第3話 深煎り珈琲と焼きたてパン、完璧な寄生生活
耳の奥の暗闇で、何かが甲高く鳴り響いていた。
遠くの金属音――違う。あれは、かつて枕元で執拗に鳴り響いていた電信端末の着信音だ。ギルバートからの緊急呼び出し、今すぐ第3調律室に来い、お前以外に誰がやれるんだという怒声が、夢の底から津波のように這い上がってくる。
シュンは喉を詰まらせて跳ね起きた。
心臓がばくばくと早鐘を打ち、背中に冷たい汗がじっとりと滲んでいる。暗がりの中で目を見開いたまま、数秒間、自分がどこにいるのか分からなかった。
視界がゆっくりと焦点を結ぶ。
天井。見慣れた天井だ。低く、無骨なコンクリートの天井。その一角に嵌め込まれた細長い照明スリットから、淡い暖色の光が柔らかく滲み出している。リリアの環境制御結界が作り出す疑似朝光。地下深くのこの場所に朝日は届かないが、この光だけは毎朝、決まった時刻にゆっくりと明度を上げて彼を起こしてくれる。
シュンは布団の中で脱力した。
(……夢、か)
天井を見上げたまま、ゆっくりと息を吐く。心臓の鼓動が徐々に落ち着いていく。鳴っていない。何も鳴っていない。電信端末の着信音も、調律室の変圧器の唸りも、ギルバートの怒声も、ここには存在しない。
そのかわりに聞こえてくるのは、どこか遠くで冷却ファンが回る低い囁きと、その向こうから漂ってくる、香ばしい匂い。
深煎りの珈琲だ。
それも、安物の公社カフェテリアの、何時間も煮詰まった泥水みたいな代物ではない。挽きたての豆の油脂が弾ける、あの鼻腔の奥をくすぐるような芳醇な香り。それに混じって、バターと小麦粉が焼ける甘い匂い。
シュンは羽毛布団を頭まで引っ張り上げ、その中でもぞもぞと手足を目一杯伸ばした。爪先がシーツの冷たい領域に触れ、指先が枕の反対側の柔らかい窪みに沈む。体のどこにも、力を入れる必要がない。
(……今日は、何もしなくていい日だ)
その事実を噛みしめるように、もう一度、深く息を吐いた。
何もしなくていい。誰にも会わなくていい。急がなくていい。
布団の隙間から鼻だけを出して珈琲の匂いを吸い込んでいると、スリッパの柔らかい足音が近づいてきた。
「シュン様〜、おはようございます」
ベッドルームの入口から、リリアの声が花びらのように降ってくる。
「朝食のご用意ができましたよ〜。今朝はシュン様のお好きな深煎りを、いつもより少しだけ細かく挽いてみました。それと、クロワッサンが焼き上がりましたので、温かいうちにどうぞ〜」
シュンは布団の中から片手だけを出し、ひらひらと振った。
「……ん……リリア……あと5分……」
「ふふ、5分ですね〜。ではその間に、バターをもうひと塗りしておきますね」
スリッパの足音が遠ざかっていく。
シュンは結局、5分どころか15分ほど布団の中でごろごろしてから、パジャマのままリビングへと足を引きずった。
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キッチンカウンターの向こうで、リリアが白いエプロンドレスの裾を揺らしながら、銅色のケトルからカップへ湯を注いでいた。ドリッパーを通過する深煎りの珈琲液が、ぽたぽたと規則正しい音を立ててカップに落ちていく。その一滴一滴から立ち上る湯気が、キッチンの温かい空気の中でゆらゆらと揺れている。
「どうぞ、シュン様」
リリアが両手でカップを差し出す。菫色の瞳が細められ、淡い金髪がふわりと肩の上で揺れた。
シュンはカップを受け取り、革張りソファーに深く沈み込んだ。まず鼻を近づけて、湯気を吸い込む。ほろ苦い香りの奥に、かすかにチョコレートのようなコクが混じっている。一口含むと、舌の上で柔らかな苦味がゆっくりと広がり、喉を通る頃には丸みを帯びた甘さに変わった。
(……平日の朝に、急がずに飲む珈琲って、こんなに味がするものだったのか)
公社に勤めていた頃は、珈琲は「眠気を覚ますための液体燃料」でしかなかった。紙コップに注がれた薄い黒い液体を、立ったまま流し込む。味など覚えていない。始業のベルが鳴る前に喉に流し込めれば、それでよかった。
今、手の中にあるこの一杯は、まるで別の飲み物だった。
真空管アンプから、弦楽四重奏の穏やかな旋律が静かに流れている。壁一面の大書架の背表紙が、疑似朝光の柔らかな光を受けて鈍く光っていた。天井の空調口からは、リリアの結界で浄化された空気がゆっくりと循環していて、ラベンダーの残り香が鼻腔の奥をそっと撫でていく。
シュンはソファーの背もたれに頭を預け、天井を見上げた。
(ここには、始業のベルも、電信端末の着信音も、ギルバートの葉巻の匂いも存在しない)
キッチンでは、リリアがクロワッサンをオーブンから取り出している。バターの焼ける匂いがふわりと広がり、皿の上に盛り付けられた焼きたてのクロワッサンの表面が、飴色に光っていた。添えられた苺とブルーベリーの小皿と、半熟に仕上げられたスクランブルエッグ。
