第39話 大富豪はスマートに引導を渡す
ゴボゴボゴボ……と、配管の奥から響く唸り音は、わずか数秒のうちに地鳴りのような重低音へと膨れ上がった。
極寒の夜気の中、足元に埋め込まれた鋳鉄製の非常排泥ハッチが、ガタガタと小刻みに跳ね上がる。
錆びついた固定ボルトが、内側からの圧力に押されて悲鳴のような軋み音を立てていた。
「な……なんだ……!?」
ギルバートのスコップが、指先から滑り落ちた。
ブラッドリーも足元を見下ろし、泥水の中に沈めた長靴の底から這い上がる異様な振動に、顔をこわばらせる。
立ちすくむ二人の足元で、非常排泥ラインの安全弁が異様な熱を帯び始めていた。
主導管側から逃がされた高圧温水の奔流が、泥水サージを巻き込みながらバイパス末端の逃がし弁へと一気に押し寄せていた。
メキ、メキメキッ!
限界まで締め切られていた鋳鉄の弁体に亀裂が走り、甲高い金属破壊音が闇を切り裂いた。
「ひっ……!?」
「に、逃げ——」
ドッパァァァァァンッ!
けたたましい破裂音とともに、分厚い鉄の安全弁カバーが弾け飛んだ。
直後、黒く濁った高圧泥水と真っ白な高温蒸気が、間欠泉のように猛烈な勢いで吹き上がる。
ゴオォォォッという凄まじい水圧の直撃を受け、ギルバートとブラッドリーの身体が木の葉のように宙へ跳ね上げられた。
放物線を描いて吹き飛ばされた二人は、氷点下の外気で冷え固まりかけた泥濘の海へと、頭から派手にダイブした。
ズッシャァァァン!
高く跳ね上がった黒い泥水が、周囲の積雪を無残に染め上げる。
全身を打った衝撃の直後、二人の皮膚を襲ったのは、焼けるような泥水の熱気だった。
だがそれも束の間、吹き抜ける猛吹雪が瞬く間に熱を奪い去っていく。
「ぐばっ……!? ごほっ、ごほっ……! な、なんだこれは……熱っ……いや、冷たっ……!?」
「ぎゃああああっ! 目、目が開かない! 泥が……泥が顔の上で凍りついて固まっていくぞぉぉ!」
四つん這いになった二人は、どろどろの泥濘から必死に顔を上げた。
顔面も鼻の穴も黒いヘドロで埋まり、濡れそぼった作業着の表面が、極寒の外気でパリパリと白く凍結し始めている。
互いの無残な姿を見合わせた瞬間、二人の喉から裏返った金切り声が重なって響き渡った。
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高級葉巻の甘い紫煙が、天井に向かってゆるゆると立ち昇っていた。
公社の中央統括司令室に敷き詰められた分厚い絨毯の上を、暖炉の橙色がゆらゆらと舐め回している。
卓上のクリスタルグラスに注がれた琥珀色のブランデーが、その炎の揺らぎを映して小さく震えていた。
「ふははは! 見ろ、スラム方面の熱供給ラインの圧力が完全に安定したぞ!」
仕立てのいいウールスーツに身を包んだ幹部が、壁一面の巨大計器盤を指差して笑声を上げた。
「英断だったな……! おい、広報課の課長を呼べ。明日の朝刊は我々の手柄だ」
「はっ! ただちに手配いたします!」
グラスの縁に唇を寄せ、満足げに喉を鳴らしたその時だった。
ガコンッ、と重厚な防音扉が押し開かれた。
室内の視線が一斉に入口へと集まる。
立っていたのは、煤と泥にまみれた作業用外套をまとったミレイだった。
吹き込む冷気とともに、雪の粉が絨毯の上にパラパラと落ちる。
その手には現場用の携帯型テスターと、黒い金属製の記録素子が握られていた。
「な、なんだ貴様は! 現場の下っ端が、役員の執務室に泥足で踏み込んでくるとは何事だ!」
幹部が眉を跳ね上げ、グラスを机に叩きつけた。
「貴様、調律室のミレイだな!? 現場で勝手に立ち入り禁止のバイパスを開放したと報告が入っているぞ! 公共設備の破壊工作員め、警備員を呼んで今すぐ地下牢に放り込んでやる!」
