第31話 働かないと太るのは、あるあるですか?
檜の香る大浴場から上がったシュンは、薄手の部屋着の裾を整えながら、リビングへと足を踏み入れた。
肌を撫でる空気は心地よい温度に保たれ、微かにラベンダーの芳香が漂っている。
革張りのソファーへ向かって歩き出したその時、背後から音もなく伸びてきた柔らかな腕が、シュンの腰回りを優しく包み込んだ。
背中にふわりと押し当てられる温もりと、石鹸と花の甘い香り。
シュンは息を呑み、心臓を跳ねさせながらその場に立ち尽くした。
「り、リリア……!?」
身体を硬直させたまま声を漏らすシュンに対し、リリアは優しげな菫色の瞳を細め、穏やかな笑みを浮かべた。
そして、抱きしめた腕の先にある掌で、シュンの下腹部をふんわりと優しく撫で、指先で小さくつまんだ。
「あらあらすてき……シュン様、最近お腹が少しふんわりして、柔らかくてとっても可愛らしいですね〜」
シュンの思考が、完全に停止した。
先ほど脱衣所の真鍮製体重計に乗った際、社畜時代には見たこともない位置まで右に傾いていた指針の映像が、脳裏を猛スピードで駆け巡る。
「えっ……僕、太った……!? 自堕落に甘えすぎて身体がたるんでる!?」
シュンは慌ててリリアの腕から身をよじって離れると、リビングの鏡の前へと駆け寄り、自分の腹回りの布地を摘まみ上げた。
確かに、連日徹夜で油と煤にまみれて痩せ細っていた頃の硬さはどこにもなく、指先には柔らかく瑞々しい肉の感触が残る。
「シエラ! 僕に軍用トレーニングを教えてくれ! 腹筋をバキバキに割る!」
コンソールの脇で待機していたシエラが、琥珀色の瞳をすっと細め、シュンの身体を頭から爪先まで冷ややかに走査した。
「……デスクワーク専業の軟弱な骨格筋で、軍用メニューなど笑止千万です。まずは自重トレーニングから始めなさい。腕立て伏せ5回、スクワット10回です」
「よし、それなら僕にだってできる!」
シュンはリビングの中央に敷かれた厚手の絨毯の上へと進み出た。
両足を肩幅に開き、息を吸いながら腰を落としていく。
1回。太ももの筋肉が小さく張る。
2回。膝の関節から微かな軋みを感じる。
そして、3回目の屈伸に入った瞬間だった。
——ピキッ。
大腿四頭筋の奥で激痛が走り、膝関節が小刻みに激しく震え始めた。
「あっ……あれ……!? 足が……言うことを聞か……」
4回目のしゃがみ込みに入ろうとした瞬間、足腰から完全に力が抜けた。
シュンは生まれたての子鹿のように足をプルプルと震わせながら、絨毯の上へと無様に崩れ落ちた。
---
「シエラぁ……もう無理……足が千切れる……」
床に突っ伏したまま、シュンは両手で這いずるようにして、近くの椅子に腰掛けていたシエラの冷涼な太ももにしがみついた。
「……予想通りの体たらくですね。乳酸の蓄積による急性筋疲労です」
シエラは小さく息を吐き出すと、そのまま手元の端末へと視線を落とした。
「シュン様、特製のプロテインをお持ちしましたよ〜」
厨房から戻ってきたリリアが、ガラスのトールグラスを差し出した。
グラスの中身は柔らかなクリーム色で、甘い果実と蜂蜜の香りがふわりと立ち上っている。
床に転がったまま動けないシュンの口元へ、リリアが優しくストローを運ぶ。
シュンが力なく吸い込むと、バナナの濃厚な甘みとミルクのまろやかさが、乾いた喉を滑らかに潤していった。
「ん……美味しい……」
「ふふ、よく頑張りましたね〜」
リリアは柔らかい布でシュンの口元をそっと拭い、汗の滲んだ額を優しく撫でた。
