046.女神の囁きと真実の鏡
玉座の間へ戻る俺の背中には、広場に跪くカイルの気配がいつまでもこびりついていた。
ノエルが横で、安堵と悲しみが混ざったような複雑な表情を浮かべている。
誰も死ななかった。
それは奇跡に近い幸運だ。
だが、俺たちの間に刻まれた亀裂は、死人が出なかった程度で塞がるほど浅いものではなかった。
「……ガルシアさん。
本当に、これでよかったのでしょうか」
ノエルの問いに、俺は答えなかった。
――答えれなかった。
右手のどす黒い冷気が、まるで俺自身の魂を侵食していくかのように、ジンジンと痺れている。
俺たちはもう、引き返せない場所まで来てしまった。
◇◇◇
一方、月明かりの下、氷の欠片が散らばる広場。
カイルは剣を杖代わりに、力なく地面を見つめていた。
「……正義って、なんだ。
僕は、何のために剣を振るっているんだ」
自嘲気味に呟いたカイルの声に、不意に、軽やかな笑い声が重なった。
「――ふふ。
初めまして、勇者カイルくん。
そんなに落ち込んで、まるで世界が終わったような顔じゃな」
空間が歪に揺らめき、闇の中から漆黒のドレスを纏った女が姿を現した。
夜の闇をそのまま形にしたような美貌。
その女―― ロキは、カイルの警戒を意に介さず、優雅な足取りで歩み寄る。
「……誰だ。 何者だ、お前は」
カイルは咄嗟に聖剣の柄を握り、鋭い視線を向けた。
ソリダリスの結界の内に、こんな異質な存在が入り込んでいるなど聞いていない。
「私?
そうだね、しがない『傍観者』とでも名乗っておこうか。
……ああ、ガルシアの脳内では『ロキ』なんて呼ばれているけれど」
「ロキ……?
ガルシアの知り合いなのか……
そんなやつがなんの用だ!」
カイルが放つ殺気を、ロキは柳に風と受け流し、楽しげに目を細めた。
「わらわはただ、お主があまりに哀れじゃからな、少し『真実』を教えてあげようと思っただけじゃ。
お主が守るシトラス王国、そしてあのルイン王が、その高潔な正義の裏側で、どんな**『醜い後始末』**を行っているかをね」
「陛下が…… 後始末だと?」
「そうじゃ。
勇者様という眩しい『光』を掲げている裏で、王宮がどれほど無慈悲に民を**『間引いて』**いるか……。
真実をわらわが見せてやろう。
その鏡に映る光景が嘘だと思うなら、君の聖剣で叩き割ればよい」
ロキが指を鳴らすと、カイルの目の前に漆黒の魔力の鏡が浮かび上がった。
鏡の中に映し出されたのは、シトラス王国の平穏な街並みの裏側。
そこでは、戦費を捻出するために全財産を没収された農民たちが路頭に迷い、抗議の声を上げた村人が「魔王の協力者」という濡れ衣を着せられて次々と処刑されている凄惨な現場だった。
「これは…… まさか、そんな……」
「おやおや、驚いたかい?
君がソリダリスの『魔』を討とうと正義を掲げるたびに、ルイン王はその影で邪魔者を排除し、肥え太っている。
ガルシアが作ったこの泥臭い街の方が、君の故郷よりよほど清らかだと思わないかい?」
「やめろ……。 見せるなッ!!」
カイルが絶叫し、聖剣を鏡に向けて振り下ろす。
鏡は砕け散ったが、ロキの冷酷な笑みは消えない。
「正義とは、巨大な嘘を守るための隠れ蓑に過ぎない。
さあ、勇者くん。
君はまだ、その血塗られた玉座を守るために、親友を殺し続けるのかい?」
カイルの左手の「あざ」が、精神の崩壊に呼応するように、黄金色からどす黒い紫色へと変質していく。
信じていた世界が、音を立てて崩れ落ちていく。
「……僕は、僕は一体何のために……」
カイルの瞳から光が消え、深い闇が宿り始める。
女神の甘い囁きが、勇者という名の鎖を、最も残酷な形で引きちぎった瞬間だった。
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