第3話: 退院したら家がタワマンになっていました
「現時点で重篤な異常は見当たらない。ただ、頭部外傷の直後だからね」
神崎零香はカルテを閉じ、穏やかな口調で告げた。
「念のため二、三日ほど入院して経過を見よう。その間も定期的に検査は続ける。何か違和感があれば、遠慮なく言ってくれ」
「はい」
禎丞は素直に頷く。
その隣では、彩音が何度も頭を下げていた。
「本当に……ありがとうございました」
「礼なら退院してから、禎丞くん本人に個人的に貰うからいいよ」
「はい! ……は、え?」
元気よく返事をした彩音の動きがぴたりと止まる。
「こ、個人的……ですか?」
「ん? ああ、個人的にね」
零香はそうして舌なめずりをする。
「だ、ダメですっ!!」
彩音は反射的に禎丞を抱き寄せ、その顔ごと自分の豊かな胸元へぎゅっと抱き込んだ。
「せ、先生でもダメです! 禎丞と二人きりなんて……その、と、とにかくダメですから!!」
「むぐっ!?お、お母さん?」
突然視界が柔らかな感触に埋め尽くされ、禎丞は目を白黒させる。
彩音は必死な表情で零香を見据えた。
「禎丞は私の禎丞です! 誰にもあげません!!」
「むぐぅ……」
病室がしんと静まり返る。
零香は肩をすくめ、小さく笑った。
「やれやれ。過保護な親は、そのうち嫌われてしまうよ?」
その一言で、彩音の表情が凍りついた。
「…………え」
抱き締める力が、かすかに震える。
「い、嫌……」
掠れた声が漏れる。
「嫌われるのはやだ……。禎丞、ごめんね……お母さん、過保護すぎたよね……? だから……嫌いにならないで……」
今にも泣き出しそうな声だった。
禎丞は苦しそうにしながらも、小さく笑う。
「お母さん」
「……うん?」
「僕、嫌わないよ」
その一言だけで、彩音の瞳に涙が浮かぶ。
「禎丞ぅうう…!」
安心した彩音は、さらにぎゅうっと抱き締めてしまう。
「……あの、お母さん」
「うん?」
禎丞は潤んだ瞳で彩音を見上げる。
抱き締められて少し苦しそうなのに、その表情はどこまでも優しく、甘えるような笑みを浮かべていた。
大きな瞳がうるうると揺れ、まっすぐ彩音だけを映している。
「こんなにギュってされたら……僕、本当にお母さんのモノになっちゃうよ?」
「――――っ!!」
その一言は、彩音の心をいとも簡単に撃ち抜いた。
「お、お母さんの……モノ……?」
頬がみるみる朱に染まっていく。
耳まで真っ赤になり、心臓がどくん、どくんと大きく跳ねた。
「そうだよ? だから離し――」
「そ、そんなこと……っ!」
彩音は両手で口元を押さえ、ぶんぶんと首を横に振る。
「そ、そんな可愛いこと言わないでぇ……!」
「へ?」
「お、お母さんのモノだなんて……そんなの……そんなのぉ……っ!」
声が震え、肩が震え、全身がぷるぷると震え始める。
「む、無理……心臓が……っ」
彩音は両手で真っ赤な顔を覆ったまま、その場にばたんっと仰向けに倒れた。
「お、お母さん!?」
「む、無理ぃぃぃ……」
じたばたと足をばたつかせながら、顔を隠したまま身悶える。
涙目になって悶絶する彩音を見て、禎丞はきょとんと首を傾げた。
(だから離してって言おうとしただけだったのに……)
◇
それから二日。
禎丞は定期的な検査を受けながら病院で過ごし、幸い大きな異常も見つからないまま、退院の日を迎えた。
病院の正面玄関を出る。
初夏の柔らかな陽射しが降り注ぎ、頬を撫でる風が心地いい。
「外の空気って、やっぱりいいな……」
思わずそんな言葉が漏れる。
「ふふっ」
彩音はその横顔を見つめ、嬉しそうに微笑んだ。
「元気そうで、本当に良かった」
その一言だけで、どれほど心配していたのかが伝わってくる。
「さ、帰りましょう」
彩音に促され、二人は駐車場へ向かった。
そこで禎丞は、一台の車を見て思わず立ち止まる。
「うわ、高そうな車」
漆黒のボディが陽光を反射する、高級感あふれるセダン。
前世の記憶と照らし合わせても、一目で"高級車"だと分かる一台だった。
「それうちの車よ」
「え?」
「うちの車よ?」
彩音はきょとんと首を傾げる。
「え、でも前はこんな車じゃなかったよね?」
「買い替えたの♡」
彩音は胸を張ってえっへん、と笑う。
「せっかく禎丞を乗せるんだもの。お母さん、張り切っちゃった♡」
「そ、それって……かなり高かったんじゃ……」
「大丈夫よ?」
彩音は優しく笑い、禎丞の頭をそっと撫でる。
「あの日ね。禎丞を守れなかったって思った瞬間、お母さん決めたの」
「もう二度と、同じ思いはしないって」
その瞳には、穏やかな笑みの奥に強い決意が宿っていた。
「だから、いっぱい働いて、いっぱい努力したの」
少し照れくさそうに笑ってから、さらりと続ける。
「今なら、この車百台買っても痛くも痒くもないわよ?」
「…………え?」
禎丞は思わず固まった。
「ひゃ、百台?」
「うん♡」
まるで「今日は少し贅沢なお菓子を買ったの」とでも言うような気軽さだった。
「そ、それは……お母さん、すごいね」
乾いた笑みを浮かべながら助手席へ乗り込む。
(努力って……そんなレベルまで実るものなのか……?)
