第34話 着信拒否したいのに、素材が魅力的すぎる
換気ファンの低い唸りと、ハーブティーの湯気が立ち昇る微かな音。
午後の光が存在しない地下要塞では、読書灯の柔らかな琥珀色だけが時間の目安になる。シュンは革張りソファーの肘掛けに頬杖をつき、片手に開いた専門書のページを繰っていた。
ラベンダーの香りが漂うリビングは、いつもと同じ静けさに満ちている。
サーバーラックの青いインジケータが規則正しく明滅し、壁面の本棚では背表紙の金箔が読書灯を反射して鈍く光る。
厨房の方から、リリアが食器を片付ける磁器の触れ合う軽やかな音が聞こえてきた。定位置の椅子では、シエラが腕を組んだまま瞼を薄く開けている。パッシブ監視モードの視覚センサーが、システムログを淡々と走査している証拠だった。
——ピピピピピピッ。
鋭い電子音が、読書灯の下の静寂を切り裂いた。
シュンの指が、ページの上で止まる。
リビングの奥、普段は沈黙を守っているメイン通信コンソールの赤色インジケータが、激しく点滅していた。
(……何だ?)
あのインジケータが光るのを見たのは、ゼロ・ターミナルに移住してから一度もない。公社の通信パケットは外部電信フィルターが無音で破棄しているし、ミレイのような「神頼みダイレクト配送」は物資受取シュートであって通信回線ではない。
シュンがソファーから腰を浮かせた時には、シエラが既にコンソールの前に立っていた。
「外部接続要求。公社ドメインフィルターを迂回しています。発信元——私設暗号回線。帝国公社網の外です」
シエラの琥珀色の瞳が、コンソール上部のオシロスコープへ向けられた。画面に描き出されている波形は、公社の矩形波とは根本的に異なる——幾何学的なフラクタル暗号パターンが、高速で自己増殖するように描画されていく。
シュンの喉がゴクリと鳴った。
公社の通信を弾くフィルターは完璧に機能している。つまりこれは、公社の外側から、ゼロ・ターミナルの専用ポートに直接接続を試みている何者かがいるということだった。
「……シエラ、送信元を隔離して。防衛プロトコル起動」
「既に実行済みです。逆探知スレッドを並走させます。——回線を中継展開しますか」
シュンは唇を引き結んだ。遮断するのは簡単だが、相手がどこの誰で、どうやってこの回線を見つけたのかを知らなければ、また同じことが起きる。
「……メインモニターに中継して。隔離状態で、相手の通信だけ受けて」
シエラの指先がコンソールに触れた。
---
メインモニターの画面が明転した瞬間、シュンは自分の目を疑った。
映し出されていたのは、天井の高い豪奢な私設サロン。壁面には油彩の肖像画が並び、背景に磨き上げられたグランドピアノの黒い曲線が覗いている。
画面の中央に、一人の青年が座っていた。
仕立てのいい白いシャツに、ゆるく結ばれたアスコットタイ。金色の髪が柔らかく額にかかり、碧い瞳が画面の向こうからまっすぐにこちらを見つめている。白磁のティーカップを片手に、満面の笑みを浮かべていた。
「やあ! 初めまして!」
画面の中の青年が、空いた手を大きく振った。
「僕はジュリアン・フォン・ローゼンバーグ。君の調律があまりにも美しくて——特定するのに、僕の持てる全ての解析機材を使って、まるまる数週間もかかってしまったよ!」
ティーカップをソーサーに置き、青年は身を乗り出した。碧い瞳が、少年のように輝いている。
「感動した。本当に感動した。だからどうしても、一度だけ君と話がしてみたかったんだ」
シュンの背筋を、冷たいものが駆け下りた。
(ローゼンバーグ——? 帝都の、あの財閥の——?)
