第35話 着信拒否したいのに、コードが一行も進まない
机の脇に置かれた自作マルチテスターから、澄んだ高周波音が低く鳴り続けていた。
小型ディスプレイの抵抗値表示は、何度測り直しても『0.0000Ω』から微動だにしない。実体顕微鏡の接眼レンズから目を離し、シュンは唸るように小さく息を吐いた。
作業机の上に鎮座した銀色のリールから、どうしても視線を外すことができない。通常の加圧炉なら炉壁の熱膨張だけで外周部に偏析が出るはずなのに、第4層のアニール処理には歪みが一切なかった。
だが、そのすぐ横に置かれた端末の画面へ目を落とした瞬間、シュンは居心地悪そうに肩をすくめた。黒いエディタ画面には新規スクリプトの空の枠組みだけが表示され、点滅を繰り返すカーソルの横には一行のコードも書かれていない。
「……拒否フィルターの進捗、未だ0行。相変わらず、興味のある対象に対する自制心が皆無ですね」
背後から、氷のように淡々とした声が落ちてきた。
振り返ると、シエラが漆黒の軍用ドレスの腕を組み、琥珀色の瞳で端末の画面を見下ろしていた。
「ち、違うんだよシエラ。まずは敵の手の内を知るというか……この導線の物性を正確に把握しないと、どういう帯域で暗号パルスを乗せてきているか解析できないというか……」
「物性の測定と通信遮断に工学的な因果関係はありません。単なる現実逃避です」
「うっ……」
ぐうの音も出ない正論に、シュンは作業椅子の上で小さく縮こまった。
そこへ、工作室の引き戸が静かに開き、香ばしい湯気とともに甘い香りが漂ってきた。
「シュン様、珈琲が入りましたよ〜」
リリアがトレイを両手に乗せ、柔らかな足取りで入ってきた。厚手のマグカップを机の端にことりと置き、縮こまるシュンの背中にそっと手を添えて優しく撫でる。
「温かいうちにどうぞ〜。昨日届いたお豆、早速淹れてみましたよ〜。朝からずっと机に向かわれていて、とっても偉いですね〜」
手元のカップから、香ばしいナッツと果実のような芳醇な湯気が立ち上る。一口含むと、柔らかな苦味の奥から澄んだコクが広がった。悔しいが、文句のつけようがない味だった。
「リリア……ありがとう……」
「……甘やかすのは逆効果です。現実に、拒否フィルターの進捗は0行のままです」
「ふふ、でも珈琲を飲んだら、シュン様ならきっとすぐ終わらせてくださいますよ〜」
「……過大評価ですね」
シエラは淡々と視線を端末の画面へ戻した。
シュンがもう一口珈琲を啜ったその時だった。リビングの方角から、鋭く澄んだ単音の電子ベルが鳴り響いた。
メイン通信コンソールの着信音。壁面のインジケータが規則的な赤色の明滅を繰り返している。正午を告げる針と、完全に一致していた。
「……来た」
リビングへ移動すると、オシロスコープには昨日と同じフラクタル暗号波形が整然と描画されていた。
コンソールの脇に立ったシエラが、淡々と右手を伸ばした。
「シュン、強制切断スイッチは生きています。遮断シグナルを送出しますか」
「あ……待って、シエラ。……一回だけ。一回だけ確認したいことがあるんだ」
「自制心の欠如を再確認しました」
シエラのため息を背中に受けながら、シュンは受信レバーを押し下げた。
大型メインモニターが瞬時に立ち上がり、ノイズのないクリアな映像が投影される。
画面の向こうには、豪奢な私設書斎で金縁のティーカップを手にした金髪の美青年——ジュリアン・フォン・ローゼンバーグが満面の笑みを浮かべていた。
『やあ! 時間通りに出てくれて嬉しいよ、シュン! 昨日の導線、見てくれたかい?』
「……ローゼンバーグさん。そもそも僕の居場所を特定したこと自体、重大なプライバシーの侵害であり——」
『ジュリアンでいいよ、親友! それより、あのミスリル導線はどうだった? 第4層の分子配列の対称性、君の目から見てどう思うかい?』
画面越しに浴びせられる純粋な熱量に、シュンの喉が小さく鳴った。
「……どうやって、あの均一な温度プロファイルを維持したんですか。通常の加圧炉なら、炉壁の熱膨張だけで外周部に偏析が出るはずです。対流のムラだって殺せないはずなのに」
