2014年 12月9日
二〇一四年 十二月九日
タバコをふかしながら「ねえさんって、好きな人居たことあるの?」と尋ねてきた。
かきあげた前髪をいじって、良い女みたいに振る舞っている。
「さすがに二十二年も生きているんだから、あるでしょ」
「ふうん、そうは見えないけど」白い手が、灰皿にタバコを押しつけた。「ねえさんって、いつも傍観者ってかんじよね」
「それはあんたでしょ」
わたしは唐揚げにかぶりつき、ビールで流しこんだ。静はからあげを軽蔑したように睨んでいる。「じゃああたし達、どっちも冷めているのね」
「双子だから、似ていてもおかしくはないね。こんな所だけ、似ていても仕方ないけど」
わたし達は、お互いをあざ笑った。二人で会話をすると、いつもそうなってしまう。だけ
ど、わたしは気づいていた。この子は静ではない。
静はタバコなんて吸わないし、こんな風にだらしなく椅子に座る子ではなかった。
「わたしがタバコを吸って、どうしていけないのよ」
「どうしてって言わないで」
彼女はにたりと口角を上げた。
「くだらない約束ね。少しずつ壊れかけている、可哀そうな約束」
しなを作って吐きだされる言葉は、熟しすぎた果物みたいだった。腐臭が漂っている。静はこんなことを言う子ではない。
いや、本当にそうだったろうか。これはだれの記憶なのだろう。もしかして静は、こうやってタバコを吸っていたのだろうか。
「なんとなくよ。ぜんぶ、なんとなく。ねえさんだってそうでしょう」
「そんなことないけど」
「なんとなく、タミさんのこと、好きになったの」
「そんな風に、全部をなんとなくで済ませていると、痛い目にあうわよ」
「やだ、ねえさんったら。もう痛い目にはあったわ」
テーブルの上を、黒いものが這い寄ってきている。オレンジ色の暖かい照明のもと、木目に染みこんでいくのは、醤油だった。
こぼれた醤油。それは、静の左手首から溢れている。そういえばあの子は、目玉焼きを醤油で食べていた。わたしは塩だったけれど。
「タミさんはねえ、醤油で食べるの」
「ああ、そう。そんなことに運命を感じているってわけ。馬鹿な子」
「もちろん、わたしって大馬鹿者だもの」
静は手首からだばだばと流れでている液体を止めようと、包帯を巻きはじめた。
「別に死ぬつもりじゃなかったんだけど、まあ結果オーライでしょ」
「死んだら、結果も何もないわよ」
「ねえさんって馬鹿ね」
「知っていると思っていた」
「死んだから、わたしのものになったのよ。そんなことも、分からないの?」
この女はわたしの妹ではないと気づいてはいたが、席を立つのは止めておいた。もう二度と会うことはないだろうし、少しばかりの戯言に付き合うくらいなら構わないだろう。
「タミさんの力って、意外と強いでしょう」自慢げに口を開く。「ねえ、あんなふうに抱きしめられて、どうだったの? うれしかった? 愛されていた?」
「愛されてなんかいないよ」
「当たり。あの人は、怖かっただけよ」
この女の言っていることは、全て的を射ているように思えた。ただ、それを認めるのが悔しくて「言われなくても、分かっているわよ」と言った。
「本当に分かっているのかなあ。あの人がなにを怖がっているのか、本当に知っているの」
「知っているよ」
「ううん、知らないよ。姉さん、タミさんはね、わたしが居なくなるのが怖いのよ」
彼女は大声で笑った。
「あの人は、心底怖がっている。もしわたしが居なくなってしまったら、彼は罰を受けられないもの。だれからも救われない」
「なによ、救いって」
「そんなこと、分かっているくせに」と上目づかいで挑発してくる。なんて腹の立つ女なのだろうか。横っ面を叩いてやりたかったが、ぐっと我慢した。
「タミさんは、花を育てる人なのよ」
むせかえるほどの、ユリの香りがした。違う。香りは強烈なユリでも、実体は異なる。
