第42話 寒波は去り、いつもの日常へ
檜の香る大浴場で手足を伸ばし、芯まで温まったシュンは、脱衣所で温められた大判のタオルを受け取った。
リリアがふわりと微笑みながら差し出してくれた、清潔な綿の部屋着へと袖を通す。
「シュン様、湯冷めしないうちにどうぞ〜。シエラちゃんがもうお布団を整えて待っていますよ」
「ありがとう、リリア。……すごく温まったよ」
足先までぽかぽかと熱を帯びたまま、シュンはリビングを抜けて寝室へと向かった。
寝室の扉を開けると、室内は柔らかな暖色の間接照明だけが点灯し、静謐な薄暗がりに包まれていた。
中央に据えられた大型ベッドの上には、あの帝室御用達の広大な羽毛布団が美しく整えられている。
濃紺のシルクカバーが、間接照明の光を吸い込んでしっとりとした深い艶を放っていた。
「……セッティング完了。寝具表面温度および調湿状態、すべて至適範囲です」
ベッドの脇に立っていたシエラが、琥珀色の瞳を向けて淡々と告げた。
「シエラ、ありがとう。……本当に大きいね、このお布団」
シュンはベッドの端に腰を下ろし、そっとシーツと布団の隙間に身体を滑り込ませた。
瞬間、シュンは小さく息を呑んだ。
羽毛布団がふわりと身体の上に落ちてきたはずなのに、重みがまるで感じられない。
ホワイトグースのダウンが空気をたっぷりと抱き込み、まるで温かな雲の中に包み込まれたかのような、不思議な浮遊感だった。
濃紺のシルクは驚くほど滑らかで、上気した肌に吸い付くように沿ってくる。
「うわ……これ、本当にすごいな……身体が浮いてるみたいだ……」
思わず呟いて天井を仰いだその時、左側の布団が音もなく持ち上がった。
冷涼な気配とともに、シエラがシーツの上へと滑り込んできた。
白銀の長い髪がシーツの上にサラリと広がり、漆黒の部屋着を纏った華奢な身体が、シュンの左半身にすっと密着する。
触れ合った瞬間、シュンの左腕と腰回りに、ひんやりとした冷感が走った。
白磁のように滑らかなシエラの肌が、部屋着越しでもはっきりと分かるほどぴたりと寄り添ってくる。
「……シエラ!?」
「……長湯をしすぎです。体が火照ったまま布団に入れば、汗をかいて寝冷えします」
シエラは正面の天板を見つめたまま、冷涼な腕と脚をシュンの身体へと逃げ場のないように絡めてきた。
「ちょ、ちょっとシエラ!? 密着しすぎじゃない!? っていうか、腕……!」
「……動かないでください。離れると熱がこもります」
「熱がこもるって……! あ、でも……」
ドギマギして身をよじろうとしたシュンだったが、湯上がりで火照りきった身体に、シエラの冷涼な肌が吸い付くように沿ってくる。
体内にこもっていた熱が心地よく引いていき、抵抗する気力が急速に抜けていく。
「……ダメだ、すっごく気持ちいい……」
「……当然です。風邪を引かれたら困りますから」
シエラは視線を正面へ向けたまま、微かに唇を引き結んだ。
そこへ、右側の布団がふわりと持ち上がった。
「ふふ、私もお邪魔しますね〜」
潜り込んできた温かな気配が、シュンの右腕を胸元へと引き寄せるように抱きしめてきた。
薄手の部屋着越しに伝わってくるのは、息を呑むほど豊かな柔らかさと、吸い付くような体温。
石鹸と甘い花の香りが、一瞬にして鼻腔を満たした。
「り、リリアまで……」
「昨日も遅くまで頑張っていらっしゃいましたからね〜。たくさん頭を使って、お疲れでしょう?」
「そんな、大したことは……」
「ううん、とっても立派でしたよ〜」
リリアは甘えるようにシュンの首筋へと顔を寄せ、その身体をいっそう隙間なく密着させてきた。
耳たぶをかすめるほどの至近距離から、甘く熱を帯びた吐息がこぼれる。
「……今夜はリリアが、うんと温めて差し上げますからね。ほら……力を抜いて、ぜんぶ預けてください〜」
トクン、とシュンの心臓が激しく跳ね上がった。
首筋にかかる吐息の熱さと、腕全体を包み込む抗いがたい柔らかさ。
ドギマギするシュンの背中にそっと柔らかな手が回され、優しく包み込むように撫でられる。
いつの間にか、シュンの肩からすべての力が抜け落ちていた。
左側からは、寝冷え予防を口実に火照りを穏やかに鎮めてくれるシエラの冷涼な肌触り。
右側からは、昨日の疲れをまるごと溶かして甘やかしてくれるリリアの温もりと柔らかな弾力。
そして全身を包み込む、シルクの滑らかさと羽毛の軽やかな浮遊感。
外界では、猛烈な寒波が氷点下の風を吹き荒らしているはずだった。
だが、分厚い岩盤と重装甲に守られたゼロ・ターミナルの寝室には、微かな空調の囁きしか届かない。