前世の常識では到底たどり着けない世界に、禎丞は改めて小さく驚くのだった。
◇
街並みを眺めながら、三十分ほど。
車はいつの間にか、禎丞の見覚えのない道へ入っていた。
「……あれ?」
小さく首を傾げる。
(どこ向かってるんだ?)
やがて車がゆっくりと停止する。
「着いたわ」
彩音の声に促され、禎丞は窓の外を見上げ息を呑んだ。
「……え」
そこにそびえ立っていたのは、街でもひときわ目を引く超高層タワーマンションだった。
ガラス張りの外壁が初夏の陽射しを反射し、青空へ溶け込むように輝いている。
テレビや雑誌で見るような高級レジデンス。
どう見ても、自分とは縁のない世界だった。
「お母さん……?」
「着いたわよ」
彩音はエンジンを切り、いつものように微笑む。
「ここって……」
「私たちのお家よ」
「…………え?」
頭の中が真っ白になった。
彩音は少し照れくさそうに笑う。
「事故の次の日に買ったの」
「…………え?」
理解が追いつかない。
事故の………次の日?
(いやいやいやいや)
(マンションって、そんなノリで買うものじゃないよな!?)
彩音はそんな禎丞の混乱など気にも留めず、穏やかに続ける。
「前のお家は階段が多かったでしょう?」
「だから思い切って引っ越したの」
「ここならエレベーターもあるし、段差もほとんどないわ。防犯もしっかりしてるし、安心して暮らせるでしょ?」
まるで家具でも買い替えたかのような口調だった。
(事故からまだ数日しか経ってないよな……?)
(それでタワマンを買った……?)
(ていうか、タワマンって買えるの???)
恐る恐る口を開く。
「えっと……高く、なかったの?」
彩音は不思議そうに目を瞬かせた。
「禎丞の命より高いものなんてないわ」
あまりにも迷いのない答えだった。
「もう二度と危ない思いはさせない」
「階段も、滑りやすい床も、危ない家具も……心配になるものは全部なくしたの」
「これからは安心して暮らしてね」
どこまでも優しい笑顔。
だからこそ、その言葉の重さが胸に刺さる。
「…………」
禎丞は何も返せなかった。
嬉しいし感謝もある。
でも――。
(いや、お母さん!!)
(どう考えてもやり過ぎでしょー!!?!)
彩音はそんな息子の心の叫びなど知らず、車を降りながらにこりと笑う。
「さ、帰りましょう」
「帰るって言ったって………」
禎丞は改めてマンションを見上げた。
見上げても、見上げても終わらない高さ。
ホテルのような車寄せ。
大理石が敷かれたエントランス。
コンシェルジュが深々と一礼し、自動ドアが静かに開く。
(……夢じゃ、ないよな)
(本当に……ここが家?)
彩音はそんな息子を気にする様子もなく、当然のように歩き出す。
「そうそう。お部屋は最上階だから安心してね?」
「……いや、それ安心材料なのかな。誤差みたいな安心材料だけど」
「ちゃんとヘリポート付きだから、もしもの時はヘリで逃げましょうね♡」
「どんな"もしも"を想定してるの!? 僕、国家元首でも石油王でもないんだけど!?」
「禎丞はそれくらい大切なんだもん♡」
「愛情表現のスケールがおかしいよ!!」
禎丞の渾身のツッコミが、高級感あふれるエントランスに虚しく響き渡る。
コンシェルジュさんはさすがプロというべきか、微笑みひとつ崩さなかった。
(……もう分かった)
(この人に常識は通用しない)
(これからは、お母さんには逆らわないようにしよう……)
そう固く心に誓った禎丞だった。