卓上の呼び出し鈴へ手を伸ばす幹部に対し、ミレイは眉ひとつ動かさなかった。
濡れた前髪の奥から、冷え切った翡翠色の瞳が幹部を真っ直ぐに見据えている。
「……警備員を呼ぶ前に、これを確認してください」
ミレイは迷いのない足取りで中央コンソールへ歩み寄ると、手にした記録素子を端末のスロットへ差し込んだ。
カチリ、と硬質な接続音が室内に響く。
「なっ……何を勝手に——」
幹部の声を遮るように、正面のメインスクリーンが一瞬で切り替わった。
映し出されたのは、スラム地下配管ピットの実測ログデータだった。
急激に跳ね上がる管内圧力の波形。
極低温下で急成長を遂げていた過冷却アイスプラグの体積変化。
そして——バイパス弁を強制閉鎖した場合の、熱力学および流体力学に基づく破壊シミュレーションの三次元モデル。
「これは……なんだ……?」
「現場で採取した、直前30分間の完全な実測データです」
ミレイの声は、凍てついた空気のように静かで、一切の抑揚を挟まなかった。
「貴方方が出した『下層バイパスの全面閉鎖』によって、管内には数百トン規模の氷塊と、逃げ場を失った水撃波が形成されていました。もしあのままバイパスを開放しなければ、どうなっていたか」
ミレイがコンソールを一度叩くと、スクリーンのシミュレーションが赤く明滅した。
水撃波が中央熱源プラントへと激突し、巨大なボイラー群が連鎖爆裂を起こす。
貴族街を含めた帝都中枢の熱導管がことごとく破断し、街全体が木っ端微塵に吹き飛ぶ予測図が展開された。
「……っ」
「熱力学の初歩すら無視した、都市自爆命令です。あのタイミングでバイパスが開放されていなければ、今頃この司令室ごと、全員が蒸気で吹き飛んでいました」
客観的な数値と波形が、スクリーンを埋め尽くしていた。
自らの愚行が帝都を破滅寸前まで追い込んでいたという動かぬ物理事実の前に、幹部の顔から急速に血の気が引いていく。
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「ば、馬鹿な……! そんな出鱈目なログなど信じるか!」
幹部は震える指先で机の縁を掴み、唾を飛ばしながら喚き散らした。
「捏造だ! 下っ端の小娘が、役員会の決定に口を挟むな! ——警備員! この女を引きずり出せ!」
真っ赤な顔で激高する幹部の怒声。
その時、司令室の扉が再び静かに開いた。
コツ、コツ、と硬質な靴音が、静寂に包まれた室内を渡っていく。
現れたのは、最高級のクロテンの毛皮外套を羽織った金髪碧眼の青年——ジュリアン・フォン・ローゼンバーグだった。
その背後には、黒いスーツ姿の私設法律顧問団、そして銀色の記章を佩用した帝国監察局の監査官と憲兵隊が整然と控えている。
「随分と威勢がいいな、副統括理事」
「ロ、ローゼンバーグ卿……!? な、なぜこのような場に……」
「君の拙劣極まる指示のせいで、当財閥が管轄する帝立中央大病院の生命維持熱源が危うく全停止するところだったからさ。……それだけではない」
ジュリアンが指先を軽く振ると、背後の法律顧問が一束の書類を幹部の前の卓上に叩きつけた。
そこには、貴族街に邸宅を構える有力貴族たちの署名と捺印が、びっしりと並んでいた。
「自邸の暖房配管の異常水撃に気づいた貴族連合からの、即時絶縁状と連名告発状だ。君が手柄をアピールしようとしていた相手から、最初に切り捨てられたわけだね」
「な……っ!? そ、そんな……!」
ジュリアンが指先を軽く上げると、背後の法律顧問が書類を開き、淡々と読み上げた。
「国家基幹インフラ破壊未遂、および虚偽報告。帝国監察局への正式告発は、先ほど受理されております」
ジュリアンは碧い眼を幹部に据えたまま、静かに告げた。
