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第32話 戦乙女様への小さな贈り物

 静かに回る換気ファンの微かな風切り音と、革張りのソファーに染みついた古いオイルの匂い。

 薄暗いリビングの天井には、柔らかな疑似星空の光が淡く瞬いていた。


 シュンは革ソファーの上に突っ伏したまま、腕も足も伸ばしきって微動だにできずにいた。

 昨日の無謀なスクワットの代償は凄まじく、大腿四頭筋から背筋、腹筋に至るまで、全身の筋繊維が軋むような熱を帯びている。

 深く息を吸い込もうとするだけで、脇腹の筋肉がピキピキと引き攣った。


「……指一本……動かない……」


 ソファーのクッションに顔を埋めたまま情けない声を漏らすシュンへ、規則正しい乾いた足音が近づいてきた。

 冷水で絞られた厚手の麻タオルをトレイに乗せ、シエラが音もなく傍らに立つ。


「急激な過負荷による筋繊維の微小損傷、および炎症反応です。安静を保ち、患部を局所冷却しなさい」


 シエラは白磁の指先でタオルの端をつまむと、シュンの太ももの裏側と首筋へ、迷いなく正確に押し当てた。


「ひゃっ……!? つ、冷たっ……!」


「暴れないでください。毛細血管を収縮させています。文句があるならご自身で立ち上がり、大浴場へ向かうことです」


「無理……僕の身体、完全にソファーの革と一体化してるから……」


「自己管理能力の欠如を家具のせいにするのは感心しませんね」


 淡々と言い放ちながらも、シエラはタオルの位置を微調整し、熱を持った首筋を冷たい手のひらでそっと押さえた。


「ふふ、シュン様、筋肉の疲労回復に良いハーブティーを淹れましたよ〜」


 厨房から戻ってきたリリアが、湯気を立てる白い陶器のマグカップをサイドテーブルへ置いた。

 レモングラスの爽やかな香りと、カモミールの甘い芳香がふわりと広がる。


「少しだけお体を起こせますか?」


 リリアはソファーの端に腰を下ろすと、シュンの肩と背中を柔らかく抱き上げるようにして支えた。

 背中に伝わるふっくらとした温もりと石鹸の香りに包まれながら、シュンは差し出されたカップの縁へと口を寄せる。

 温かいハーブの滋味が、強張っていた喉と胃袋を優しく解きほぐしていった。


「ん……生き返る……」


「よく頑張りましたね〜。今日はお仕事も運動もお休みして、ここでゆっくり甘えていてくださいね」


 リリアは優しげな菫色の瞳を細め、シュンの跳ねた前髪を指先でそっと梳いた。


---


 リビングの隅、壁面に埋め込まれた物資受取シュートのコンベアが、低く澄んだ駆動音を立てて滑らかに回転を始めた。


「ん……? コンベアが動いた……。こんな時間に誰か何か入れたのかな?」


 首筋に冷製タオルを当てられたまま、シュンが受取口の方へと視線を向ける。


「受取シュートの重量センサーが反応しました。……搬入物の自動仕分けを実行します」


 シエラがトレイから手を離し、受取口へと歩み寄った。

 真鍮の受取トレイへ滑り込んできたのは、いつもの豪勢な食材の木箱でも、公社から流れてくる分厚い技術帳票でもなかった。


 手のひらに乗るほどの小さな木箱と、粗末な麻紐で結ばれた薄い包み紙。


「外装スキャン完了。魔力反応、毒性、引火性物質、すべて検出限界以下。……総重量百八十グラム。極めて小規模な手荷物です」


 シエラが紐を解き、包みを開く。

 中から現れたのは、小刀で不器用に削り出された手のひらサイズの木彫り人形と、手縫いの拙い刺繍が施された細い布リボンだった。

 そして、小さく四つ折りにされた一枚の紙。


 シエラの手から紙を受け取ったシュンが、ゆっくりとそれを広げた。


「これ……手紙だ」


 拙い筆跡で、赤と黒のインクを使って一生懸命に書かれた文字。


『いくさおとめさまへ いつもたすけてくれてありがとう』


「いくさおとめさま……? 地下の神様のことかな……?」


 シュンが眉を寄せて首を傾げると、横から覗き込んだリリアが小さく声を上げた。


「あら……シュン様、手紙の裏のクレヨン画を見てくださいな」


 紙を裏返すと、色とりどりのクレヨンで描かれた一枚の人物画があった。

 銀色に塗られた短い髪。

 機能的な漆黒のドレス。

 そして、琥珀色の瞳をした、キリリと前を見据える凛々しい女性の姿。


「あれ……? 銀色の短い髪に、黒いドレス……それにこのキリッとした目元……これってどう見てもシエラに見えない?」


 シエラの手指が、ピタリと静止した。

 琥珀色の瞳の奥で微小なレンズの駆動音が途切れ、視覚センサーの走査ログが一瞬だけ空白を描く。


「……無意味な偶像崇拝です。私はシュンの専属護衛機であり、このような愛玩物は機能的に不要です」


 シエラは一切の抑揚を排した声で告げると、木彫りの人形とリボンを木箱の中へと戻し、パタンと蓋を閉めた。


---


 薄暗い朝霧が漂う地上、スラム街の廃線路。

