第2話 聖母の膝枕、冷たい掌、目覚まし不要の夜
分厚い防爆扉で外界を遮断した地下要塞「ゼロ・ターミナル」。エントランスの冷たい床に崩れ落ち、情けない叫びを上げていたシュンの耳に、軽やかな足音が駆けてきた。
「シュン様!」
柔らかい声。ふんわりとした金髪が視界の端で揺れ、温かい両腕がシュンの体を包み込んだ。石鹸と花の香りが鼻腔を満たす。白いエプロンドレスの裾が、シュンの白衣に重なった。
リリアだった。
崩れ落ちたシュンの上半身をそっと抱き起こし、自分の膝の上に導く。菫色の瞳がシュンの顔を覗き込み、細い指先が、彼の乱れた前髪をゆっくりと撫で整えた。
「はいはい、シュン様。よしよし。……今日、出してこられたのですね。退職届」
「う……うん……」
「えらいですよ〜、シュン様。本当に、よく今日まで耐えましたね」
リリアの声は、冬の夜に飲むホットミルクのように温かかった。膝の上でシュンの頭を支える腕は柔らかく、力加減は赤ん坊をあやすように優しい。
「リリア……俺、もう二度と外に出たくない……一生ここにいたい……この床のタイルになりたい……」
「ふふ、タイルさんですか〜。でも、タイルだと私がよしよしできなくなっちゃいますから、シュン様のままでいてくださいね〜」
リリアの指が、シュンのこめかみの辺りをくるくると円を描くように撫でる。その指先は人間の体温よりほんの少しだけ低いけれど、その一定のリズムが、張り詰めていた神経をほどいていくのが分かった。
「もう頑張らなくていいんですよ。ここは、シュン様だけの場所ですから」
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「シュン。玄関先で軟体動物のように溶けるのは構いませんが、エントランスの床は定期清掃を終えたばかりです。汚さないでください」
冷たい声が、リリアの温もりとは正反対の温度で降ってきた。
シュンが涙に滲んだ目を上げると、黒基調の軍用ドレスに身を包んだ銀髪の少女が、3メートルほど離れた作業台の前に腰掛けていた。琥珀色の瞳が、蛍光灯の光を冷ややかに反射している。手元では、ピンセットで何かの精密部品を組み上げている最中だった。
「し……シエラぁ……」
「防犯センサーネットワークの最終同期は完了しています。外部からの追跡信号も検出されていません。報告は以上です」
シエラは視線をシュンに向けることなく、淡々と報告を終えた。ピンセットの先が精密部品の端子に触れ、かちりと小さな音を立てる。
「シエラ……頭が……熱い……。お前のボディ、ひんやりしてるだろ……頼む、ちょっとだけ額に当てさせてくれ……」
「私は軍用特務機巧であって、保冷剤ではありません。却下です」
「お願い……5分……5分だけでいい……シエラ様……」
シュンはリリアの膝枕からずるずると這い出し、四つん這いのままシエラの足元まで移動した。そして、シエラの膝に額を押し当てた。
黒いドレスの布地越しに、金属フレームの冷たさが伝わってくる。火照った頭に、それは何より心地よかった。シュンは深く息を吐いた。
「……っ」
シエラのピンセットを持つ手が、ほんの一瞬止まった。琥珀色の瞳が、額をくっつけている情けない元・筆頭技師を見下ろす。
「……シュン。顔の位置が不適切です。3センチ上方へ修正しなさい」
「無理……動けない……」
長い、長いため息が、シエラの唇から漏れた。ピンセットを作業台に置く音。そして。
「……体温調整機能を冷却モードに切り替えます」
シエラの掌が、シュンの額にそっと当てられた。金属骨格の芯から伝わる、ひやりとした冷たさ。火照った皮膚が急速に冷やされ、ズキズキしていたこめかみの拍動が静かに収まっていく。
「制限時間は5分。超過した場合、1秒につき反省文を200文字課します」
「……ありがとう、シエラ」
「感謝は不要です。あと4分50秒」
リリアが小走りでやってきて、シエラの隣にしゃがみ込んだ。
「シエラちゃん、シュン様にこれ、お水です〜。喉が渇いていらっしゃるかもしれません」
「リリア。この男を甘やかしすぎると、明日から床から一歩も動かなくなりますよ」
「いいんですよ〜。シュン様は今日、とっても大きなお仕事を終えたんですから。たくさんたくさん、甘えていいんです〜」
リリアがグラスをシュンの口元に運ぶ。冷えた水が唇に触れ、乾いた喉に染み渡っていく。シエラの掌の冷たさと、リリアの体温の温かさが、シュンの両側から包み込んでいた。
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しばらくして、シュンはようやく立ち上がった。
エントランスから続く通路を抜けると、ゼロ・ターミナルのリビングが広がっている。