「では、筋肉痛予防の冷却および筋膜リリースを行います。……動かないでください」
シエラが冷たい指先を伸ばし、シュンのふくらはぎの張った筋肉へ、正確に圧迫をかけた。
「ひぎゃっ……!? 痛い痛い! シエラ、そこ痛いってぇ!」
「力を抜きなさい。筋肉が強張っていると深部まで冷却が届きません」
「抜けない! 無理! 指がめり込んでる……!」
シエラの冷たい指先から流し込まれる微弱な冷却パルスと、容赦のない指圧に、シュンはソファーの脚を掴みながら悶絶の声を上げた。
---
夕暮れの薄暗がりが広がる地上、帝国魔電公社の第3調律室。
端末のモニタに並ぶ配管網の流路波形をすべて確認し終えたミレイは、静かに打鍵を止めた。
表示されている数値は、すべて理想的な許容誤差の範囲内に収まっている。
ミレイは首元まで上げていた作業着のジッパーを少し下げ、乱れた黒髪を手櫛で整えると、個人ロッカーから一枚のマイタオルを取り出した。
調律室の鍵を閉め、公社の中央棟を後にする。
夕暮れの街路灯が灯り始めた石畳を抜け、薄暗い階段を下りてスラムの廃線路へと足を踏み入れる。
白大理石と真鍮で改装された物資投入口の脇から、心地よい湯気が立ち上っていた。
石造りの縁に腰を下ろし、作業靴と靴下を脱いで素足を湯の中へと沈める。
「……ふぅ」
じんわりと染み渡る温もりに、ミレイの口から小さく息が漏れた。
張り詰めていた肩の力が、ゆっくりと抜けていく。
「あ、お湯のお姉ちゃんだ!」
湯気の向こうから、スラムの小さな女の子が小走りで駆け寄ってきた。
その後ろからは、手作りの腕章を巻いた自警団の老人が、穏やかな笑顔で歩み寄ってくる。
「お姉ちゃん、今日も遅くまでお仕事だったの? これ、みんなで焼いたお芋!」
「……ありがとう」
差し出された新聞紙包みを受け取ると、香ばしい焼き芋の温かさが掌に伝わってきた。
ミレイは焼き芋を一口齧り、翡翠色の瞳を細めて、湯気の向こうに広がる夕焼け空を静かに見上げた。
---
地下要塞のリビングでは、マッサージを終えたシュンが、革張りソファーの奥深くへと沈み込んでいた。
筋肉痛の気だるさと、冷やされた太ももの心地よい痺れ、そしてプロテインの満腹感に包まれ、指一本動かす気力も残っていない。
「……やっぱり、筋トレなんて僕には無理だったんだ。もう二度とやらない……」
シュンが力なく呟くと、隣に腰掛けていたシエラが、手元の小型端末に表示された運動ログを閉じながら視線を向けた。
「……予測の範囲内です。明日からはベッドの上で行える低負荷メニューに切り替えます。拒否権はありません」
「えっ……明日もやるの……!?」
情けなく顔を引きつらせるシュンに対し、リリアがふわりと微笑みながら、温かい羽毛の毛布を肩までそっと掛けた。
「ふふ、無理のない範囲で少しずつやっていきましょうね〜」
毛布の温もりに包まれ、シュンは深いため息をつきながらソファーに身を預けた。
静まり返った部屋の隅で、物資受取シュートのコンベアが、微かに低い回転音を立てていた。
最後までお読みいただきありがとうございました!
本日より【第3章:帝都を救う在宅リモートワーク編】がスタートです!
もう二度と働きたくない元社畜技師シュンの、さらなる怠惰で甘々なお色気日常(と、ちょっとモチモチになったお腹)をお届けします。
「続きも楽しみ!」「面白かった!」と思っていただけましたら、広告下部の【ブックマークに追加】や【ポイント評価(★)】で応援していただけますと幸いです!
次回も明日【18:00】に更新予定です!