 石畳の隙間からは、絶え間なく清らかな温水が流れ、心地よい湯気が路地一帯を白く包み込んでいた。


 錆びた鉄パイプや打ち捨てられた木箱が並ぶ広場で、泥だらけの服を着た子供たちが、木切れを手に元気よく走り回っている。


「いくさおとめブレード! シャキーン!」


「やられたー! 神様の街を荒らす悪党は退治だー!」


 ぼろ布をマントのように翻し、無邪気な笑い声を上げる子供たち。

 その足元を抜け、白大理石と真鍮で改装された物資投入口の前へと進み出る小さな女の子の姿があった。


 女の子は、手作りの腕章を巻いた自警団の青年に抱き上げられながら、小さな包みを真鍮のトレイへとそっと置いた。


 数日前の深夜、細い裏路地。

 唸り声を上げる三匹の野犬に追い詰められ、石壁に背中を押し当てて泣きじゃくっていた女の子。

 剥き出しの牙が届く寸前、頭上から鋭い風切り音が落ちてきた。


 漆黒のドレスの裾が翻り、青白い閃光が弾け飛ぶ。

 高圧パルスの乾いた破裂音とともに野犬たちが悲鳴を上げて逃げ散り、静まり返った暗闇に、白銀の短い髪が夜風に揺れていた。


 腰を抜かして見上げる女の子の前で、その女性は一切の表情を変えず、冷たい指先で少女の乱れた前髪をそっと払った。


「……夜間の単独行動は保安上、推奨されません。速やかに帰宅しなさい」


 淡々とした声だけを残し、黒い影は建物の屋根へと音もなく跳躍して消え去った。


 また、広場で木切れを振るう少年たちも覚えていた。

 老朽化した木製階段の支柱がバキリと音を立てて折れ、頭上から巨大な梁が落ちてきた夕暮れ。

 突風のように割り込んできた黒い影が、数百キロの木材を片手で軽々と受け止めた。


 軋む梁を支えながら、女性は子供たちの背中を押して安全な地面へと逃がした。


「……構造材の疲労破断です。危険領域から即座に退避しなさい」


 冷涼な琥珀色の瞳で見下ろし、全員の脱出を見届けると、音もなく霧の向こうへと消え去っていった。


「届くといいね」


 青年が優しく頭を撫でると、女の子は嬉しそうに頷き、湯気の立ち上る足湯の方へと駆け出していった。


---


 午後。ハーブティーと適度な休息により、ようやく足腰の激痛が引いてきたシュンは、水分補給のためにゆっくりと廊下を歩いていた。


 工作室や大浴場へと続く薄暗い通路。

 その途中にあるシエラの待機室の前を通りかかった時、普段は完全に閉じられているはずのスライド扉が、わずかに数センチだけ開いているのが目に留まった。


「シエラ……? いるのかい?」


 隙間からそっと視線を向けたシュンは、思わず足を止め、目を丸くした。


 無骨な予備基板や銀ろうの束、精密工具が整然と並ぶ充電ポッドの棚。

 その最上段、天井からの照明が最も美しく当たる特等席に、柔らかな白布が敷かれていた。


 布の上には、先ほどの小さな木彫り人形と手縫いの刺繍リボンが、傷ひとつ付かないよう丁寧に整頓されて置かれている。

 そしてその背後には、皺ひとつなく綺麗に伸ばされたクレヨン画が、誇らしげに立てかけられていた。


「あ……」


 シュンが小さく声を漏らした瞬間、充電ポッドの前に立っていたシエラが、弾かれたようにバッと勢いよく振り返った。


「シエラ……さっきの贈り物、ちゃんと飾って——」


「——ッ!?」


 シエラの左右の耳元にある排熱スリットが、パチリと音を立てて全開になった。

 シューッと微かな高圧蒸気が吹き出し、白磁の頬から首筋、耳の先端に至るまで、一瞬にして鮮やかな朱色が広がっていく。


「……センサーの視界に入らない位置へ即座に移動しなさい! そのような無駄口を叩く余力があるなら、体幹ストレッチを再開させますよ、シュン!」


「わっ、ごめん! 見なかったことにするから、ストレッチだけは本当に勘弁してぇ!」


 早口で捲し立てるシエラの剣幕に慌てて手を振り、シュンは情けなく足をプルプルさせながらリビングへと逃げ戻った。


 リビングでは、リリアが焼きたてのバタークッキーと、丁寧にドリップされた深煎り珈琲をテーブルへ並べていた。


「ふふ、シエラちゃんのお部屋、きっとあの贈り物がぴったりですね〜」


 クスクスと楽しそうに笑うリリアの横で、シュンはソファーに深く腰を下ろし、湯気立つ珈琲カップを手に取った。


 立ち上る香ばしいアロマを吸い込み、漆黒の液体を口に含む。

 奥深い苦味と澄んだ酸味が、口の中いっぱいに滑らかに広がっていく。


「……やっぱり美味しいな。でも、これって僕以外の人が飲んでも、本当に同じように美味しいと感じるのかな?」


 シュンは湯気立つカップを見つめながら、静かに呟いた。


最後までお読みいただきありがとうございました!


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次回も明日【18:00】に更新予定です!

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