第44話 「代わりはいくらでもいる」という呪い
壁面に埋め込まれた高精細通信モニターから、ジジ……と微細な高周波ノイズが漏れていた。
画面の向こう、無数の警告ログが赤く明滅する執務室で、ジュリアンが固く唇を噛み締めている。
手元のコンソールに突かれた両拳が、怒りで小刻みに震えていた。
「……ジュリアンさん、落ち着いてください。一体、何があったんですか?」
「落ち着いてなどいられるものか……! 我がローゼンバーグ家の名と出資の下で、あんなおぞましい暴挙が行われていたなどと……!」
低く張り詰めた声だった。
青ざめた顔を強張らせながら、ジュリアンが手元のキーを叩く。
「そちらの回線へ、監査ログの一部を転送する。……見てくれ」
通信コンソールのサブ画面に、数千行に及ぶデータストリームが一気に展開された。
帝国魔導開発院の内部監査データ。ローゼンバーグ財閥が筆頭スポンサーとして保有する機密記録だった。
「定期進捗報告書だ。表向きは順調な実験の推移と追加予算の申請……だが、添付された資材処理申請書の末尾に、こっそり紛れ込ませてあった。『超並列演算コア、初期欠陥により制御不能。危険物として明朝スクラップ処分』——とな」
「スクラップ処分……?」
シュンが眉をひそめた瞬間、画面端に表示された波形データに視線が留まった。
緑色のグリッド線の上で激しく乱れるパルス波形。さっき手元で相殺した、あの耳障りな高調波ノイズの発生源だった。
「……待ってください。この波形、破損なんかじゃありませんよ。コアの演算周波数が高すぎて、命令パルスを弾き返しているんです。……インピーダンスの不整合によるデッドロックだ」
「ああ。あそこの連中が無理やり過電圧パルスを流し込み続けた結果だ。奴らはそれを『最初から欠陥品だった』と偽り、明朝の処分で現物ごと灰にして証拠を消す気なんだ」
ジュリアンは悔しげに声を絞り出した。
「現場でパルスを同期させてデッドロックを解かない限り、わずかな搬送の振動だけでもコアが崩壊する。だが、あの保管庫は外部回線から完全に遮断されている。……僕の腕じゃ、あの暴走は止められないんだ」
「ローゼンバーグ家の力で、処分を止めることはできないんですか?」
「引き渡しを要求したが、『規定通りの安全廃棄だ』と突っぱねられたよ。明朝までに灰にされてしまえば、すべて『欠陥品の事故』で処理されてしまう。横領も失態も、全部古代遺物のせいにされて闇の中だ!」
ジュリアンが画面の向こうで、深く頭を下げた。
金髪が画面の下端にかかるほど、長く。
「頼む、シュン。現場であのコアを調律して、君の隠れ家へ連れ出してほしい。あのコアが正常に動くことだけが、奴らの嘘を暴く唯一の証拠なんだ。表の陽動は僕が命を懸けて引き受ける……!」
ジュリアンの切迫した声が静まったリビングで、シュンは息を呑んだままソファーの上で固まっていた。
困惑を隠せないまま、ゆっくりと首を横に振る。
「……待ってください、ジュリアンさん。それは財閥と開発院の問題です」
「シュン……?」
「僕は地下で隠居しているだけの元技師ですよ。施設に侵入して機材を持ち出すなんて、明らかな不法侵入と窃盗です。犯罪の片棒は担げません。不正を暴くなら、正規の監査機関に告発すべきです」
サイドテーブルの冷めかけた茶に手を伸ばしかけ、指先を止める。
画面の向こうのジュリアンは苦渋に顔を歪め、縋るようにモニターへと身を乗り出した。
「時間がないんだ……! 明朝の処分まで、あと数時間しかない!」
ジュリアンが送信キーを叩く。
「これを見てくれ……!」
ゼロ・ターミナルのメインモニターが、瞬時に切り替わった。
映し出されたのは、廃棄申請に添付された保管庫の監視ログ映像だった。
冷たい灰色のコンクリート壁に囲まれた、薄暗い空間。
その中央、何重もの高圧ケーブルと頑丈な固定フレームに拘束された、重厚な金属製の隔離ポッドがあった。
排熱スリットや冷却配管の隙間から、シューシューと激しい音を立てて白い魔力蒸気が噴き上がっている。過熱した回路が青白い火花を散らし、ポッド全体が限界寸前の異音を立てて小刻みに震えていた。
画面の隅には、『試作実験機体コード:NOAH』という文字列が赤く点滅している。
そして、映像の傍らに展開された、資材処理申請書の写し。
現場技師による『希少遺物につき廃棄再考を求む』という進言を塗りつぶすように、乱暴な赤インクで殴り書きされた決裁メモがあった。
『代わりなんていくらでもいる。口答えせず明朝一番で灰にしろ』
