた。錆びたナットを一つずつ緩め、シエラが反対側のクランプを外す。
だが、ノアは魔力消費が激しく、自力で立ち上がることができなかった。拘束から解放された身体がぐらりと傾く。
「シエラ、調律は完了したけど、自立歩行は無理そうだ。僕が背負う」
「……ノアは最新の魔導合金骨格を採用しています。小柄とはいえ、自重は約50kgあります。シュンの筋力では……」
「大丈夫、行ける!」
シュンはノアの身体を抱え上げ、背中に背負い直した。
ずっしりとした冷たい重みが両肩にのしかかる。
ぐっと腹に力を込め、しっかりと床を踏みしめると、膝を震わせることなく立ち上がった。
「ほら、立てた! 僕だって少しは鍛えてるんだからね」
「……日頃のトレーニングの成果が、少しはあったようですね」
シエラはわずかに目を細めると、ドレスの裾を翻した。
「了解しました。退路の障害物はすべて私が排除します。遅れずについてきてください」
保守ハッチを飛び出し、旧軍用暗渠網の闇を疾走する。
通路の壁面に埋め込まれた音響センサーや、床面の索敵トラップに対し、シエラは端末からハッキング信号を走らせ、次々と機能を停止させていく。
カチ、カチとインジケーターの光が落ち、二人の行く手を阻むものは何一つなかった。
背中越しに、ノアの主魔導炉の穏やかな鼓動と、じんわりとした体温が伝わってくる。
シュンは肩紐を握り直し、暗渠の先を見据えた。
「シュン、前方にゼロ・ターミナルの非常連絡ハッチを視認!」
「よし……っ!」
暗渠の突き当たり。
岩壁に埋め込まれた巨大な装甲スライド扉の前へ、二人は滑り込んだ。
その時、暗渠の奥から、地鳴りのような重低音が響いてきた。
壁面の配管がビリビリと激しく震える。
「……地上からの広域索敵パルスです。開発院が非常事態を察知し、地下インフラ全体のスキャンを開始しました」
「まずい、扉を閉めるぞ!」
シュンはノアを慎重に壁際へ降ろし、壁面の非常閉鎖レバーを両手で力いっぱい引き倒した。
ガコンッ!
油圧が解放され、自重数十トンに及ぶ巨大な装甲扉が、地響きを立ててスライドし始める。
だが――完全に閉まりきる直前、残り30センチほどの隙間を残したところで、扉が金属同士の激しい軋み音を上げてピタリと止まった。
キィィィィィンッ……!
「なっ……!?」
「……レールの赤サビ、およびガイドローラーの経年歪みを噛み込みました! 完全にスタックしています!」
隙間から、暗渠内の冷気と、要塞側の温風が混ざり合って漏れ出していく。
このままでは、熱源と魔力の漏洩によって、迫り来る索敵パルスに要塞の位置を特定されてしまう。
「くそっ、動け……!」
シュンが扉の端に手をかけて引くが、数十トンの塊はびくともしない。
「下がってください!」
シエラが前に割り込み、装甲扉の側面へ両掌を押し当てた。
駆動軸が高トルクの唸りを上げ、全身のアクチュエータが最大出力で励起される。
だが、噛み込んだ金属の摩擦抵抗は凄まじく、扉は1ミリたりとも動かない。
シエラの耳の後ろの排熱スリットから、プシューッと限界を知らせる高温の蒸気アラートが噴き出した。
「……私の駆動トルクでは……突破できません……!」
暗渠の奥から、青白い索敵パルスの残光が迫ってくる。
あと数秒で、この通路全体がスキャンされる。
その時だった。
「――ボクが、やる!」
小さな、しかし澄んだ声が響いた。
壁際にいたはずのノアが、前を真っ直ぐに見据え、小柄な身体で装甲扉の前へと割り込んできた。
華奢な両手が、冷たく錆びついた鋼鉄の端へと迷いなく添えられる。
「ノア、危ない!」
シュンが叫ぶよりも早く、ノアの四肢の中で、最新型魔導合金骨格と高トルクアクチュエータが一気に励起された。
ドッ……!!