満腹感と湯上がりの心地よい倦怠感が、二体の温冷の境界線の中で混ざり合っていく。
シュンの瞼が自然と重くなり、抗えない深い眠りの中へと、意識がゆっくりと沈み込んでいった。
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ジリジリと耳を刺すベルの音も、けたたましい非常呼び出しの警報もない。
寝室の間接照明が無段階でゆっくりと朝の光へと切り替わり、地下要塞に穏やかな朝を告げていた。
シュンがゆっくりと瞼を持ち上げると、頭の芯まで澄み渡るような深い熟眠感があった。
身動きしようとすると、両脇から心地よい重みと温もりが伝わってくる。
左側ではシエラがパチリと目を開け、至近距離で視線が合った。
「……おはよう、シエラ」
「……おはようございます。主人の覚醒を確認。……よく眠れましたか」
「うん、信じられないくらいぐっすり眠れたよ」
右側でもシーツが擦れ、リリアが菫色の瞳を細めてふわりと微笑みかけてきた。
「ふふ、おはようございます、シュン様〜。あんなに大きなお布団なのに、三人で真ん中にくっついて眠っていましたね〜」
「あはは……でも、暖かくて本当に気持ちよかったよ」
「……体温調節機能の相乗効果です。……起床時刻を過ぎています。朝食の準備に移行します」
シエラの指先が、シュンの腕の上でほんの一瞬止まった。それからすっとベッドを抜け出す。
リリアもくすくすと笑いながら後に続き、エプロンを手に厨房へと向かう。
リビングへ出ると、香ばしいパンの焼ける匂いと、野菜スープの優しい湯気が立ち上っていた。
ダイニングテーブルの脇では、シエラが真鍮製の手挽きミルを一定のリズムで回している。
ゴリゴリと硬質な豆が砕ける音が響き、挽きたての深煎り珈琲の芳しい香りが広がっていく。
「……あのお布団、本当に最高の寝心地だったよ。昨夜は綺麗にベッドを整えてくれてありがとう、シエラ」
「……礼には及びません。提供された物資の性能を活かすよう、適正に設営したまでです」
シエラが陶器のドリッパーにお湯を注ぐと、ぷっくりと膨らんだ粉のドームから、黒い雫がサーバーへとぽたぽたと落ちていく。
ふと視線を横に向けると、壁際のメインコンソールの端で、青い通信インジケーターが無音のまま小さく点滅を繰り返していた。
「シエラ、通信が入ってる?」
「昨夜のうちに着信音を消音処理しました。ジュリアン・フォン・ローゼンバーグからのテキストメッセージです。……表示しますか」
「うん、見てみるよ」
シエラが淹れてくれた温かい珈琲のカップを片手に、シュンはコンソールの前へと歩み寄った。
画面のスクロールレバーに触れると、緑色の端末画面に整然とした文字の列が展開された。
昨夜、シエラに通信を即座に遮断されたにもかかわらず、文面には怒りや不快感の色など微塵もなかった。
配管バイパス開放に伴う各区画の圧力推移、大病院やスラムにおける熱供給の復旧データ、公社幹部の動向と現場技師の再配置状況が、公社公式の報告書以上に几帳面かつ精緻なフォーマットで整然と整理されている。
そして末尾には、短くこう添えられていた。
『追伸:蟹の鮮度と羽毛布団の寝心地はいかがだっただろうか。寒波の峠は越えたが、地下の冷え込みには気をつけてほしい。君の安息が守られていることを願っている』
「……通信をブツンと切られた相手に、よくここまで丁寧に送ってくるよ。本当に、調子が狂う人だなあ」
画面に並ぶ几帳面すぎる長文ログを前に、シュンは呆れ混じりに小さく苦笑した。
悪意もなければ見返りを求める気配もない、純粋すぎる敬意と几帳面さ。
シュンは息を吐きながら、ログの画面を閉じた。
「……通信プロトコルとしての誠実性を確認。低優先度フォルダに正常保存します」
シエラが淡々と端末を操作し、削除することなくアーカイブへとログを格納した。
香ばしい厚切りのバタートーストに、野菜の甘みが溶け込んだ熱々のスープ。
穏やかに朝食を平らげたシュンは、おかわりを注いだマグカップを片手に、リビング中央の革張りソファーへと腰を下ろした。
読書灯の柔らかな橙色の光が手元を照らす中、ソファーの奥へと深く身を沈める。
完全防音の壁に守られた空間には、外部の騒音も寒気も一切入ってこない。
コンソールの前で静かに定期ログを精査するシエラ。
そしてリリアが足元へ歩み寄り、膝の上に柔らかなブランケットをそっと掛け直してくれた。
「シュン様、足元は冷えていませんか〜?」
「大丈夫、ぽかぽかだよ。ありがとう」