——代わりなんて、いくらでもいる。
その文字が視界に飛び込んできた瞬間、シュンの呼吸が止まった。
サイドテーブルの端、何気なく手を伸ばしていたほうじ茶の湯呑みが、指先の中で微かに傾く。
カタカタ、カタカタと、陶器が乾いた音を立てて激しく震え始めた。
指先が白く強張り、震えを止めることができない。
「……っ……」
喉の奥が引き攣り、呼吸が浅く乱れる。
自分でも、何が起きているのか分からなかった。
とっくに吹っ切れたはずだった。公社を辞め、笑い話にして、快適な隠居生活を満喫していたはずだった。
それなのに、身体が言うことを聞かない。指先の震えが止まらず、目の前のモニターがぐらりと歪む。
耳の奥で、激しい雨の音が甦っていた。
深夜の薄暗い公社の執務室。冷え切った空気。
何日も徹夜を重ね、指先をハンダで火傷だらけにしながら引き直した分厚い配線図面。
それを、机ごと床へ蹴り倒した元上司の革靴の音。
泥水に濡れた書類を踏みにじりながら、見下ろしてきた冷酷な嘲笑。
『お前の代わりなんて、いくらでもいるんだよ』
『替えの利く歯車が、偉そうに意見するな』
あの夜の冷気が、足元から一気に這い上がってくる。
胃の奥が冷たく締め付けられ、呼吸をすることすら苦しくなり、シュンはソファーの上で前のめりに身を屈めた。
その瞬間——。
すっと、静かな衣擦れの音が横から滑り込んだ。
音もなく歩み寄ったシエラが、激しく震え続けるシュンの両手を、下からそっと掬い上げるように包み込んだ。
白銀の長い髪が、シュンの腕に触れてサラリと流れる。
滑らかな皮膚と、完全無音の骨格が放つ、ひんやりとした冷涼な温度。
澄んだ冷気が、強張った指先から掌へと浸透していった。
さらに、背後からふわりと柔らかな温もりがシュンを包み込んだ。
リリアが両腕を静かに回し、シュンの胸元と肩を優しく抱きしめていた。
エプロンドレス越しに伝わる、ふっくらとした柔らかな体温。
背中に密着した胸元から、穏やかで規則正しい温かなリズムが伝わってくる。
「……シュン様」
リリアの声は、それだけだった。
何が起きたのかを聞くことも、詮索することもない。
昼間はあんなにも呑気に笑っているシュンが。
眠りに落ちて無防備になった夜、冷たい汗をびっしょりと掻いて浅い息でうなされることがあった。
隣に横たわるシエラの手を痛いほど強く握り締めながら、『……捨てられたりしないからね……僕が絶対に守るから……』と、子供のように震えながらうわ言を零していた夜があった。
二体は何も聞かなかった。
夜ごと、ただ静かに体温を寄せ続けた。
「……大丈夫ですよ、シュン様」
リリアは背中を包む腕の力をほんの少しだけ強め、凍えきった身体に柔らかな体温を満たしていく。
シエラもまた、冷涼な掌でシュンの強張った指先を包み込んだまま、静かに琥珀色の瞳を向けた。
「……シュン。あの言葉を、覚えているのですね」
冷たい指先と、温かな胸元。
挟み込まれた身体の芯から、凍りついていた息が少しずつ溶けていく。
「……っ……ふぅ……」
シュンは喉の奥から、詰まっていた熱い息を長く吐き出した。
乱れていた心拍が、元の静かな拍動へと引き戻されていく。
——全部、フタをしていただけだった。
モニターの向こう、白い蒸気の奥で震えるポッドの姿に、かつて床へ蹴り倒された泥まみれの図面が重なる。
「……僕と同じ思いを」
シュンは拳を固く握り直した。
指先の震えは、完全に止まっていた。
「僕と同じ思いを……あんな風に、使い捨てさせたくない」
顔を上げたシュンの瞳から、迷いは消えていた。
「ジュリアンさん」
「……シュン?」
画面の向こうで、ジュリアンが息を呑んだ。
シュンの静かな決意に、目を見開く。
「引き受けます。現場へ行って、あの機体を助け出します」
「本当か……! だが、君の平穏な隠居生活を……」
「平穏を守るために、見過ごせないことがあるだけです。……それより、時間がないんでしょう。具体的な作戦を立てましょう」
シュンはソファーから立ち上がり、通信コンソールの前へと歩み出た。
シエラとリリアが静かに身体を離し、シュンの両脇へと控える。
「あの機体が隔離されている保管庫は、地上の研究棟じゃないですね?」
「ああ。帝都地下の最深部にある、旧防空要塞を転用した耐爆保管庫だ。外周は何層もの耐爆コンクリートと魔導遮蔽鋼板で密閉されている」
ジュリアンの説明に、シュンの頭の中で過去の図面が一気に展開された。
