第1話 本日付で退職させていただきます
重いまぶたを擦り、目の下に濃い隈を刻みながら、シュンは深夜の調律室で回路図面を見つめていた。ここ2週間、まともに眠った記憶がない。
帝国魔電公社・中央棟、第3調律室。天井のアーク灯が一定の間隔で明滅を繰り返し、その度に作業台の上に広がった図面の影が揺れる。壁際に並んだ基幹アーク変圧器が低く唸りを上げていて、その振動が床を伝い、靴底を通じて足の裏までじんわりと痺れさせていた。
シュンは白衣の袖を肘まで捲り上げ、変圧器の制御盤に片手を突っ込んだまま、もう片方の手で魔導テスターの数値を読んでいた。周波数の波形が乱れている。第7ブロックの送電線から中層のミッド・コモンズに至る魔力伝送経路で、魔導波と電気信号の位相がずれていた。放っておけば、夜明け前にはミッド・コモンズ南区画の街灯が全滅する。
(……また、か)
それでもシュンは口元に穏やかな笑みを貼り付けたまま、慣れた手つきで位相調整ノブを0.03度ずつ回していく。テスターの波形が揃い始め、変圧器の唸りが半音下がって安定した正弦波を描き出した。
白衣の裾で額の汗を拭い、シュンは静かに息を吐いた。
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その背後で、重い革靴の足音が近づいてきた。
葉巻の煙が、絶縁油の臭気に混じって漂ってくる。振り返らなくても分かる。帝国魔電公社・第3運用課課長、ギルバート・ハウエル。
「おう、シュン。まだやってたのか」
太い声が調律室に響いた。シュンは振り返り、いつもの穏やかな笑顔を貼り付ける。
「ギルバート課長。お疲れさまです。第7ブロックの位相ズレ、いま修正が完了しました」
「ああ、そうか」
ギルバートは葉巻を咥えたまま、シュンの報告書にちらりと視線を落とし、大した興味もなさそうに顎をしゃくった。太い手首をこれ見よがしに返し、袖口から覗く金のカフスボタンが、アーク灯の光を鈍く弾いた。新品だった。先月まではつけていなかったものだ。
「そういえば、先月の中央魔導炉の件な。あれ、役員会で報告したら大層な評判でな」
シュンのこめかみが、かすかに引き攣った。先月の中央魔導炉。ミッド・コモンズ全域に影響する基幹炉の暴走寸前を、シュンが3日3晩徹夜で修復した案件だ。冷却水管の配管を一本ずつ這いまわり、魔力波と電気信号の干渉パターンを手動で再調律した。あの72時間、シュン以外に手を動かした人間は一人もいなかった。
「『課長の日頃の統率力あってこそ』と、常務がわざわざ席を立って握手してくれたよ。おかげで来期の特別賞与も確定した。いや、筆頭技師が優秀だと、上に立つ人間の評価も上がるものでな」
ギルバートは得意げに笑い、新しい金のカフスを指先で弄んだ。シュンの胃の底に、じわりと熱いものが溜まった。
「……光栄です」
声が震えないように、唇の端だけで笑う。ギルバートはその微笑みを当然の追従と受け取り、恰幅の良い体をデスクの端に預けながら、胸ポケットから1枚の書類を引き抜いて、シュンの作業台にぱさりと落とした。
「それはそうと、来週の件だがな。第12ブロックの送配電網、全面改修の案件が降ってきた」
シュンの胃が、きゅっと縮んだ。
「……課長、恐れ入りますが。来週は第9ブロックの魔導炉の定期調律が入っておりまして」
「ああ、あれは後回しでいいだろう。急ぎじゃない」
「いえ、あの定期調律を2日以上延期しますと、中層への魔力供給バランスが崩れて――」
「シュン」
ギルバートの声が、一段低くなった。葉巻の先端が赤く燃え、灰がぽろりと床に落ちた。
「第12ブロックの件はな、技術部のフレッチャー部長の甥っ子が担当して盛大にやらかした案件なんだよ。魔導管の結線を逆に繋いで変圧器3台焼いた。大赤字だ。だがフレッチャーの甥に傷をつけるわけにはいかんだろう? 偉い人の身内なんだから」
ギルバートは葉巻の煙を天井に向かって吐き出した。
