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第40話 働いた者たちへ、温かい一杯を

 目覚まし時計のけたたましいベルも、誰かからの怒鳴り声もない。

 静寂の中でゆっくりと意識が浮上する感覚は、何度味わっても飽きることがなかった。


 シュンは寝室のベッドから抜け出し、寝間着のスウェットの裾を引きずりながら、リビングの魔導コタツへと潜り込んだ。

 天板にぺたりと顎を預け、敷布団の奥へと足先を滑り込ませる。

 じわりと広がる熱線が、昨夜の寒さを芯から解きほぐしていった。


「……ふぅ……。極楽だ……」


「シュン様、おはようございます。昨夜は遅くまでお疲れ様でした。温かい焙じ茶をどうぞ〜」


 衣擦れの音とともに、リリアがふわりと歩み寄ってきた。

 湯気立つ湯呑みが、コタツの天板にそっと置かれる。


「ありがとう、リリア……。もう指一本動かしたくないよ……」

「ふふ、一日中コタツに入っていて大丈夫ですよ〜」


 デスクの前で端末を走査していたシエラが、琥珀色の視線を向けてくる。


「……シュン。起床直後における極端な代謝低下を確認。完全な怠惰状態と判定します」

「いいんだよ、昨夜は命がけで街を救ったんだから……。ところでシエラ、朝の監視ログは?」


「……帝都全域の主導管圧力、平常域を維持。各地区の排泥ラインも正常動作中。大寒波の最大ピークは越えたと判定されます」


 シエラは淡々と告げると、コンソールの切替スイッチに指を伸ばした。

 メインモニターに、地上の定点カメラ映像が浮かび上がる。

 猛吹雪こそ収まっていたが、灰色の空の下、スラムの街路は依然として底冷えに晒されていた。

 配管ピット周辺では、防寒ヤッケを着込んだ作業員たちが、白い息を吐きながら凍結点検を続けている。


「……外はまだ氷点下か。みんな、あんな寒い中で作業を続けてるんだな」


「地上気温マイナス6度。突発的な水撃による継手破損を警戒し、夜通し巡回が続けられている模様です」


 シエラの報告に、リリアが心配そうに眉を寄せる。


「昨夜あんなに頑張ってくださったのに、寒そうで身体が心配ですね……」

「……うん。僕らだけコタツでぬくぬくしてると、なんだか背中が疼くというか……」


 シュンは湯呑みを置き、ふとリビングの隅の資材棚へと視線を向けた。

 そこには、麻袋が天井近くまでうずたかく積まれている。

 ジュリアンが特設焙煎所から送りつけてきた、特級焙煎珈琲豆——100kgの山だ。


「……あれ、三人で消費するにはどう考えても多すぎるよね」

「私とリリアの燃費計算上、現在の消費ペースでは全量消費までに約4年半を要する試算です」


 シエラが即座に数値を返してくる。


「だよね……。ねえシエラ、前に工作室へ下げたあの自販機、まだ動く状態にあるかな?」

「……数日前の未明、過密行列を検知して遠隔施錠・回収した真鍮製重力式珈琲自動給茶機ですね。工作室の第2保管区画に格納されています。機能的な損傷はありません」

「ちょっと工作室に行こうか」


 シュンはコタツから名残惜しそうに這い出ると、スリッパを突っかけて工作室へと向かった。


 工作室の棚から防塵シートを外すと、磨き上げられた真鍮の筐体が鈍い光沢を放った。

 シュンは手際よく工具を走らせ、投入口の裏蓋を開ける。


「商売をするわけじゃないし……レバーを押せばそのまま出るようにしておこう」


 コイン投入口を金属板で塞ぎ、レバーひとつで抽出サイクルが回るよう内部のラッチを細工する。

 真鍮の枠板には、手書きの札を差し込んだ。


『寒波復旧作業お疲れ様でした。ご自由にどうぞ』


「シエラ、豆を頼めるかい?」

「了解」


 シエラがホッパーへ豆を流し込むと、ザラザラと小気味よい音と共に、香ばしい焙煎香が工作室を満たした。

 バーナーの制御端子を調整し、温度計の針を合わせる。


「よし、88度。雑味を出さず、甘みを一番引き出せる温度だ」


「……アンダー・スラッグ白大理石神殿投入口脇への臨時配置ですね」


 シエラが真鍮筐体の両脇に手をかけ、軽々と持ち上げた。


「目立たないように頼むよ、シエラ」

「隠密行動プロトコルを実行します。生体反応の死角を縫って配置を完了させます」


 シエラは足音ひとつ立てずに工作室を出ると、地下搬送路の闇へと消えていった。


---


 アンダー・スラッグの廃線路。

 白大理石の神殿の投入口周辺には、石畳の隙間に白く霜が張り付いていた。

 吹き抜ける風が、冷え切った作業員の頬を容赦なく叩く。


「……くそっ、指先の感覚がねえな」


 配管ピットの点検を終えた鍛冶職人が、厚手の手袋を外して息を吹きかけた。

 白く濁った呼気が、寒風にかき消されていく。

 数人の仲間たちと共に肩をすぼめて歩いていた職人は、ふと足を止めた。


 冷たい鉄と煤の臭いの中に、何かが混ざっていた。

 風に乗って漂ってきたのは、鼻腔の奥をじんわりと温めるような、深く香ばしい焙煎の香り。


 職人たちは顔を見合わせ、香りの元へと視線を巡らせた。

 白大理石の神殿の投入口の脇。