ジュリアンの表情が一変した。社交的な笑みが消え、極めて鋭敏な知性がその顔立ちを引き締める。
『……やっぱり君だ。一目でそこに行き着く人間なんて、帝国の最高学術院をすべて探してもいなかったよ』
ジュリアンが操作卓を叩くと、モニターの右半分に旧時代の解析データが展開された。円周上に並んだ12基の誘導コイルから延びる、複雑な電磁パルスのベクトル図。
『炉壁の膨張は逆位相フィールドで相殺さ。高圧アルゴンの分子運動を電磁トラップして、炉内の対流そのものを静止させているんだ』
「……対流を完全に静止……? いや、待ってください。アルゴンを静止させたら中心部からの熱伝導率が落ちて、徐冷ブロックで熱収縮クラックが入る」
『そこだよ! 普通は割れるんだ!』
ジュリアンが嬉しそうに画面を切り替えた。展開された徐冷グラフの傾きは、1秒あたり0.05℃。その横に、魔力波形と格子の固有共振が完全に重なった干渉パターンが表示されている。
「……格子共振で直接排熱……?」
シュンの指先が、膝の上で止まった。教科書の極論を、この青年は自作の制御盤で実際に安定化させている。画面に並ぶフィードバック定数の異常な精度に、息を呑んだ。
提示されるデータを食い入るように見つめ、シュンが疑問を投げかけるたび、ジュリアンは嬉々として次の測定ログを展開する。
抗議するはずだったことも、机のマグカップがすっかり冷め切っていることも、時計の針が午後2時を回っていることすら、シュンの意識からは完全に抜け落ちていた。
『あはは、やっぱり楽しいな! こんな話、僕の屋敷の技師長に振っても卒倒するだけだったからね! おっと、もうこんな時間か。午後からは少しスラムを散策してくるよ。親友の住む街の空気も吸ってみたいしね』
「ちょっ、スラムに……!? 来ないでくださいよ、目立ちすぎる……!」
『大丈夫、ただのお忍びさ。じゃあ、今夜また続きを話そう!』
ジュリアンは手を振ると、一方的に通信を切断した。
「……瞳孔が開いていますよ。完全に相手のペースです」
「ち、違うよ……! 僕はただ、工学的な誤謬を正してあげようとしただけで……!」
シュンは真っ赤になって反論したが、シエラは視線をコンソールの端末へ戻しただけだった。
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夕暮れ時のスラムは、冷たい川風が吹き抜け、底冷えのする空気に包まれていた。
廃線路の脇、白大理石の神殿投入口の横に設けられた足湯には、立ち上る白い湯気が夕日に透けて揺らめいている。
目立たないよう地味なウールの外套を選んで羽織ったジュリアンは、ズボンの裾をまくり、石組みの縁に腰掛けて湯に足を浸していた。
「……素晴らしいな」
ジュリアンは小さく呟き、足元の石組みを観察した。側溝を利用した流路設計の巧みさに息を呑んでいると、隣の踏み石が微かに軋んだ。
「……あなた、ただの物見遊山じゃないわね」
見上げると、白衣を羽織ったミレイが立っていた。乱れた黒髪に深い翡翠色の瞳。胸ポケットには帝国魔電公社の真鍮製技師バッジが留まり、手にはマイタオルと携帯端末を抱えている。
ミレイはジュリアンの隣に腰を下ろすと、慣れた所作で靴下を脱ぎ、湯に足を浸した。
「はぁぁ……。さっきから配管の継ぎ目ばかり見ているけれど。公社の監査員かしら?」
「いいや、通りすがりの愛好家だよ。君こそ、第3調律室の技師さんだね。端末の監視ログ、実に美しい」
ミレイの表情から警戒の色が抜け、わずかに口元が緩んだ。
「お貴族様かと思っていたけれど、随分と目が利くのね。……このお湯の熱交換、何度ログを追っても欠陥がひとつも見当たらないのよ。奇跡みたいに美しいわ」
ジュリアンは湯気を吸い込みながら、内心で深く納得した。
(誰にも悟られず、神の御業として受け取らせるか……。徹底した仕事ぶりだな、親友)
ジュリアンは口元に微かな笑みを浮かべ、それ以上、シュンの痕跡に触れる言葉を口にすることはなかった。
「素晴らしい街だね。神様が守りたくなる気持ちもよく分かるよ」
冷たい夕暮れの風の中、二人の優秀な技術者は静かに並んで湯面に波紋を広げていた。