「……耐爆隔離保管庫。……地下プラントの特高圧受電設備と冷却水路の接続工事」
「何……?」
「公社時代、僕が一人で施工を押し付けられた現場ですよ。地上の技師たちが誰も降りたがらなくて、全部丸投げされたんです」
シュンは淡々と、かつて頭に叩き込んだ図面を思い起こしながら言った。
「あそこの配管の引き回しも、受電盤の裏のバイパスも、全部頭に入っています。あの区画の背面は、壁一枚隔てて旧軍用の暗渠網——第0系統と隣接している。保守用の点検ハッチがあるはずです」
「なるほど、地上ルートを完全に迂回できる!」
ジュリアンが即座に表情を引き締めた。
「表の陽動は僕が引き受ける。出資機材の重大な契約不備を盾に、正面から緊急査察を仕掛けるよ。ヴォルフラム局長と警備責任者を会議室に呼び出し、机を叩いて完全に釘付けにしてみせる」
「助かります。その隙に、僕とシエラが暗渠を通って裏のハッチから侵入します。……シエラ、電子ロックの解除はいける?」
「……旧帝国の軍用暗号規格であれば、3秒以内に解読・バイパス可能です」
シエラの手元端末が、暗渠の構造図を瞬時に呼び出す。
「現場であの機体のコアを調律して暴走を止め、そのまま暗渠からここへ連れ帰ります」
シュンは振り返り、リリアを見た。
「リリアはここに残って、生命維持系統と防犯カメラの監視をお願いできるかな。それと……連れて帰ってきた時、すぐに冷却と受け入れができる準備をしておいてほしい」
「はい、シュン様。お部屋と機材を整えて、お待ちしていますね〜」
リリアが穏やかに微笑み、深く一礼した。
ジュリアンが画面の向こうで、力強く頷く。
「突入のタイミングは、僕が正面ロビーに踏み込んでから30分後だ。……頼んだぞ、親友」
「はい。ジュリアンさんも、無理はしないでください」
シエラがレバーを操作し、通信回線を切断した。
ブツリと映像が消え、静寂がリビングに戻る。
シュンは部屋着を脱ぎ捨て、黒い作業用スラックスと厚手のシャツに着替えた。
工作室へ足早に向かい、棚から使い慣れた革製のツールバッグを引き寄せる。
特注の高精度魔導テスターを中央のホルダーに差し込み、超高絶縁のプローブと、微細なマナ周波数を同調させるための白銀製ケーブルを隙間なく収めていく。
必要な道具を手際よく収め、ジッパーを引き絞る。キリリと走る金属音が、静かな室内に響いた。
玄関ホールへ戻ると、リリアが厚手の作業用外套を広げて待っていた。
袖に腕を通すと、ずっしりとした生地の重みと温もりが肩を包み込む。首元には、肌触りの良いウールのマフラーが手際よく巻かれた。
「いってらっしゃいませ、シュン様」
リリアがシュンの背中を、ポンと優しく叩いた。
その小さな手のひらの温もりが、背筋の芯までしっかりと届く。
「……行ってくるよ」
玄関ホールの突き当たり。
そこには、巨大な鋼鉄製の防爆扉が立ちはだかっていた。
ゼロ・ターミナルを外界の理不尽から守り続けてきた、絶対の防壁。
公社を辞めてこの地下に引きこもって以来、シュンが一度たりとも開けることのなかった扉だった。
分厚い鋼鉄の冷たさを見つめていると、かつて雨の夜に放り出された記憶がかすめ、足が一瞬だけ止まりかけた。
その時——。
スッと、漆黒の軍用ドレスを纏ったシエラが、シュンの真横に並び立った。
透き通るような白銀の髪を揺らし、切れ長の琥珀色の瞳を前方の防爆扉へと据えている。
「……シュン。身辺警戒および退路の確保は、私が請け負います。後方の心配は一切不要です」
静かで、凛とした声だった。
その横顔には、一切の迷いも恐れもなかった。
「……ありがとう、シエラ」
シュンは深く息を吸い込み、壁面のインターロック制御盤へと手を伸ばした。
保護カバーを跳ね上げ、油圧駆動スイッチを押し下げる。
ガシュン——!
重厚な金属ロックが解除される乾いた音が響き、続いて分厚い油圧シリンダーが重低音を唸らせ始めた。
ゴゴゴゴ……と床を震わせながら、数トンの防爆扉がゆっくりと側壁の中へスライドしていく。
開かれた隙間から、冷たく湿った、旧軍用暗渠の暗闇の空気が一気に流れ込んできた。
カビと湿ったコンクリート、そして外の世界の冷たい夜風の匂い。
シュンはツールバッグの肩紐を握り直し、シエラと視線を交わした。
二つの影が並んで、暗闇の奥へと足を踏み出していった。
最後までお読みいただきありがとうございました!
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