「だからお前が今週中に直して、帳尻を合わせろ。来週じゃない、今週中だ」
「今週中……ですか。しかし、それは物理的に――」
「ああ、残業代の心配なら要らんぞ。筆頭技師は裁量労働だからな。固定給に含まれてる。規定通りだ」
みぞおちの辺りが鉛を飲んだように重い。でも、シュンの口元は微笑んだままだ。
「……課長。第9ブロックの調律を延期すると、連鎖的に第4、第11ブロックにも波及します。最悪の場合、ミッド・コモンズ北区画で大規模停電が――」
「口答えするな」
ギルバートの太い指が、デスクの天板をバンと叩いた。
「いいか、シュン。学者上がりの頭でっかちなんて、代わりはいくらでもいるんだぞ。お前が公社で筆頭技師をやれているのは、俺が上に取りなしてやっているからだ。分かるか? 俺が庇ってやらなければ、お前みたいな融通の利かない若造、とっくに地方の変電所送りだ」
背中に重いものが乗った気がした。こめかみの奥で、心臓の鼓動と同じリズムの頭痛が脈打っている。でも、シュンの口元は微笑んだままだ。
「……承知いたしました。スケジュールを調整してみます」
「よし。お前がやれば間違いないからな。俺の目に狂いはない」
ギルバートは満足げに鼻を鳴らし、大股で調律室を出ていった。革靴の足音が廊下の奥に消えていく。
独りになった調律室で、シュンは作業台に両手をついた。
穏やかな笑みが、剥がれ落ちるように消えた。
(代わりはいくらでもいる、か)
胃の底が焼けるように痛む。こめかみの奥で、鈍い頭痛が脈打っている。
(代わりがいるなら……いいじゃないか。好きなだけ、代わりを探せばいい)
シュンは目を閉じた。暗闇の中で、ここ数年の記憶がフラッシュバックのように明滅する。
深夜2時の緊急呼び出し。休日に鳴り響く電信端末。誰かのミスの尻拭い。上層部の身内が起こしたトラブルの穴埋め。そしてそのすべてを収拾した後に、ギルバートが「私の統率力の成果です」と役員会で胸を張る、あの太い背中。
隣の課の技師たちが「シュン君がいるから大丈夫でしょ」と笑いながら業務を丸投げしてくる声。
そしてそのすべてに、穏やかに笑って「承知しました」と答え続けてきた自分。
(……もう、限界だ)
胃の痛みが、不思議と引いていった。代わりに、胸の奥で何かが静かに、確かに切れた。それは怒りでも悲しみでもなく、ただ冷たい決意だった。
シュンは白衣の内ポケットに手を入れた。指先が、封筒の角に触れる。
1か月前から、ずっとここに入れて持ち歩いていたものだ。
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翌朝。
始業の鐘が鳴る前に、シュンは課長室の扉を叩いた。
ギルバートは朝の茶を啜りながら、「おう、早いな」と上機嫌に笑った。おそらく昨晩の件で、シュンが第12ブロックの改修スケジュールを持ってきたと思ったのだろう。
「ギルバート課長」
シュンの声は、いつもと変わらなかった。穏やかで、丁寧で、礼儀正しい。
「申し訳ありませんが、本日付で退職させていただきます」
白い封筒が、デスクの上に置かれた。
続いて、社員証。そして、公社全域の調律室に入るためのマスターキー。三つの品が、デスクの木目の上に整然と並べられる。
ギルバートの茶碗が、かちゃんと受け皿の上で揺れた。
「……は?」
「長い間、大変お世話になりました」
シュンは深く一礼した。そして、顔を上げた時には、もういつもの穏やかな微笑みすら消えていた。凪いだ水面のような、静かな表情だけがそこにあった。
「お、おい、待て! シュン! 何を言って――」
椅子を蹴倒す音。ギルバートが立ち上がりかける。しかしシュンはもう背を向けていた。白衣の裾が翻り、課長室の扉が静かに閉まる。
背後からの怒号に一度も振り返ることなく、廊下を歩く足取りは、ここ数年で一番軽かった。
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ミッド・コモンズの雑踏を抜け、路地裏の鋳鉄製の階段を3階層分降りる。