「……連れて行きなさい」
ジュリアンの淡々とした宣告に、憲兵隊が即座に踏み込んだ。
幹部の両腕が背後へと捻り上げられ、冷たい鋼鉄の手錠が嵌められる。
「ま、待ってくださいローゼンバーグ卿! 我が商会へのご融資はどうなるのです!? 父の代からの契約が——」
「ああ、君の実家商会が抱えていた全負債の債権は、10分前に当財閥がすべて買い取らせてもらったよ。担保に入っていた資産は、今この瞬間をもってすべて差し押さえだ」
ジュリアンは冷徹な眼差しのまま、静かに言葉を継いだ。
「行き先は、北方の永久凍土にある要塞牢獄だ。……聞いた話では、あそこの暖房設備は杜撰な管理のまま放置されているそうだよ」
「ひ、ぎゃああああっ! 離せ! 俺を誰だと思っている! 助けてくれぇぇぇっ!」
無様に喚き散らす幹部の身体が、憲兵たちによって引きずられていく。
重厚な扉が閉まり、見苦しい絶叫は廊下の向こうへと消え去った。
静まり返った司令室で、ジュリアンはミレイの方へと向き直った。
煤と泥に汚れながらも、背筋を真っ直ぐに伸ばして立つ若い技師を見つめ、大富豪は胸元に手を当てて深々と一礼した。
「現場を死守してくれた勇敢な技師に、心からの敬意を。君の実測ログがなければ、法的手続きを完了させる前に街が吹き飛んでいた。……感謝するよ、ミレイ技師」
「……私は、現場の責任者として当たり前の対処をしただけです」
ミレイもまた、乱れた作業着のまま背筋を正し、職人としての礼を返した。
その瞳には微塵の揺らぎもなく、冷涼な現場の空気の中で凛とした光が宿っていた。
法律顧問たちへ退出を促し、扉へ向かいかけたジュリアンが、ふと足を止めた。
すれ違いざま、背後の従者たちにも聞こえないよう、わずかに声を落とす。
「……ところで、ミレイ技師」
「はい?」
「あのスラムの足湯だが……この寒波が抜けたら、また湯加減を確かめに行ってもいいかい? もちろん、マイタオル持参で」
大富豪の整った顔に、少年のような悪戯っぽい光が差していた。
張り詰めていたミレイの頬が、ふっと柔らかく緩む。
「……ええ、いつでも。お湯は逃げませんから」
「それは頼もしい。……では、また」
ジュリアンは満足そうに小さく笑うと、外套を優雅に翻して司令室を後にした。
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翌朝、吹き荒れていた猛吹雪は完全に止んでいた。
灰色の雲の切れ間から、頼りない冬の陽光がスラムの路地に差し込んでいる。
配管ピットの地上出口脇。
ボロボロの作業着に身を包んだギルバートとブラッドリーが、冷たい外壁に背中を預けて座り込んでいた。
昨夜吹き飛んだ泥水は完全に乾き、二人の顔や服の上でバリバリとした茶色い泥殻となってこびりついている。
「……おい、ブラッドリー。見ろ、あれ」
ギルバートが泥まみれの指先で、ピット脇の掲示板を指差した。
貼り出されていたのは、公社が緊急発行した朝の壁新聞——号外だった。
『中央統括司令室の役員、国家インフラ破壊未遂の重罪で即日逮捕』
『ローゼンバーグ財閥の告発により、北方要塞牢獄への送致が決定』
大見出しの文字を追った瞬間、二人の濁った瞳にギラリとした光が蘇った。
「……おい。役員が全員しょっぴかれたぞ」
「……ということは、上のポストが空いたんじゃないか?」
二人は顔を見合わせた。
泥まみれの顔に、卑しい笑みがじわりと広がっていく。
昨夜の泥水ダイブなど、すっかりどこ吹く風だった。
「ギルバート……俺たちの出番だぞ」
「ふははは! 今に見てろよ——」
調子に乗って高笑いを上げかけた、その時だった。
ザッ、ザッ、と背後から雪を踏みしめる重い足音が近づいてきた。
ゴツンッ! ゴツンッ!