 雪除けのアーチの下に、見慣れた真鍮の四角い筐体が鎮座していた。

 上部の排気スリットから真っ白な湯気が濛々と立ち上り、正面には真新しい札が掲げられている。


『寒波復旧作業お疲れ様でした。ご自由にどうぞ』


 脇に積まれた紙コップを、先頭の鍛冶職人が唾を飲み込みながらひとつ手に取った。

 抽出口の台座に置き、冷え切った指先で真鍮のレバーを押し下げる。


 カチャリ、コトコトコト……。


 筐体の奥で小さな歯車が噛み合う小気味よい音が響いた。

 直後、真鍮ノズルから、黒褐色の熱い液体が勢いよく注ぎ出された。

 立ち上る濃厚な湯気。

 香ばしい豆の香りが、一気に周囲の冷気を包み込む。


 満たされた紙コップを、職人は両手で慎重に持ち上げた。

 紙越しに伝わる熱だけで、かじかんでいた指先がじんわりと解けていく。

 立ち上る湯気に顔を寄せ、恐る恐る縁に唇を当てた。


 熱い液体が喉を通った瞬間、職人は目を見張り、言葉を失った。


「…………っ」

「おい、どうしたんだ?」


 後ろの仲間が訝しげに覗き込む。


「……うまい……。なんだこれ……身体の芯まで染み渡るぞ……」


 掠れた声が零れ落ち、強張っていた両肩がふっと重力に従って落ちる。

 仲間たちも息を呑み、次々に紙コップを手に取ってレバーを押し下げていった。


 誰も余計な口を利かず、紙コップを両手で大切そうに抱え込み、静かに一口ずつ喉を潤していく。

 老職人が神殿の投入口に向かって深々と頭を下げ、静かに背筋を伸ばしていた。


 コツ、コツ、と凍りついた線路を踏みしめる靴音が近づいてきた。

 配管ピットから上がってきた小柄な人影に、鍛冶職人が白い息を吐きながら声をかける。


「おーい、ミレイ技師! 地下の点検は終わったかい?」

「……ええ。バイパスの凍結も完全に解けて、平常圧力を維持しています。……それにしても、すごい底冷えですね」


 外套のポケットから引き抜いた手は赤くかじかみ、吐く息が白く揺れていた。

 職人は顔をほころばせ、湯気を立てる紙コップを差し出す。


「ほら、これ受け取りな」

「……珈琲、ですか?」

「神様からだ。復旧作業の礼だってよ」


 ミレイは目を瞬かせ、神殿の脇で真っ白な湯気を立ち上らせる真鍮の筐体を見つめた。

 そして、差し出された紙コップをそっと受け取る。


 指先を包み込む確かな温もり。

 立ち上る香りを吸い込んだ瞬間、ミレイの眉がぴくりと動いた。


 コップに唇を当て、一口含む。

 舌の上に広がる、澄み切った深い苦味。

 渋みが一切ない。奥からふわりと甘みだけが立ち上がってくる。


(……この淹れ方……まさか……)


 息が止まり、記憶の光景が一気に目の前へ重なった。


 ——公社第3調律室。深夜2時。

 連日の徹夜で明滅する計器の光と、机一面に広げられた配線図。

 過労で机に突っ伏しかけたミレイの前に、ことりと置かれた白いマグカップ。

 作業用コートの袖をまくったシュン先輩が、穏やかに笑っていた。


『お疲れ様、ミレイさん。はい、これ。抽出温度88度、蒸らしはきっちり30秒。雑味が出ないように淹れたから、頭の熱が取れるよ』


 ——冷たい風が吹き抜け、記憶の映像が溶ける。


 ミレイは手元の紙コップを見つめた。

 周囲の作業員たちは、神殿に向かって静かに祈りを捧げている。


 ミレイはその信仰を否定することなく、ただ温かい紙コップを両手でそっと胸元に引き寄せた。

 指先から伝わる確かな熱を噛み締めるように。

 煤で汚れた頬をわずかに緩め、誰にも見えない小さな微笑みを浮かべていた。


---


 ゼロ・ターミナルのリビング。

 メインモニターの画面には、紙コップを手に歩き出す作業員たちと、胸元にコップを抱えて小さく微笑むミレイの姿が映し出されていた。


 魔導コタツの中で、シュンは胸を張って満足げに息を吐いた。


「ふふん……やっぱりな。完璧だ」

「……自己満足の充足を確認。しかし、豆の消費量はわずか数百グラムに留まっています。在庫の抜本的解決には程遠い数値です」


 戻ってきたシエラが、淡々と現実的なツッコミを入れてくる。


「いいんだよ、美味しく飲んでもらえたなら。僕の腕前が証明されただけで十分さ」


 シュンがコタツの天板に満足げに頬を預けていた、その時だった。


 コトコトコト……とリビングの奥から、受取シュートのコンベアが回転する音が響いてきた。

 何かがまとめて搬送されてくる重い駆動音。

 同時に、メインコンソールの通信ランプが青く点滅を始めた。


 ピピピピッ、ピピピピッ。


「……ん? こんな時間に専用回線……? 誰からだろう」


 せわしない呼び出し音に、シュンはコタツから訝しげに顔を上げた。


最後までお読みいただきありがとうございました!


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次回はいよいよ第3章完結話、明日【18:00】に更新予定です!

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