地下へ向かうにつれて、アーク灯のオレンジ色の光が薄れ、空気が冷たく湿り気を帯びていく。送電ケーブルの束が天井を這い、通信線が壁面に沿って蛇のように誇らしげに這い回っている。アンダー・スラッグ――ニュー・ブラッドフォードの最下層。陽の光が届かない、スラム街の最深部。
シュンは足を止め、背後を振り返った。尾行の気配はない。念のため、懐から小型の魔導パルスメーターを取り出し、周囲の魔力反応を走査する。生体反応、ゼロ。索敵用の追跡魔術もかかっていない。
(よし)
目の前にあるのは、錆びた鉄柵と、その向こうに続く崩れかけた廃線路だった。鉄柵には、公社の公印が押された警告板がぶら下がっている。
【立入厳禁・崩落危険区域・高濃度有毒ガス充満】
シュンは軽く鼻を鳴らした。この警告は、半年前にシュン自身が公社の管理システムに書き込んだ偽データだ。有毒ガスなど存在しない。崩落の危険もない。この先にあるのは、30年前の事故で公社の図面から完全に抹消された旧軍用防空シェルター兼地下駅――通称「第0駅」。
そして、シュンが半年間かけて極秘裏に改装し、自らの完全不労隠居の拠点として作り上げた地下要塞――「ゼロ・ターミナル」の入り口だった。
鉄柵の隙間を身を屈めて通り抜け、瓦礫の散乱する廃線路を200メートルほど進む。足元の砂利がじゃりじゃりと鳴り、遠くで水滴が岩肌を叩く音だけが反響していた。
廃線路の突き当たりに、それはあった。
旧軍用の防爆扉。高さ3メートル、幅4メートル、厚さ50センチの鋼鉄の塊。表面には高周波溶接で施された分厚い追加装甲の継ぎ目が鈍く光っている。一般の爆薬では傷ひとつつかない代物だ。
シュンは扉の右脇にある岩壁の一部を押した。偽装パネルがスライドし、認証コンソールが現れる。暗い画面に魔導紋様が浮かび上がり、淡い光を放った。
首元から魔導暗号キー――六角柱の結晶体を取り出し、コンソールのスロットに差し込む。指先から微弱な魔力パルスを流し込むと、結晶体が青白く発光し、コンソールの画面に認証完了の文字列が走った。
――認証完了。ようこそ、シュン。
重低音が足元から這い上がってきた。油圧シリンダーの稼働音。数十トンの防爆扉が、わずかな振動とともにゆっくりと内側へ開いていく。冷たい地下の空気に混じって、ほのかに温かい風が頬を撫でた。エアコンの稼働した空間の匂い。かすかに甘い、石鹸のような香り。
シュンは扉をくぐった。
背後で防爆扉が閉まり始める。油圧シリンダーが再び唸り、エアロックの気密音がシューッと響き、やがて、ガコンと鈍い金属音を立てて完全に施錠された。
外界との接続が、完全に断たれた。
その瞬間だった。
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シュンの膝が、がくんと折れた。
白衣の裾が床に広がり、両手が冷たいタイル張りの床を掴む。肩が震え、背中が丸まり、ここ数年間張り続けてきた「穏やかな好青年」の外殻が、音を立てて砕けていった。
「……うぅ……」
情けない声が、喉の奥から漏れた。涙が出ているのか、汗なのか、自分でも分からない。ただ、全身の力という力が抜けていく。
「リリアぁ……シエラぁ……もう無理……もう嫌だ……外の世界こわい……!」
かすれた情けない叫びが、誰もいないはずの広い地下空間に反響した。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
本作は、過酷な社畜生活から脱出した元筆頭技師が、完全自動化された地下要塞で美少女オートマタたちと過ごす、痛快リベンジ&至福の不労生活コメディです。
【更新スケジュール】
・本日:第1話〜第4話まで一挙公開!
・明日以降:毎日【18:00】に1話ずつ更新予定です。
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