第2話: 母の涙と、変わったボク
病室の外は、まだ騒がしかった。
「ねえ、いいじゃん! 少しだけ!」
「ねえー! お名前なんていうのー?」
「皆さん、患者さんの迷惑になりますので下がってください!」
看護師たちの慌てた声が、閉ざされたドア越しに聞こえてくる。
禎丞はベッドに腰掛けたまま、小さく息を吐いた。
「……これが、この世界の常識か」
前世では、街を歩けば男女が自然に混ざり合い、肩を並べて歩いていた。
そこには、気軽に声をかける男もいれば、それを相手にせず早足で通り過ぎる女性もいた。
それが、自分にとっての「普通」だった。
だが、この世界では違う。
男は極端に少なく、かけがえのない存在。
少しでも近づきたい、話してみたい、そんな想いを抱く女性が溢れている世界だった。
「思ったより……悪い気はしないな」
苦笑混じりに呟き、窓の外へ視線を向ける。
走る車、高くそびえるビル、人々が行き交う街並み。
景色だけを見れば、前世の日本とほとんど変わらない。
けれど、その中身はまるで別世界だ。
この世界で十年以上生きてきたはずなのに。
前世の記憶を取り戻しただけで、当たり前だった景色がまるで違って見える。
そんなことを考えていると――
コンコン。
控えめなノックが響いた。
「失礼するよ」
入ってきたのは、白衣をまとった一人の女性医師だった。
艶のある黒髪を短く切りそろえたウルフカットに、感情の読めない黒い瞳。
黒いタートルネックの上から白衣を羽織った姿は、知的でありながらどこか近寄りがたい雰囲気を漂わせており、白衣の下に隠された細身の体つきは無駄がなく、それでいて女性らしい柔らかな曲線を感じさせた。
その後ろには、もう一人の女性が静かに立っていた。
腰まで流れる白髪に、光を失ったような灰色の瞳。目の下には濃い隈が刻まれ、やつれた顔立ちは疲労を隠しきれていない。
淡い色の暖かなニットに身を包み、柔らかな雰囲気をまとったその姿は、どこか儚げでありながら愛らしさを感じさせる。
そんな彼女の華奢な体つきとは対照的に、服の上からでも分かる女性らしい丸みが、その存在に静かな印象を与えていた。
その姿を見た瞬間。
胸の奥が、かすかに震える。
「……禎丞」
震えた声。
その声を聞いた瞬間、記憶が蘇る。
優しく笑う顔。
料理を作る背中。
熱を出した夜、付きっきりで看病してくれた温かな手。
「……お母さん」
自然と言葉がこぼれた。
その一言だけで、母の瞳から涙が溢れ出す。
「よかった……本当に、よかった……」
震える声で何度も呟きながら、一歩、また一歩と近づいてくる。
だが、その足がふと止まった。
「……っ」
母の肩が小さく震える。
これまでの禎丞なら、女性が近づくだけで怯え、家族にさえ心を閉ざしてしまっていた。
だから無意識に身構えてしまったのだろう。
その姿を見て、禎丞は胸が締め付けられた。
(……僕は、今までこんな思いをさせていたのか)
ゆっくりと笑みを浮かべる。
「…………お母さん。もう大丈夫だよ」
その一言は、とても穏やかだった。
母は目を見開き
次の瞬間、その場に泣き崩れた。
「っ……!」
「だ、大丈夫?」
禎丞は慌ててベッドから降り、母のそばへ駆け寄る。
「ええ……大丈夫よ。大丈夫……」
涙を流しながら、それでも笑おうとしていた。
「少し……驚いただけなの」
頬を伝う涙を見ていると、胸の奥が苦しくなる。
「ごめんなさい……」
母が、小さく呟いた。
「……え?」
「今回も……助けれなくて…」
その声は、自分を責め続けてきた人の声だった。
「違うよ!」
禎丞は反射的に首を振る。
「お母さんのせいじゃない!」
自然と言葉が溢れる。
責める理由なんて、どこにもない。
むしろ、目の下に浮かぶ濃い隈を見れば、この数日まともに眠れていなかったことは一目で分かった。
自分のために、ずっと心を痛めていたのだ。
そんな母に、申し訳なさが込み上げてくる。
「……ありがとう」
禎丞は母の肩をそっと支えながら、小さく息をついた。
その様子を見ていた女性医師が、静かに口を開く。
「……さてひとまず、お母様は落ち着かれたようだね。」
禎丞へ視線を向ける。
「だけどね、頭部外傷の患者がいつまでも立っているものじゃない。」
ベッドを軽く指し示した。
「続きはベッドの上で聞こう。戻ってくれるかな。」