旧軍用地下駅のプラットホームだった空間は、今やシュンの理想を詰め込んだ居住区に生まれ変わっていた。壁際に整然と並ぶ魔導サーバーラック。その内部を走るケーブルは、一本一本が美しく結束バンドで整線されており、配線そのものがオブジェのような機能美を放っている。サーバーラックの上段に設置されたオシロスコープモニターには、ゼロ・ターミナルに流れ込む電力と魔力の波形がリアルタイムで描画されていた。安定した正弦波。異常なし。
その向かい側には、深い飴色の革張りソファーと、真空管アンプに接続されたスピーカーが鎮座している。奥の壁は天井まで届く書棚で、技術書から小説まで、シュンが夜な夜な地上から運び込んだ蔵書がぎっしりと並んでいた。
天井の空調口からは、リリアの環境制御結界によって浄化された空気が静かに流れ込んでいる。地下にいることを忘れさせるほど清浄で、ほのかにラベンダーの残り香が漂っていた。
リリアがキッチンカウンターの奥からカップを運んできた。立ち上る湯気からは、カモミールの甘い香りが漂う。
「シュン様、どうぞ。お体が冷えていらっしゃいますから」
「ありがとう、リリア」
シュンはソファーに沈み込み、カップを両手で包んだ。カモミールの温かさが、掌から腕を伝い、少しずつ体の芯まで届いていく。
一口、含む。ほんのりとした甘さと草の香りが口の中に広がり、張り詰めていた胃の痛みがゆっくりと和らいでいく。
耳を澄ませても、変圧器の耳障りな唸りも、ギルバートの怒声も、鳴り止まない電信端末の呼び出し音もどこにもない。ただサーバーラックの冷却ファンが立てる微かな回転音と、リリアがキッチンで食器を洗う穏やかな水音だけが、心地よい静寂の中に溶けていた。
(……ああ)
シュンの目から、また涙がこぼれた。今度は悲しみではなかった。ただ、体中の緊張が溶けていくのに任せて、涙腺が勝手に緩んだだけだ。
「シュン様、明日のお目覚めは何時頃がよろしいですか〜? 朝食の準備がありますので」
リリアの問いかけに、シュンは首を横に振った。
「目覚ましは……いらない。明日の朝は、何時に目が覚めてもいい。誰にも起こされなくていい」
「まあ〜。では明日は、シュン様が自然にお目覚めになるまで、リリアもシエラちゃんも静かにお待ちしていますね」
シエラが通路の奥から声だけを寄越した。
「了解。明朝のスケジュールを『完全休眠・起床予定時刻なし』に設定。環境制御は睡眠モードに移行、室温22度、湿度45%で固定します」
シュンはカップに残ったカモミールティーを飲み干し、ソファーからベッドルームへと足を引きずるように歩いた。ふかふかの羽毛布団に倒れ込む。顔の半分がクッションに埋まり、布団の柔らかさが全身を包む。
(明日の朝は、何もない。何もしなくていい。誰にも会わなくていい)
その事実が、こんなにも甘美だとは知らなかった。
瞼が重くなる。意識が薄れていく中で、リリアが毛布の端をそっと引き上げてくれる気配がした。ラベンダーの香りがふわりと濃くなる。
「おやすみなさい、シュン様。……今日から、ずっとずっと、ここがシュン様のおうちですよ」
その声を最後に、シュンの意識は深い眠りの底へ沈んでいった。
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同じ頃。
帝国魔電公社・中央棟、第3運用課。
ギルバート・ハウエルは、シュンが置いていった白い封筒を太い指で摘み上げ、中身を引き抜いた。一読して、鼻で笑った。
退職届。即日付。
「ふん」
紙を無造作に二つ折りにし、デスク脇のゴミ箱に放り込む。社員証とマスターキーは引き出しの奥に突っ込んだ。
ギルバートは椅子の背もたれに体重を預け、天井に向かって葉巻の煙を吹いた。
「世間知らずの若造が。学者上がりの頭でっかちが、外で食っていけるはずがないだろう」
窓の外では、ニュー・ブラッドフォードの夜景がアーク灯とネオン管の光で輝いている。送電塔の赤い航空灯が、規則正しく明滅していた。この都市のインフラを支えているのは帝国魔電公社――つまり自分たちだという自負が、ギルバートの口元を歪めた笑みに変える。
「どうせ1週間もすれば、泣きついて復職を乞うてくるさ。その時は――まあ、たっぷり反省させてやってから、使ってやるとするか」
ギルバートは残りの葉巻をもみ消し、デスクの書類も片付けずに立ち上がった。今夜はミッド・コモンズの飲み屋で一杯やる予定だった。
彼はまだ知らない。
シュンという一人の技師が、この都市の魔電インフラの全体構造――送電、通信、魔力供給の三位一体のバランスを、たった一人で把握し、日々手動で微調整し続けていたということを。
そしてその調律の手が消えたことで、明日から何が起き始めるのかを。
最後までお読みいただきありがとうございます!
本日は第4話まで一挙公開中です。ぜひ続けてお楽しみください!




