072.意志のバトン
あの大戦から、数ヶ月の時が流れた。
神の代行者が消滅し、シトラス、プロイン、フランといった旧国家の支配体制は事実上崩壊した。
神という絶対的な後ろ盾を失った王族たちは、民衆の突きつける「真実」の前に膝を屈し、大陸の勢力図は劇的な変化を遂げていた。
かつて「魔王の街」と蔑まれたソリダリスは今や、大陸中の英知と意志が集まる新時代の中心地となっていた。
「……プロインの旧貴族層が、まだ一部で抵抗を続けている。
バランの傭兵ギルドとの利権争いも根深いな。
レオン、そっちの交渉はどうなってる?」
司令部の執務室。
カイルは山積みになった書類を捌きながら、窓際に立つレオンに問いかけた。
カイルの腰には今も漆黒の聖剣が差し込まれているが、その表情にはかつての「迷える勇者」の面影はなく、一国の、あるいは新連合の指導者としての厳格さが宿っている。
「上々だ。
連中もバカじゃねえ。
神の威光を失った今、ソリダリスの資源と『勇者』の武力なしに冬を越せないことは分かっていやがる」
レオンはタバコの煙を吐き出し、苦笑いを浮かべた。
「にしても、お前さんもタチが悪くなったな。
ガルシアの奴が乗り移ったかのような強気な交渉術だぜ」
「……あいつに、いつ帰ってきてもいい街だと思わせなきゃいけないからね。
それに今の僕が弱腰だったら、あいつに『やっぱりバカだな』って笑われるのが目に見えているから」
カイルは窓の外、広場の中央にそびえ立つ「氷像」を見据えた。
あの時と変わらぬ姿で掲げられた右手。
ガルシアは今も、神の毒を浄化しながら、この街を守り続けている。
氷像の足元には、常に一人の女性の姿があった。
「――おはようございます、ガルシアさん」
ノエルは毎朝、欠かさず氷像を訪れ、その冷たい表面に手を当てて癒やしの魔法を送り続けていた。
ロキが言った通り、彼女の祈りがガルシアの魂を繋ぎ止めていると信じて。
「今日は、遠くの街からたくさんの子供たちが学校へ通い始めたんですよ。
レオンさんは相変わらず文句ばかり言っていますけど、カイル様が一生懸命みんなをまとめてくれています」
ノエルは優しく微笑み、氷の表面に額を寄せた。
数ヶ月間、休むことなく注ぎ込まれた彼女の魔力と祈り。
氷は当初の禍々しさを失い、今では穏やかな、まるで眠っているかのような透明度を帯びている。
「……寂しいけれど、不思議と独りじゃない気がするんです。
貴方の鼓動が、少しずつ、力強くなっているのを感じるから」
その時、ノエルの耳に、微かな音が聞こえた。
――パキッ。
ノエルは目を見開いた。
幻聴かと思ったが、掲げられたガルシアの指先。
そこから髪の毛ほどの細い亀裂が走るのが見えた。
「え……?
ガルシア……さん?」
震える声でその名を呼ぶ。
すると、それに応えるかのように音が連鎖し始めた。
パキパキ、パリンッ! と、静かな広場に硬質な音が鳴り響く。
「……っ、カイル様!
レオンさん!!
ガルシアさんが…… ガルシアさんが!!!!」
ノエルが裏返った声で、背後の司令部を見上げて叫んだ。
その必死な呼び声と、氷像から発せられる尋常ではない魔力の脈動に、バルコニーにいたカイルとレオンが身を乗り出した。
「何っ……!? まさか!」
「おい、冗談だろ……!?」
二人は階段を転がるようにして駆け下り、広場へと飛び出した。
氷の中に封じられていた、どす黒い神の魔力はもうどこにもない。
後に残されているのは、澄み渡るような純粋な冷気と、内側から溢れ出そうとする凄まじい「生命」の予感だった。
氷の亀裂は一気に全身へと広がり、朝日に反射して眩い光を放つ。
「ガルシアぁぁぁッ!!」
カイルが叫び、ノエルが祈るように両手を握りしめる。
世界が固唾を呑んで見守る中、氷の檻はついに限界を迎えていた。
神という過去の遺物を完全に浄化し終えた新時代の「魔王」が、今、長い眠りから目を覚まそうとしていた。
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