凡骨は運命に救われる
強くても死ぬときは死ぬ。
後ろから聞こえる助けを求める悲鳴と肉の潰れる音にそんな当たり前のことを改めて理解した。
「急ぎましょう」
焦りが滲んでいるであろう声にドールさんは無言で頷く。
セマカの犠牲があってなお、逃げ切れるかと問われると微妙な距離が迷宮の入り口までにはある。
もう少し死体蹴りに夢中になってくれるものと予想していたのにミノタウロスの興味はすでにこちらに移りつつあるようで、背後から低い唸り声が聞こえた。
「……」
じわじわと迫る足音。
間に合ってくれと祈りながらなるべく早く、しかしバランスを崩してしまわないように着実に歩を進める。
「……っ」
右折して入り口を視界に収めた。
振り向いて視界がミノタウロスの姿を視界に収めた。
全身の細胞が逃げろと警鐘を鳴らす。
視界の端に得物を視界に収めたミノタウロスの嗜虐的な笑みが引っ掛かったが、それにいちいち反応している余裕すらこちらにはない。
理性が理解してしまった。
もはや視界に入るまでに近づいた入り口に三人で辿り着くことが不可能だということを。
間に合わない。どれだけ急いだところでこの速度ではミノタウロスが突っ込んできてこちらを蹂躙する方が早い。
──だから、二人を押し出した。
「……っ。レイ君何を!?」
「どう考えても間に合わないので先に逃げてください」
返答は待たない。
待ったところで否定的な言葉が飛んでくるのは火を見るよりも明らかだったから。
天井に打ち込んだなんちゃってフレイムが、何かを叫んでいるドールさんの言葉全てを消し去った。
今日だけで瓦礫の山を見るのはもう二度目だ。
「……もうひと踏ん張り、死ぬ気で逃げよう」
ただただ自分を鼓舞するためだけの意味のない言葉。
今日だけで二度目の対峙となる眼前の化け物相手にまたしても命がけの鬼ごっこをやらないといけない身としては意味がないと分かっていても恐怖に呑まれないために言うしかなかった。
知能があるがゆえに俺の自身の逃げ道を塞ぐ行いに警戒を見せたミノタウロス。
そのままでいてくれたら少しは逃げられる可能性も上がっていたのだろうけれど、すでにその警戒は解けて一本道であり、俺にとっての唯一の逃げ道である進路を塞ぐように大きく体を広げてその巨体は一歩ずつ着実にこちらを嬲るようにゆっくりと歩を進める。
とことん舐めている。
だがしかし、舐められて仕方のないだけの実力差があるのはもはや改めて考えるまでもない話。
グラフにしてもセマカにしても、俺なんかでは到底足元にも及ばない実力者だった。
しかし、そんな実力者相手でもミノタウロス相手には大した時間稼ぎにならずに蹂躙されて弄ばれて殺された。
だから、ミノタウロスは俺を舐めている。俺以外も、その全てがこいつにとっては獲物に過ぎず、自分が狩られる可能性なんて微塵も考えていない。
それが俺にとって唯一の救いだ。
その隙だけが今のこの追い詰められた状況を切り抜けられる唯一の可能性だ。
「……大丈夫。状況は、戻っただけ」
自身に言い聞かせるようにかすれた声で言葉を紡ぐ。
ミノタウロスが右腕を振り上げたのはそれと同時だった。
「……っっ!!!」
冗談みたいなサイズの斧が冗談みたいな速さで飛んでくる。
不幸中の幸いだったのは、それがすでに一度見た動きだったこと。
脳が理解するよりも早く、体がミノタウロスの予備動作にその経験を思い出し反射で体を操作する。
──回避した先で、瓦礫の山が粉砕される音と微かな悲鳴が聞こえた。
「…………ドールさん」
向けるべきではないと脳は理解して、それを無視して本能が向けさせた視線は後悔するには十分な惨状を映していた。
倒れた二人と血の海。ここからでは生きているかも分からない。
いや、そもそも分かったところで意味がない。
立てないなら、動けないなら、どれだけゴールが近くてもそこに辿り着くことはないのだから。
「……っ。……っぅ……っ」
二人のもとへ駆け寄ろうとして足が動かないことに気がついた。
瓦礫にやられたのか右足があり得ない方向に曲がっていた。
気づいた瞬間、右足を中心に痛みが全身を刺し貫く。
そして、理解した。
これは詰みだと。
たった一手で、全てをひっくり返すことができるだけの化け物。
この迷宮における頂点捕食者。
最も近い箇所にいる俺からということなのだろう。
狩りの終わりを確信したミノタウロスはその右腕を大きく振り上げる。
そして──
「頑張ったね、白鷺君。君のその足掻きが、君やその周囲を生かしたんだ」
頂点捕食者の理不尽な一撃で、当たり前のようにその命は奪われた。




