第43話 春の訪れは警報と共に
帝都の長い冬が明け、地上には柔らかな春の気配が漂い始めていた。
分厚い岩盤を貫く吸気シャフトから送られてくる外気はすっかり角が取れ、壁面のスリットから吹き出す調律された温風には、どこか穏やかな湿り気を含んだ春の匂いが混ざっていた。
リビング中央に据えられた、使い込まれた茶褐色の革張りソファー。
その中央で、薄手の綿の部屋着に身を包んだシュンが、座面に突っ伏すようにしてぐったりと沈み込んでいた。
「……死ぬ……。お腹の筋肉が、内側からちぎれそうだよ……」
「……過剰な誇張表現を検出。生体モニタの筋繊維疲労値は軽微な域に留まっています」
ソファーのすぐ傍らに直立するシエラが、手元にある薄型端末の画面を淡々とタップした。
透き通るような白銀の長い髪が、漆黒の軍用ドレスの肩口でサラリと揺れる。
端末の緑色モニタには、シュン専用に策定された『ベッド上超低負荷体幹トレーニングメニュー』の進捗ログが整然と表示されていた。
「……本日の腹筋運動の実績値は6回。規定目標値である10回に対し、達成率は60%です」
「6回でも頑張った方だよ……! 反動を使わずに起き上がるの、想像の100倍きついんだから……!」
「上半身の引き上げ角度が30度を下回った回数が2回存在します。ノーカウント判定とすべきところを温情で承認しました。明日は7回への引き上げを要求します」
「温情の使い方がおかしいよ……! 引き上げないで、現状維持にして……!」
情けなくソファーのクッションに顔を埋めるシュンの耳に、厨房の扉が静かに開く音が届いた。
「ふふ、シュン様、今朝もよく頑張りましたね〜」
ふわりとした柔らかな足取りで歩み寄ってきたリリアが、銀色のトレイをサイドテーブルへと静かに降ろした。
淡い若草色のエプロンドレスを揺らし、金糸の編み込み髪の下から、菫色の瞳が穏やかな光を湛えている。
「お腹を動かした後は、温かいものをしっかりお腹に入れてくださいね。春野菜のポトフ風スープと、シエラちゃんが淹れてくれた珈琲です〜」
深めの陶器皿から、白く立ち上る湯気とともに甘く優しい香りが広がった。
角切りにされた春人参や小カブ、春キャベツが、透き通ったコンソメスープの中で柔らかく煮込まれている。
その隣の白いマグカップからは、粗挽きにされた深煎り豆の芳醇で香ばしい香りが漂っていた。
「わあ……美味しそう……」
スープの香りに誘われるように、シュンはゆっくりとソファーから上体を起こした。
木製のスプーンでスープを掬い、そっと口へと運ぶ。
舌の上に広がるのは、じっくりと時間をかけて引き出された野菜本来の瑞々しい甘みと、控えめな塩気。噛む必要もないほど柔らかく煮崩れた小カブが、舌の上でほろほろと崩れていく。
温かなスープが喉を滑り落ちるたび、固まっていた下腹部の強張りがじんわりと解けていくようだった。
「……すごく優しい味だ。胃の奥まで温まるよ」
「ふふ、よかったです〜。お野菜はスラムの荷揚げ親方さんたちが、春の初荷から一番いいものを届けてくださったんですよ」
リリアはトレイを抱え直し、穏やかに目尻を下げる。
シュンはマグカップを持ち上げ、黒い液面に軽く息を吹きかけてから一口啜った。
舌を包み込む柔らかな苦味と、鼻へ抜ける香ばしい深煎りの香気。湯気とともに喉を落ちていく熱さが、微睡みの残る頭の芯を穏やかに覚醒させていく。
「珈琲も完璧だよ、シエラ。いつもありがとう」
「……規定の抽出手順に従っただけです。謝意を受ける理由はありません」
シエラは視線を端末のログ画面へ戻し、素っ気なく応じた。
だが、その指先が次の入力画面へと移る動きは、わずかにぎこちない。
マグカップをサイドテーブルへ静かに戻し、シュンは革ソファーの背もたれへと深く体重を預けた。
使い込まれた革が微かに軋み、身体の重みを柔らかく受け止める。
膝掛けのブランケットを胸元まで引き上げ、吐き出す息とともにゆっくりと瞼を閉じる。
壁のスリットから流れる温風が前髪を優しく揺らし、意識が心地よい微睡みの底へと滑り込みかけた——。
——ピピッ。
リビングの奥、分厚い岩盤壁に埋め込まれた受電監視コンソールから、微小な電子アラートが短く鳴った。
シュンがピクリと片眉を跳ね上げ、薄く目を開けた。