鈍く重い打撃音が二連発で響き渡った。
「ぎゃあああっ!?」
「痛ぇぇぇっ!?」
二人は同時に頭を抱え、雪の上に転がった。
見上げると、そこには分厚い防寒ヤッケを着込み、鉄製の角スコップを両手で構えた現場の親方が、仁王立ちで立っていた。
「朝っぱらからサボってクダ巻いてんじゃねえ! 誰が偉そうに公社の頂点に返り咲くだ、ああん!?」
親方の怒声が、スラムの路地に雷鳴のように轟いた。
角スコップの平らな鉄板が、朝日に鈍くぎらりと光る。
「てめえらにはまだ、底に溜まった泥水さらいのノルマが山ほど残ってんだよ! ほら、スコップ持て! 泥水汲め、泥水ーーッ!」
「ひ、ひいいいいっ!」
「す、すいません親方ァァ! 今すぐやります、今すぐ汲みますからぁぁ!」
二人は転がるようにスコップを拾い上げると、悲鳴を上げながら凍てつくピットの底へと飛び込んでいった。
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壁際の吸気スリットから、調律された微かな温風が静かに流れていた。
外の狂乱から完全に隔絶された地下要塞のリビングには、均一で柔らかな温熱が行き渡っている。
無垢材ローテーブルの魔導コタツ。
半纏を着込んだシュンは、天板の上にぺたりと顎を乗せ、完全に脱力して伸びていた。
「……ふぁあ……。極楽だ……もう絶対にコタツから出たくない……」
手元の小型端末には、帝都全体の配管圧力が完全な正常値を示しているグラフが緑色に小さく脈打っている。
昨夜の激しい打鍵による指先の強張りは、リリアが淹れてくれた温かい焙じ茶と丁寧なマッサージによって、すっかり解け落ちていた。
ピピッ、ピピッ。
その時、コンソールのランプが点滅し、軽やかな電子音が鳴った。
シュンが億劫そうに腕を伸ばし、通信受信レバーを倒す。
大スクリーンに、ジュリアンの整った顔が映し出された。
背景には高級ホテルのような私設研究室が見えるが、その表情は普段の冷静さを完全に失い、異様な熱気を帯びていた。
『シュン……! 聞こえているかい、シュン!』
「……はい、聞こえてますよ。ジュリアンさん、朝から随分元気ですね」
『元気どころの話ではないよ! シュン、あれほどの制御を寝転がったまま——いや、あれは芸術だ、あの波形の美しさときたら——』
画面の向こうで、大富豪の青年が身振手振りを交えながら熱狂的に賛辞をまくし立てる。
シュンは天板から顎を動かそうともせず、半分閉じた眠たげな目でスクリーンを見つめた。
「……外、寒そうですね」
『えっ? ああ、外気はまだ氷点下だが、それがどうしたんだい?』
「僕は今から眠いので切りますよ」
『待っ——』
カチリ。
シュンは一切の躊躇なく、強制切断スイッチを指先でパチンと弾いた。
画面は瞬時に真っ暗になり、リビングに再び完全な静寂が戻ってきた。
「……ふぅ。危ないところだった。長話に付き合わされたら風邪引くところだったよ」
「相変わらず、容赦のない切断ですね」
呆れたような声が、すぐ隣から落ちてきた。
コタツの布団をめくると、漆黒のスリットドレスをまとったシエラが、シュンの足元にしっかりと冷えた足先を潜り込ませていた。
「冷たい冷たい、シエラ、まだ放熱終わってないの?」
「私の内部コンデンサの完全冷却には、あと最低でも2時間を要します。文句を言わずに熱伝導媒体としての役割を果たしなさい」
シエラは琥珀色の瞳をそっぽへ向けつつ、シュンの脹脛に冷たい足先をさらに密着させた。
耳の後ろの排熱スリットから、シュッと微かな蒸気が抜けていく。
「ふふ、シュン様、よく眠れましたか〜?」
柔らかな足音とともに、リリアがふかふかの毛布を抱えて歩み寄ってきた。
エプロンドレスを揺らしながらコタツの脇に膝をつくと、肩までずり落ちていた半纏の上から、温かな毛布をふわりと優しく掛け直してくれる。
「リリアぁ……毛布あったかい……」
「ええ、スチーム棚でふかふかに温めておきましたからね〜。外はまだ寒いですから、ゆっくり休んでいてくださいね」
「うん……誰が何と言おうと、僕はもう一生ここから出ないよ……」
シュンは毛布の縁を鼻先まで引き上げると、深く長い息を吐き出した。
天板の均一な温もりと、足先に触れるひんやりとした感触。
吸気口から流れる柔らかな温風の気配に包まれながら、シュンはゆっくりと瞼を閉じた。
最後までお読みいただきありがとうございました!
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