マグカップから立ち上る湯気を見つめながら、シュンは静かに目を細めた。
口いっぱいに広がる深煎りのビターな苦味。
マグカップの底に残った最後の一口を飲み干す。
読書灯の橙色の光が、静かな手元を照らしていた。
シュンは満足そうに息を吐いて、マグカップをサイドテーブルに置いた。
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「ごちそうさま。……さて、今日も平和だし、工房の工具でも手入れしようかな」
ソファーから立ち上がり、ぐっと両腕を上げて伸びをした、その時だった。
背後から、音もなく伸びてきた柔らかな腕が、シュンの腰回りをふわりと包み込んできた。
背中に押し当てられる、豊かな柔らかさと温もり。
そして、石鹸と甘い花の香り。
シュンの背筋が、ピンと伸びた。
「り、リリア……?」
両腕を上げた伸びの姿勢のまま、シュンの身体がコチコチに硬直した。
首筋まで一気にカッと熱くなり、動揺して視線が激しく泳ぐ。
背後に寄り添うリリアは、穏やかに微笑んだままだ。
そして、腰に回されていた柔らかな掌が、ゆっくりと下腹部へと滑り落ちていく。
その滑らかな指先の動きに、シュンの背筋をツッと冷たい汗が伝った。
薄手の部屋着の上から、下腹の肉をふんわりと優しく撫で——
——ぷにっ。
柔らかな指先が、下腹のふくらみを小さくつまんだ。
「あらあらすてき……シュン様、連日のお鍋と美味しい蟹、コタツでのお昼寝のおかげで、お腹がまた一段と柔らかくモチモチして愛らしいですね〜」
耳元をくすぐる吐息は、どこまでも優しく温かかった。
シュンの思考が、完全に停止した。
一秒、二秒。
静寂の後、ハッと我に返ったシュンは、自らの手で慌てて下腹をつまみ直した。
指先に伝わってくるのは、以前よりも確実に増した、モチモチとした明らかな厚み。
「えっ……ま、また太った……!? 連日の鍋と雑炊が全部ここに……!?」
慌てて身をよじるシュンを見て、リリアはくすくすと微笑みながら、新しいお茶を淹れるために厨房へと足を向けた。
顔面蒼白になって固まるシュンの前へ、足音もなくすっと人影が歩み寄ってくる。
シエラだった。
その白磁の手には、見覚えのある薄型の携帯端末が握られている。
緑色のモニタに表示されているのは、あの日作成されたきり完全に放置されていた『ベッド上超低負荷体幹トレーニングメニュー』だった。
「……体重測定値および腹囲データの微増を確認。あの日から完全停止していた筋トレメニューを、今夜から再開します」
「シ、シエラ……!?」
「逃走は認めません。基礎代謝の低下による内臓脂肪の蓄積は、魔力循環の阻害要因となります」
一切の情け容赦もない視線とともに、緑色に発光する端末画面が目の前に突き出される。
「待って、シエラ! 昨日の今日なんだからもう少し休ませて……! 昨日だって命がけでバイパスを開放したんだよ!?」
「バイパス開放時の肉体労働比率は全体の3%未満。実質的な運動量はゼロと算出されました」
「そんなぁ……!」
シュンはソファーへと崩れるようにへたり込み、歩み寄ってきたシエラの冷涼な太ももに額を預けて弱々しく懇願した。
額から伝わる温もりに、シエラの耳の後ろの微小な排熱スリットが、ほんの微かに開きかけた。
だが、シエラはその視線を手元の端末から決して逸らさない。
「……情けない懇願は却下します。まず、膝を立ててください。腹筋10回です」
「10回も!? 無理! 3回にして……!」
「却下です」
「ふふ、シュン様、応援していますね〜」
厨房から戻ってきたリリアが、湯気立つ温かい湯呑みをトレイに乗せ、ふんわりと嬉しそうに目を細めた。
香ばしい茶の湯気が、柔らかな橙色の光の中に立ち上っていく。
シエラの冷たい太ももに顔を埋めたまま、シュンは情けなく両手を伸ばして呻いた。
「リリアぁ……! お茶飲むから……まずお茶飲んで休憩してから……!」
「却下です。1回目をカウントします」
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!
第42話をもちまして、【第3章:帝都を救う在宅リモートワーク編】が大団円完結となります!
大寒波の帝都をコタツに入ったまま救い出し、極厚羽毛布団で美少女二人に挟まれて眠る――。
完全無職・至福の引きこもり不労生活を極めたシュンたちの物語を、最後まで温かく見届けてくださり本当にありがとうございました。
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