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夜の帳が降り、ゼロ・ターミナルに静寂が戻った頃。通信コンソールのベルが再び鳴動した。
シュンがレバーを倒すと、定位置の書斎に戻ったジュリアンが現れた。
『やあシュン! 足湯を見てきたよ! 凍える街の底であの恒温制御——あれは計算ずくだろう? 君は職人であると同時に、聖者だ!』
「……は? あれはただの排熱処理ですよ。部屋がちょっと暑かったから、適当に側溝に流しただけで……」
『適当にあの精度が出るわけがないだろう! 謙虚すぎるよ、親友!』
シュンは深々と頭を抱え、痛む胃をさすった。
だが、ジュリアンはすぐに表情を引き締め、画面に新たな数式を広げた。
『さあ、本題に入ろう。昼間の続きだ!』
映し出されたのは、ミスリル導線を用いた多重フィードバック自律回路の安定限界数式だった。
『常温超電導体の複素インピーダンスを極座標系でマッピングしてみたんだ。魔力波動の虚数成分が完全に打ち消し合う特異点が見つかってね——』
シュンの視線が、画面に吸い寄せられた。胃の痛みも脱力も、一瞬で吹き飛ぶ。
「……これ、多重ループの帰還ゲインをあと0.05%絞れば、発振限界の手前で静止しますよ」
『僕もそこを弄ってみたんだが、応答速度が0.001秒だけ犠牲になる。君ならどう補正する?』
「微小容量の魔導コンデンサで、立ち上がりパルスだけ微分先行制御をかければいい。そうすれば応答遅延はゼロに収束します」
『——完璧だ! その手があったか!』
ジュリアンが机を叩いて立ち上がった。
そこからの時間は、文字通り溶けるように過ぎ去っていった。画面越しに飛び交う数式と回路図。公社では「難解すぎる」と突き返されていたはずの自律回路が、今は目の前のモニターで鮮やかに組み上がっていく。
悔しい。だが、コンソールを叩く指先は、次のパラメータを求めて止まらなかった。
気づけば、壁の時計の針は午前5時を指していた。
画面の向こうで、ジュリアンが手元のカップを空にし、朝の光のような笑みを浮かべた。
『……ふう。こんなに濃密な時間を過ごしたのは生まれて初めてだよ。シュン、君こそ僕の生涯の魂の親友だ!』
「親友じゃありません。……僕の貴重な睡眠時間を返してください」
『ははは! 照れなくていいよ! 回路定数は僕の方でクリーンアップしておくからね。——じゃあ、また連絡するよ、親友!』
ぷつり、と通信が切れた。
次の瞬間、シュンの両足から完全に力が抜けた。
「……つ、疲れたぁぁぁ……」
膝が折れ、そのまま革ソファーの足元へずるずると崩れ落ちる。
「頭部中枢の発熱量が危険域です。強制排熱します」
ソファーの背もたれから回り込んだシエラが、冷却モードを起動した冷たい掌をシュンのうなじと額へ押し当てた。
「ひゃ……っ、つめたい……!」
「動かないでください。……結局、拒否フィルターのコードは1文字も進んでいませんね。完全な時間の浪費です」
「うぅ……だって、回路が完成しそうだったから……」
小言を零しながらも、シエラの掌は離れない。そこへ、柔らかな足音が駆け寄ってきた。
「シュン様、お疲れ様でしたね〜」
駆け寄ってきたリリアが床に膝をつき、倒れ込んだシュンの頭をそっと膝の上へと抱き留めた。スプーンで温かいカモミールハーブティーを唇へ運ぶ。
「友達じゃないよぉ……あんな迷惑な大富豪……」
シュンはエプロンドレスの柔らかな温もりに顔を埋め、情けなく愚痴をこぼした。
リリアはふわりと目を細め、乱れたシュンの髪を優しく撫でる。
「ふふ、よく頑張られましたね〜。もう安心してお休みくださいね」
額に触れるシエラの指先はどこまでもひんやりとしていて、身体を包み込むリリアの体温は心地よく温かい。
(親友なんて絶対に認めないぞ……。次は絶対に回線を切ってやる……)
そう心の中で悪あがきを続けながらも、瞼の裏には、先ほどジュリアンと導き出した歪みゼロの正弦波が静かに明滅していた。
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