名前は知っている。帝国の基幹産業の三割を握り、鉱山利権から特許収入まで、国家予算に匹敵する規模の資産を運用する超巨大財閥。その跡取り息子が、なぜ——
「——っ」
シュンはソファーの背もたれを掴み損ねてよろめいた。
「シエラ、防爆扉二重ロック! 回線切っ——」
シエラの指先が、迷わず切断キーへと伸びる。
コンソールから強制遮断シグナルが送出された瞬間、画面の向こうのジュリアンが目を見開き、慌てて両手を振った。
「待って待って待って! 切らないで!」
ティーカップがソーサーの上でカタカタと揺れる。
「誰かにバラす気はゼロだよ! 利用する気も、脅す気もまったくない! 僕はただ——」
ジュリアンは一度深呼吸をして、姿勢を正した。
「僕はね、地上で噂になっていた奇跡の配管浄化や停電復旧を聞いて、最初は三流技師の偶然か迷信だろうと思ったんだ。僕の頭脳なら半日で解明できるってね」
碧い瞳が、悔しそうに、それでいて嬉しそうに細められた。
「ところが——完全な正弦波。熱収支ゼロ。0.01秒の親切ディレイ。どれだけ洗っても、痕跡が美しすぎて何も見つからない」
ジュリアンの声が、静かな熱を帯びていく。
「僕は生まれて初めて、全力を出しても答えにたどり着けなかった。私設の光回線と解析機材を総動員して、何万通りもの微弱なパケット遅延の交差点をしらみつぶしに追いかけて——ようやく、旧第0駅という座標にたどり着いたんだ」
画面の向こうで、ジュリアンの唇が柔らかく綻んだ。
「これを作り上げた人は、僕が今まで出会ったどんな碩学よりも遥かに高い場所にいる。——だから、どうしても話がしたかった。それだけだよ」
シュンの指先が、ソファーの革を強く握りしめていた。
隣のシエラが、視覚センサーをコンソールの逆探知ログへ向けたまま、小さく首を振る。
「……現時点で、敵性反応ゼロ。公社への情報転送痕跡もゼロ」
シエラの声は、いつも通り平坦だった。
「それから」
画面の中のジュリアンが、思い出したように手を打った。
「勝手に回線を繋いでしまったお詫びに——君の街の、あの白い投入口にちょっとした贈り物を入れておいたよ。もう届いている頃だと思うけど」
その瞬間——リビング脇の自動仕分けコンベアが、がたん、と音を立てて動き出した。
---
重量センサーが検知した荷物を、ゴムベルトが低い唸りとともに搬送していく。
受取トレイに、重い何かが落ちる鈍い音。続いて、もう一つ。
シュンはメインモニターとトレイの間で視線を往復させた後、恐る恐るトレイに歩み寄った。
一つ目は、重厚な樫材の木箱だった。蓋に焼印で「RAUSCHENBERG PRIVATE ARCHIVE」の文字が押されている。留め金を外して蓋を持ち上げると、緩衝材の中から鈍い銀色の光沢が覗いた。
大口径のリールに丁寧に巻かれた、太い導線。
シュンの手が、止まった。
導線の表面に、虹色の干渉縞が走っている。光の角度を変えるたびに、微細な魔力の波紋が銀色の金属面を這うように揺らめく。
ミスリル。
それも、現代の精錬技術では再現不可能な旧時代のロストテクノロジー——常温超電導を可能にする、超高純度の結晶構造体。
シュンの指先が、導線の表面にそっと触れた。
ひんやりとした金属の手触りの奥に、結晶格子の完璧な整列を示す微かな共振が伝わってくる。歪みが、ない。第4層のアニール処理が、分子レベルで完全に均一化されている。
二つ目は、ずしりと重い麻袋だった。口を開けると、深煎り珈琲豆の濃厚な芳香が鼻腔を突いた。袋の横に貼られた札には「特級焙煎 100kg」と達筆で記されている。
「気に入ってくれたかい?」
メインモニターの向こうで、ジュリアンが嬉しそうに微笑んでいた。
「ミスリル導線は僕の私設アーカイブに保管してあった旧時代のデッドストックで、珈琲豆は最近噂の『幻の神自販機』に触発されて取り寄せた最高峰の焙煎所のものだよ。——あっ、今日はご挨拶だけにしておくね。また明日連絡するよ、親友!」