視線を向けた先、コンソール最上段に並ぶインジケーター群のうち、黄色のアラートランプが約3秒周期で規則正しく瞬いている。
ほぼ同時に、リビングの天井に沿って灯るブラケットライトが、人の目の端に引っかかる程度のわずかな瞬きを見せた。
さらに、壁際のオーディオラックに据えられた真空管アンプのスピーカーから、流れていたチェロの低音に紛れて、微細な音が混ざり込む。
——ジー……、ジー……。
周期的な、硬く濁った高調波のハム音だった。
「……ん?」
シュンはソファーに沈んだまま、首だけを巡らせてコンソールのモニタを見上げた。
緑色の燐光が描くオシロスコープの波形。
帝都の高圧幹線から受電している商用マナ電流の正弦波が、滑らかな山と谷を描くはずの頂点付近で、まるで細かいヤスリをかけたように微小に波打っていた。
「……波形解析を実行」
シエラの手元の端末が、無音で警告ログを受信する。
「帝都地上配電網、第4送電幹線において不規則な過負荷パルスを検知。基本波周波数50Hzに対し、第5次および第7次の奇数次高調波歪みが重畳しています。電圧実効値の変動はプラスマイナス0.4%未満。ゼロ・ターミナルの基幹防御バリアおよび生命維持系統への実害はありません」
「高調波歪み……。しかもパルス状に断続的だね」
シュンはソファーの背もたれに後頭部を預けたまま、天井の照明をぼんやりと見上げた。
指先で顎を撫でる。
「インピーダンスの不整合による反射波だね、これ。どこかの施設が、安全率を無視して無茶な大電力パルスでも打ち込んでるのかな。幹線の許容を超えて、ノイズが系統に逆流してきてる」
「……帝都の公共送電網における許容歪み率を大きく逸脱しています。公社の系統管制所が即座に遮断器を作動させるべき事象です」
「まあ、公社の連中のことだからね。季節の変わり目の点検で手一杯で計器を見落としてるか、あるいは特権階級の研究施設だから手を出せないって見て見ぬ振りをしてるんだろうけど」
小さく息を吐き出し、シュンはソファーに深く沈み直した。
外の世界で誰が何をやらかしていようと、この地下の平穏には関係のない話だ。
ただ——。
「……でもさ」
シュンは不満げに眉をひそめた。
「せっかく美味しい珈琲を飲んで、これから最高に気持ちいい二度寝に入ろうとしてたのに。このジーっていうハム音、耳について全然落ち着かないよ」
「……要請があれば、該当ラインの物理遮断を行います。内部蓄電槽のみでゼロ・ターミナルの全負荷を320時間維持可能です」
「ううん、こんな些細なノイズで大元のラインを落とすなんて大袈裟だよ。後で系統の位相を合わせて繋ぎ直す手間を考えたら、手元でノイズだけ打ち消した方がずっと楽だしね。……動くのも億劫だし、これで消しちゃおう」
シュンはソファーから起き上がるのを拒否し、サイドテーブルの端に置いてあった薄型の携帯端末へと腕を伸ばした。
沈み込んだ姿勢のまま、片手でタッチパネルを操作する。
画面上に呼び出されたのは、ゼロ・ターミナルの受電端子と深層アース回路の調律インターフェースだ。
シュンの親指が、迷いのないリズムでパラメータ入力欄をタップしていく。
「第5次が振幅3.2%、位相角マイナス42度。第7次が振幅1.8%、位相角プラス15度……っと」
侵入してくるノイズの波形を視覚化し、その完全に鏡写しとなる「逆位相パルス」の相殺定数を淀みなく手元で組み上げていく。
「ゼロ・ターミナルの深層アースから、アースインピーダンス極小化モードで逆位相パルスを重畳……送信」
シュンが画面右下の実行ボタンをポンとタップした。
ドウン——。
床下数百メートルの岩盤深く、地下水脈と直結した深層アースラインから、人の耳には聞こえない極低周波の振動が一度だけ抜けた。
ギザギザと尖っていたオシロスコープの正弦波が、滑らかな弧へと引き戻されていく。
——スッ……。
スピーカーから漏れていた耳障りなハム音が、まるで最初から存在しなかったかのように完全に掻き消えた。
ブラケットライトの微かな瞬きもピタリと止まり、穏やかな橙色の光が静止を取り戻す。
ゼロ・ターミナルのリビングを満たしたのは、チェロの深々とした芳醇な響きと、壁のスリットから吹き出す静かな温風の気配だけだった。