耳を劈くような破壊音が炸裂した。
レールに食い込んでいた数センチ厚の赤サビが、凄まじい面圧によって一瞬で粉微塵に弾け飛ぶ。
それだけではない。ガイドローラーの歪んだ鋼鉄の軸ごと押し潰し、数十トンの装甲扉がレールの上を滑るように走った。
ドゴォォォォォンッ!!!!
重い激突音が轟き、装甲扉が枠へと嵌まり込んだ。
ガシュン、ガシュン、ガシュン!
6本の自動ロックピンが深々と噛み合い、扉は完全密閉された。
直後、扉の向こう側の暗渠を、開発院の索敵パルスが通過していった。
だが、分厚い魔導遮蔽鋼板に完全に遮断され、内部の熱も魔力も、外へ漏れ出すことはなかった。
「……っ……」
シエラが目を丸くして固まり、絶句していた。
「……私の全身最大出力の……十倍以上です……」
密閉された通路に、静寂が戻る。
ノアは恐る恐る自分の小さな手のひらを見つめ、指先を丸めた。
それから、すがるようにシュンの顔を見上げた。
「……あの……壊しちゃってない……? ボク、役に立てた……?」
シュンはその場に膝をつくと、ノアの身体を力いっぱい抱きしめた。
「役に立ったどころじゃないよ! ノアがいなかったら、僕たち全員捕まってた! 本当にありがとう、ノア!」
「……っ!」
抱きしめられたノアの瞳が驚きに見開かれ、やがてじわりと温かな光を湛えて細められた。
――その時だった。
カチリ、と非常連絡ハッチの安全インジケーターが緑色に点灯した瞬間。
シュンの全身から、一気に緊張の糸が抜け落ちた。
「……あ」
ガクン、と両膝から完全に力が抜けた。
そのまま床へ無様にへたり込み、立ち上がろうとしたものの、足がガクガクと激しく震えて言うことを聞かない。
情けなく床に手をついたシュンは、すぐ隣に立っていたシエラの漆黒の軍用ドレス――その冷たい太ももへ、へなへなと額を預けた。
「……シエラぁ……もう一歩も立てない……膝が笑ってる……もう二度と、あんな無茶はしない……」
消え入りそうな、情けない弱音が喉から零れ落ちる。
「……無茶をした自覚はあるのですね」
シエラは呆れたように小さく息を吐きながらも、太ももを引っ込めることはしなかった。
冷涼な掌がそっとシュンの乱れた前髪を払い、熱を持った額を優しく冷やす。
「自分の力量も見極めずに無茶をするのは愚者のすることです。ですが、力量以上の力を発揮したことは、成果として記録しておきましょう」
「……シエラ様、許して……二度と外に出ないから……」
シュンが太ももにすがりついて完全脱力していると、奥の通路からパタパタと小走りの足音が響いてきた。
「お帰りなさいませ、シュン様! シエラちゃんも!」
現れたのは、フリル付きのエプロンドレスを着たリリアだった。
手にしたトレイの上には、湯気を立ち上らせるマグカップが乗っている。
「本当によく頑張られましたね〜。さあ、温かいココアをどうぞ」
「……リリアぁ……あったかい……甘い匂いがする……」
漂ってきた芳醇なカカオの甘い香りに、シュンの顔がさらにふにゃふにゃに蕩けていく。
さっきまで保管庫で自分を救い、背負って暗闇を走り抜けてくれた技師が、要塞に戻った途端、太ももにしがみついて弱音を吐いている。
ノアは小首を傾げ、長い袖の先をきゅっと握ったまま、その不思議な光景を見つめていた。
リビングの壁面に灯るブラケットライトが、穏やかな橙色の光を投げかけている。
泥と煤に汚れた服を脱がされ、シュンの仕立ての大きな部屋着を着せられたノアは、長すぎる袖の先から指先だけを覗かせていた。
手渡されたマグカップを両手で大切そうに包み込むと、じんわりとした温もりが掌に広がっていく。
立ち上る甘い湯気の向こうで、シエラに呆れられながらリリアに甘やかされているシュンの姿がある。
ノアは温かな陶器の感触を確かめるように指を動かし、不思議そうに自分の小さな手を見つめた。
最後までお読みいただきありがとうございました!
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