「はい、シュン様。召し上がれ〜」
リリアがテーブルに朝食を並べながら、にこにこと微笑んでいる。
「リリア」
「はい〜?」
「……ありがとう」
「ふふ、どういたしまして〜。シュン様はちゃんと起きてきただけで、今日も満点ですよ〜」
クロワッサンをちぎると、薄い層の間からバターの湯気が立った。口に運ぶと、外側のぱりっとした食感の中から、ふわりとした柔らかな生地がほどけていく。公社の食堂で出されていた、紙のように乾いたパンとは天と地の差だった。
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朝食を終えたシュンは、マグカップを片手にリビングの奥――魔導サーバーラックが並ぶ一角へ足を向けた。
黒い筐体が整然と壁際に並び、その中を走るケーブルの束が、色分けされた結束バンドで一本一本丁寧に束ねられている。青が電力系統、橙が通信系、緑が魔力伝送用。シュンが夜な夜な地上から部材を運び込み、膝を突いて一本ずつ這わせ、結束し、ラベルを貼った配線だ。一切の弛みもなく、直角に曲がるべきところは直角に、弧を描くべきところは美しい弧を描いて、ラック内を走っている。
サーバーラックの上段に据えられたオシロスコープモニターが、緑色の正弦波を黙々と描いていた。ゼロ・ターミナルに流入する電力と魔力の波形。揺らぎひとつない、安定した振幅。
「おはよう、シエラ」
サーバーラックの隣で、シエラが壁面の大型分電盤を前に立っていた。銀髪が蛍光灯の光を冷たく弾いている。手元のクリップボードに何かを書き込みながら、シュンの方を見ずに口を開いた。
「おはようございます。正確には、あなたが起床してから既に43分が経過しています。『おはよう』の適切な使用時間帯は過ぎているかと」
「細かいなぁ……」
「報告があります。昨夜の定時自己診断の結果、全系統異常なし。電力バイパス、通信バイパス、環境制御、防犯センサーネットワーク、すべて正常稼働中です。不労所得ボットの昨日の収益は、銀貨327枚相当。先週比で2.3%の増収」
シュンは珈琲を啜りながら、分電盤に目を向けた。
壁面いっぱいに広がる鋼板のパネル。その中に整然と配置された遮断器とヒューズ、そしてシュン自身が設計・組み込んだバイパス回路。ニュー・ブラッドフォードの地中を走る基幹送電線――都市全体に電力を供給する大動脈から、極秘裏に引き込んだ高圧魔電ラインがここに繋がっている。
公社の検針メーターに一切の変動を与えない。それがこのバイパス回路の設計要件だった。幹線の送電ロスに紛れる程度の微小な分岐を、魔力波と電気波の位相差を利用して抽出する。公社の測定精度では、鬼のように目を凝らしても検出できない。
隣のパネルには通信系のバイパス。都市基幹の通信ケーブルに直結した暗号化回線が、ゼロ・ターミナルに高速データ通信を供給している。市場の価格情報をリアルタイムで取得し、不労所得ボットを走らせるためのインフラだった。
「電力、通信、空調、水、防犯。全部動いてる。完璧だ」
「はい。すべて完璧に寄生しています」
シュンは珈琲を吹きそうになった。
「……寄生って言うなよ」
「事実を述べただけです。あなたは現在、帝国魔電公社が管轄する都市インフラから、電力と通信回線を無断で引き込み、一銭の使用料も支払わずに消費しています。これは法的には窃盗の範疇に――」
「タダ働きさせられた分の回収だよ、シエラ。72時間徹夜で魔導炉を直した時の残業代、あの会社は1銭も払ってないんだから。これは正当な債権回収だ」
「債権回収の法的根拠が存在しません」
「じゃあ精神的損害賠償」
「それも法的手続きを経ていません」
「うるさいな……朝から正論を浴びせるのやめてくれ……胃が痛くなる……」
シュンがソファーに戻って頭を抱えると、キッチンからリリアがとたとたと駆けてきた。
「シュン様〜、シエラちゃんにいじめられましたか〜? よしよし、珈琲のおかわり、お持ちしますね〜」
「いじめてはいません。事実の提示です」
「事実でも、朝ごはんの後にはちょっと早いですよ〜。シュン様の胃は繊細なんですから」
リリアがシュンの隣に座り、温かい珈琲のおかわりを手渡す。その菫色の瞳が穏やかに細められ、柔らかな金髪が肩の上で揺れた。
「シュン様、今日はお天気もよさそうですよ〜。……あ、地下だからお天気は関係ないんでしたね〜。ふふ」
「リリアのおかげで、ここは毎日快晴だよ」
「まあ〜、シュン様ったら、お上手ですね〜」
リリアが嬉しそうに笑い、シュンも力の抜けた笑みを浮かべた。サーバーラックの冷却ファンが低く唸り、真空管アンプの弦楽四重奏がリビングの空気を穏やかに満たしている。
窓のない地下室に、今日も何の予定もない朝が流れていた。
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本日は第4話まで一挙公開中です。ぜひ続けてお楽しみください!