シュンが口を開く前に、画面はぷつりと暗転した。
通信終了を示す短いビープ音が鳴り、メインモニターに「LINK CLOSED」の文字が浮かぶ。
リビングに、静寂が戻った。
シュンはミスリル導線のリールを両手で抱えたまま、しばらくモニターの暗い画面を見つめていた。それから、ゆっくりと膝から力が抜けた。
「——し、親友って言った……? あの人、勝手に親友って……」
リールを床に置く余裕もなく、シュンはそのまま床にへたり込んだ。ソファーの脇に座っていたシエラの膝に、額を押し当てる。
冷たい。
シエラの軍用ドレス越しに、ひんやりとした金属骨格の温度が額に伝わってきて、沸騰しそうだった頭がほんの少しだけ冷える。
「……逆探知完了。発信元はスカイ・ハイ最上層、ローゼンバーグ本邸の私設通信塔。暗号強度は帝国軍の特級機密通信と同等——個人でこの設備を保有しているということ自体が異常ですが」
シエラは腕を組んだまま、シュンの頭の上を見下ろしていた。
「敵意、監視スレッド、公社への情報漏洩痕跡、いずれもゼロ。発信者はローゼンバーグ財閥の跡取り息子。暇を持て余した大富豪が、知的好奇心だけで数週間かけて旧第0駅を特定した——害はありませんが、極めて迷惑な個体ですね」
「迷惑どころじゃないよぉ……僕の完璧なステルスを破られたんだよ……? 誰にも見つからないはずだったのに……」
シュンはシエラの膝に額を擦りつけながら、情けない声を絞り出した。
厨房の方から、柔らかな足音が近づいてきた。
「シュン様、大丈夫ですか? お顔が真っ白ですよ……」
リリアがトレイを手にしゃがみ込み、湯気の立つミルクティーのカップをシュンの手の届くところへそっと置いた。それから、背中に両手をそっと回して、温かな掌で肩甲骨のあたりをゆっくりと撫でる。
石鹸と花の甘い香りが、シュンの鼻先をくすぐった。
「通信の方、とても楽しそうにお話しされていましたね〜。悪い方ではなさそうです。シュン様にお友達ができるかもしれませんよ」
「友達じゃない……! 絶対に着信拒否フィルターを書き換えて、あの回線ごとブロックしてやる……!」
シュンはシエラの膝から顔を上げ、床に置かれたミスリル導線のリールに手を伸ばした。
——指先が、再び銀色の表面に触れる。
虹色の干渉縞が、読書灯の光を受けてゆらりと揺れた。シュンの指が、導線の断面をゆっくりと撫でる。結晶格子の整列が示す微振動が、爪先から手首まで伝わってくる。
(……この第4層のアニール処理。歪みが完全にゼロだ。現代の加圧炉じゃこの均一性は出せない。どんな温度プロファイルで、どんな雰囲気ガスを使えば、こんな——)
「……シュン」
シエラの声に、シュンはびくりと肩を跳ねさせた。
「着信拒否フィルターを書き換えるのではなかったのですか」
「か、書き換えるよ! 書き換えるけど……! でもこの導線の結晶構造だけは……ちょっと……」
シュンは導線のリールを両手で抱え直し、光に透かすように持ち上げた。干渉縞の揺らめきが瞳に映り込み、その目がほんの一瞬、工作室へ駆け出す直前の技術者の色に変わる。
「ふふ」
リリアが、小さく笑った。
温かい掌がシュンの後頭部にそっと触れ、くしゃりと髪を撫でる。
シエラは腕を組んだまま、ミスリル導線に吸い寄せられているシュンの横顔を見下ろした。琥珀色の視覚センサーが、コンソールの通信ログと——床に座り込んだまま導線を撫でている男の間を、一度だけ往復する。
それから、ほんの僅かに息をつくような排気音を漏らし、視線を逸らした。
リビングに、換気ファンの低い唸りが戻ってくる。
ミルクティーの湯気が、読書灯の琥珀色の光の中をゆっくりと昇っていった。
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