「あ……はい。」
禎丞は母を気遣うように一度だけ笑みを向けると、ゆっくりとベッドへ戻り腰を下ろした。
それを見届けた母は、はっとしたように立ち上がる。
「す、すみません……!」
「いやいや、謝る必要はないさ。」
女性医師は肩をすくめ、小さく笑う。
「これでも空気は読める女なんだよ」
そう言うと、カルテへ目を落とした。
そして、切れ長の瞳で禎丞をじっと見つめる。
まるで、何かを見透かすような視線だった。
「改めて自己紹介をしよう。」
カルテを閉じる。
「私の名前は神崎 零香。この病院で脳神経外科を担当している医師だ。」
軽く頭を下げると、そのまま禎丞のベッドの横まで歩いてくる。
「さて……。」
顎へ手を添え、興味深そうに目を細めた。
「頭を打つ前と後で、自分に何か違和感はあるかい?」
その問いに、禎丞は一瞬だけ言葉を失う。
(前世の記憶を思い出して、記憶がぐちゃぐちゃです……なんて言ったら、頭がおかしくなったと思われかねないしな)
少し考え、慎重に言葉を選ぶ。
「記憶がぐちゃぐちゃで、断片的な感じがします」
「ほぅ?」
「なんて言うか……記憶が一冊の本なら、それを床に落としてしまったみたいなんです。ページは全部あるはずなのに、順番がばらばらで……どれも自分の記憶なのに、うまく繋がらないんです」
零香は、口元だけをわずかに吊り上げた。
「なるほど。」
カリカリ、とペンを走らせる。
「面白い表現だ。」
「普通なら『思い出せない』とか『頭が痛い』と言う患者がほとんどなんだけどね。君のは『記憶の構造そのものが乱れている』という説明に近い」
零香はペンを止め、禎丞をじっと見つめた。
「比喩を使えるだけの冷静さはある。少なくとも、会話能力や思考力が著しく低下しているようには見えないね」
カルテを閉じる音が小さく響く。
「実に興味深い」
その目は笑っていない。
鋭い瞳が、禎丞の些細な表情の変化すら見逃すまいと観察している。
「……安心してくれ」
その空気を和らげるように、零香は肩をすくめた。
「別に疑っているわけじゃない。医者っていうのは、患者の話を最初から否定したりはしないものだからね」
「どんな些細な違和感でも、診断の材料になる」
零香は椅子を少し引き、禎丞の正面へ回る。
腰を下ろすとカルテを開き、ペン先を軽く指先で叩いた。
「じゃあ、もう少しだけ質問に付き合ってもらおうか」
「自分の名前は言えるかい?」
「松岡 禎丞です」
「年齢は?」
「十五歳です」
「君の誕生日は言えるかな?」
「九月十七日です」
「では、君のお母様の名前は言えるかい?」
「松岡 彩音です」
それから零香は、事故の記憶や現在の状況認識、視線の動き、反射、受け答えを一つずつ確かめていった。
時折「ふむ」と頷きながらカルテに所見を書き込み、最後に静かにペンを置く。
「結論から言おう」
母が息を呑む。
「身体的な異常はほぼ見当たらない。認知機能も正常だ。記憶には軽い混濁が見られるが、頭を打った影響としては珍しくもない。二、三日もすれば落ち着くだろう」
母の肩から、ふっと力が抜ける。
「ただ……」
零香はカルテを閉じ、禎丞へ静かに視線を向けた。
「お母様のお話では、事故前と比べて随分と雰囲気が変わったそうだね」
病室に静寂が落ちる。
「もちろん、それ自体は悪いことじゃない」
「人は強い衝撃や大きな出来事をきっかけに、性格や価値観が変化することは珍しくないからね」
そう言って、口元だけをわずかに緩める。
「だから医者としては、今の君を"異常"とは判断しない」
「……だが、一人の研究者としては」
鋭い瞳が、好奇心を隠すことなく細められる。
「君という存在には、とても興味が湧くね」
零香は口元に小さな笑みを浮かべた。
「どうかな。退院したら、二人きりでディナーでも」
「え……?」
禎丞が思わず目を瞬かせる。
「だ、ダメですっ!!」
母が勢いよく二人の間へ割って入った。
「母親の前で息子を口説かないでください!」
「口説いているつもりはないのだけどね」
零香は悪びれる様子もなく肩をすくめる。
「純粋に、もっと深い話を聞いてみたいと思っただけさ」
「その言い方が十分怪しいんです!」
病室に、母の悲鳴にも似たツッコミが響いた。
禎丞は二人のやり取りを見比べながら、小さく苦笑するしかなかった。




