第23話 廃線路の自警団
壁面のオシロスコープに埋め込まれた環境モニターの数字が、シュンの眉間に皺を刻んだ。
22.5℃。
たった0.5度。されど0.5度。シュンにとって、この数値は許容範囲の外だった。
「……暑い」
ソファーの上で膝に乗せていた技術書——『魔導流体力学と高周波回路』初版を閉じ、額に浮いた薄い汗を手の甲で拭う。ラベンダーの空調結界が保つ乾いた空気の中にも、じんわりとした生温さが滞留しているのが肌でわかった。
「シュン様、冷たいお水をお持ちしましょうか〜?」
キッチンの奥からリリアの声が届く。菫色の瞳が心配そうにこちらを覗いている。
「ありがとうリリア。でもこれ、水を飲んで済む問題じゃないんだ」
シュンはソファーから腰を上げ、サーバーラックの脇に設置されたシステムモニターの前まで歩いた。指先でダイヤルを回すと、排熱ログのグラフが走査線に映し出される。
原因はすぐに見つかった。不労所得ボットのサーバーラックが24時間連続で約定処理を回し続けている排熱と、大浴場の魔導ボイラーが湯温を保つために放出している保温熱。二つの熱源が重なり、要塞内部に軽微な排熱滞留を起こしていた。
「……集中して読書するには22.0度が絶対正義なのに。僕の快適な引きこもり環境を脅かす排熱は、断じて許せない」
「わずか0.5度の変動で大騒ぎするとは」
作業台で工具の手入れをしていたシエラが、白銀の髪を揺らしてこちらへ視線を向けた。
「相変わらず温度センサー並みに神経質な男ですね。もっとも、不労所得のために昼も夜もサーバーを回し続けている代償ですが」
「温度管理は文明の基本だよ。シエラだってこの温度が一番冷却効率いいって自分で言ってたじゃないか」
「……それは否定しません」
シエラの琥珀色の瞳がほんの少しだけ逸らされた。
シュンは工作室へと足を向けた。通路の壁に整然と並ぶ配管制御盤——真鍮のバルブとゲージが規則正しく配列されたパネルを開く。大浴場の魔導ボイラーから延びる排熱交換器の回路図が、頭の中に瞬時に展開された。
(排熱を外へ逃がすのが一番早い。ボイラーの二次側熱交換器のバイパスバルブを開放して、地下水脈の湧き水と混合すれば、温度を下げながら安全に廃熱できる。問題は排出先だが——廃線路側の旧暗渠なら、老朽配管にも負担がかからない温度に調律して流せばいい)
精密ドライバーでバルブのセットスクリューを緩め、バイパス回路を開放する。排熱交換器の二次側に地下水脈の冷水を引き込み、混合比を調整するダイヤルを指先でゆっくりと回した。
配管の中を流れる水温を示す真鍮製の温度計の針が、じわじわと下降し——42.0℃でピタリと止まるように、魔力励起コイルの出力定数を微調整する。
「……42度。よし、これなら大丈夫だ」
制御盤に組み込まれた小型端末のキーボードを叩き、排熱プログラムを書き込む。ボイラーの稼働状況に連動して排熱量を自動調整し、要塞内の室温を常に適正値に維持する恒温制御ループ。
カチン、とバルブが噛み合う音がして、配管の奥から「サァァ……」と水流の音が聞こえ始めた。
リビングに戻ると、壁面のモニターの数字が目に入る。
22.3……22.1……22.0。
スーッと、肌を撫でる空気の温度が下がっていくのがわかった。乾いた冷涼な空気がラベンダーの香りとともに戻ってくる。
「……ふぅ。これでよし」
シュンは満足げに息をつき、ソファーに深く腰を下ろして技術書を開き直した。
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同じ頃——地上、最下層アンダー・スラッグ。
煉瓦と錆びた鉄骨が入り組んだ廃線路広場に、底冷えのする夕暮れの風が吹き抜けていた。
薄暗い路地の角で、荷揚げ人の老人が痛む膝を両手で押さえ、石壁に背中を預けてうずくまっている。革の手袋の指先は、かじかんで紫色に変わっていた。
少し離れた煉瓦の段差では、薄い上着を羽織っただけの子供たちが身を寄せ合い、互いの手を握って体温を分け合っていた。吐く息が白く凍り、鼻先が赤い。
露天商の親方——日に焼けた顔に深い皺を刻んだ大柄な男が、子供たちに毛布代わりの麻袋を掛けてやりながら、低く舌打ちした。
「公社の連中は上層の暖房管理には金をかけるくせに、スラムの防寒インフラなんざ見向きもしやがらねぇ。今年の冬は長引きそうだってのによ……」
その時だった。
広場の端を走る古い側溝——普段は乾いた砂利と埃しかない排水路から、微かな音が聞こえてきた。
コポ……コポコポ……。
水の流れる音。しかも、温かい。
最初に気づいたのは、側溝の近くにしゃがんでいた荷揚げ人だった。
目をこすり、乾いた側溝の底を覗き込む。灰色の石畳の隙間から、透き通った水がちろちろと染み出していた。白い湯気が、うっすらと立ち上っている。
恐る恐る、かじかんだ指先を水面に触れさせた。
「——っ」
温かい。冷え切った指の先から、じんわりと血行が戻っていく。水面から漂ってくるのは、ほのかな檜の木の香りと、ラベンダーの甘い芳香。
「……あったけぇ」
掠れた声が、夕暮れの広場に零れた。
子供たちが駆け寄り、恐る恐る裸足を温水に浸す。一人の少女の目が丸くなり、隣の子の手をぎゅっと握った。露天商の親方が大股で歩み寄り、ズボンの裾をまくって足を突っ込む。
噂はあっという間に広まった。路地裏から、長屋の隙間から、人々が集まってくる。足腰を痛めた年寄り、指先のあかぎれに苦しむ洗濯女、仕事帰りの荷揚げ人たち。誰もが側溝の縁に腰を下ろし、温かな水に足を浸した。
「……神様だ」
老人が、震える声で呟いた。目尻に涙が光っている。
その夜、親方が子供たちから集めた端切れ布で腕章を作った。布の切れ端に炭で書かれた文字——『神様の聖域を守る自警団』。不揃いで泥臭い腕章だったが、それを腕に巻いた住人たちの背筋は、少しだけ伸びていた。
夕暮れの赤い光の中、一人の老婆が小さなバスケットを投入口へそっと差し入れた。中には、手作りの完熟ベリージャムの小瓶と、裏庭から摘んできたばかりのフレッシュミントとカモミールの束。
「神様、いつもありがとうございます。何もお返しできなくて申し訳ないけれど……どうか、温かくしてお過ごしくださいね」
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同じ頃——帝国魔電公社、中央棟。
ギルバート失脚後の第3運用課に、新任課長が着任していた。
仕立ての良い濃紺のスーツ。銀縁眼鏡の奥で、青灰色の瞳が冷たく細められている。ブラッドリー・カーライル。本部長の直接推薦で送り込まれた男だった。
デスクに広げた住民報告の余白に、赤インクの万年筆が走る。『地下の神様——要調査。有料化の余地あり』。
「……せいぜい今のうちに、温まっておくがいい」
ブラッドリーは報告書を閉じ、薄い笑みを浮かべた。
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