「……全高調波歪み率、0.01%以下へ収束。外部送電網からのノイズ侵入を完全相殺しました」
シエラが端末の受電ステータスを確認し、淡々と告げた。
その切れ長の琥珀色の瞳が、ソファーで脱力したまま端末を放り出すシュンに向けられる。
「……相変わらず、横着をする時だけは驚異的な反応速度です」
「横着じゃないよ、効率化だよ。ベッドから一歩も出ずにトラブルを解決するのが、真の一流技師の矜持なんだから」
「都合のいい定義です」
シエラは呆れたように短く息を吐いたが、それ以上は何も追及しなかった。
そこへ、リリアがことりと小さな陶器の湯呑みをサイドテーブルに置いた。
ふわりと立ち上るのは、ほうじ茶の香ばしい湯気だ。
「ふふ、静かになりましたね〜。珈琲の後は、温かいお茶で喉を潤してくださいね〜」
「ありがとう、リリア。……ふぁあ……」
シュンは大きくあくびを噛み殺しながら、お茶の湯呑みを両手で包み込んだ。
じんわりとした陶器の温もりが、指先から手のひらへと広がっていく。
「よし……これで邪魔者は誰もいない。今度こそ、心置きなく二度寝させてもらうよ……」
湯呑みをテーブルへ戻し、ソファーの背もたれに頭を沈める。
リリアがそっと掛け直してくれたブランケットを胸元まで引き上げると、柔らかな温もりが首元を包み込んだ。
瞼がとろんと重くなり、意識が心地よい微睡みの底へと沈みかけていった。
——その時だった。
ピポッ、ピポッ、ピポッ、ピポッ……!
リビングの壁面、普段は完全に沈黙している通信コンソールから、これまで一度も鳴ったことのない、鋭く緊迫した高音のアラートが鳴り響いた。
「うわあっ!?」
微睡みの淵から引きずり戻されたシュンが、ソファーの上でビクッと身体を跳ね上げた。
心臓が嫌な音を立てて跳ね上がる。
「な、何!? 今の音……!?」
「……通信回線の強制割り込みを検知」
すでに通信コンソールの前へと移動していたシエラが、緑色に明滅する物理スイッチを素早く弾く。
青い平時のランプではなく、コンソール中央の大型インジケーターが真紅の閃光を激しく明滅させていた。
「発信元コード照合……暗号化キー、ローゼンバーグ家直系回線と一致。……優先度識別タグ、プライオリティ1——最優先の緊急呼出です」
「プライオリティ1……!? ジュリアンさん、あれ絶対に滅多なことじゃ使わないって言ってたのに……!」
シュンはブランケットを跳ね除け、ソファーから身を起こした。
「……映像回線、強制復調します」
シエラがコンソール手前の大型レバーをカチリと押し下げた。
壁面に埋め込まれた高精細の通信モニターが、パッと青白い光を放って立ち上がる。
そこに映し出された光景に、シュンは息を呑んだ。
「……っ」
画面の向こうのジュリアンは、端正な顔立ちを硬く強張らせて立ち尽くしていた。
血の気の引いた唇は真一文字に引き結ばれ、襟元のアスコットタイは手荒く引き千切るように緩められている。机上に突かれた両拳は、白く浮き上がった指関節が微かに震え、冷徹に張り詰めた碧眼の奥には、見たこともないほど鋭く苛烈な光が宿っていた。
背後のモニター群を埋め尽くすのは、異常事態を示す無数の赤い警告ログだった。
「……ジュリアンさん……?」
画面の向こうで、ジュリアンが噛み締めた奥歯の隙間から、低く硬い声を絞り出した。
「……すまない、シュン。君の平穏を邪魔することは承知している。だが、君にしか頼めないんだ」
最後までお読みいただきありがとうございます!
本話より【第4章:捨てられた少女機巧と春の道楽クラフト編】が開幕いたします!
春の訪れとともに鳴り響く謎の警報、そして地下要塞へと運び込まれる最新鋭の少女機巧――。
「代わりはいくらでもいる」と捨てられた少女・ノアと、シエラやリリアたちとの新たな同居生活が始まります!
春の道楽クラフトや、3体の美少女オートマタたちに囲まれるシュンの至福のFIRE生活をぜひお楽しみください!
「新章も楽しみ!」「3人に囲まれる生活が見たい!」と思っていただけましたら、広告下部の【ブックマークに追加】や【ポイント評価(★)】で応援していただけると大変励みになります!
次回も明日【18:00】に更新予定です!