チューリップだ。目の前で、万華鏡のように咲きみだれている。
白いチューリップ。
花弁の間から、女は黄色い花粉をまとって飛びかかってきた。ワンピースの裾が揺れて、両手を押さえつけられた。
テーブルがひっくり返って、冷たいコンクリートに二人とも倒れこむ。
鬼のような形相をした女が、首に手を伸ばしている。花粉が顔に落ちて苦しい。息を吸わなければ死んでしまう。
「ねえさんは、わたしがきらいなんでしょう」
幼い静は、水色のスモッグを着て、わたしを見上げた。
「ええ、もちろん。あんたなんて大嫌い」
彼女は大声で泣きだした。
わたし達は、幼稚園の広場のど真ん中にいた。両手に抱えたぬいぐるみを、母親に奪われた。どうして双子なのに、仲良くできないの。
だれだろう、この人は。可哀そうな人だ。わたし達に戸惑っている。双子の娘の世話をすることは楽な仕事ではない。客観的な同情が顔の見えない母親にそそがれる。
ただ一つだけ理解してほしかった。わたし達は、自分という存在に困惑しているのだ。それは産まれてこのかた、最も嫌悪する自分自身を突きつけられているから。
だから、こう言ってやった。
「仲良くなんて出来るわけないじゃない。静って気持ち悪いもの」
静はとても傷ついた顔をした。幼い顔から、いつの間にか二十二歳のあの子に戻っていた。タバコは吸っていない。「そうだよね」とほほえんで、もうなにも言わなかった。
本当に気持ちが悪いのは、吸い殻を足で揉み消している、わたしだった。
ひんやりした感触を、額に感じた。
「すげえ汗」というつぶやきが聞こえて、なにかで顔面をこすられた。まぶたを開くと、毛羽だちが眼球に当たって痛かった。
マスクを着用した憲明が、覗きこんでいる。
「タミさんが、なんか要るものあるかだって」
首を横に曲げると、みしみしと音がするようだった。背中が汗まみれで気持ち悪い。高熱特有の倦怠感を感じる。
部屋には夕日が射しこんでいる。病院から帰宅したのが午前十一時ごろだったので、あれからぐっすりと眠っていたようだ。
手を切って大騒ぎになったのも束の間、命からがら浴室から出た途端に吐き気を感じた。熱を計ってみると、三十八度。迷惑の掛け通しで自己嫌悪が酷かったが、この熱だと暗い気持ちすら継続するのが難しい。インフルエンザではなかっただけ、まだマシだと思うしかない。
「なにもいらない」
絞りすぎたぞうきんみたいな声が出た。咳をすると、急に年を取ったような気分になる。
「メシは?」
「要らない」
「なんか食べないと治らないぞ」
「移っちゃうわよ」
布団から手を出して、追い払う仕草をした。
「一緒の家に居る時点でお察しだろ」
「夏目さんのところにでも行ってなさいよ」
「いま何月だか知ってんの? 師が走るって書いてシワスだぜ。父ちゃんは忙しいんだよ」
あんた息子でしょうと心の中で思ったが、もう会話するのに疲れてしまった。
目を閉じると、ほんの少しだけ安らぐ。
「熱は?」
脇にぐいぐいと体温計がささってくる。先端が冷たくて、過敏になっている皮膚が緊張する。電子音が鳴る。
「くどはちぶ。あと二度上がったら死ぬな」
「いちいち言わなくていいよ……」
「りんごでもむいてやろうか」
「危ないからいい」
それでも「あれをしようか」「これをしようか」と聞いてくるので、アイスが食べたいと頼んでみると、二つ返事で部屋を出て行った。
やっと静かになった部屋に安心していると、間髪入れずタミが入ってきた。まさかのマスクすら着用していない。
「あんたら……」
どうして病人を大人しく寝かせてくれないのだろう、と思ったが、
「要らないんですか?」と、高級アイスを見せびらかされたので口をつぐんだ。
タミはあぐらをかいて、アイスクリームのふたを開けた。のっそりと身を起こすと、さりげなく枕を背中の後ろに置かれた。
スプーンが突き出された。白い固まりと指先を見比べる。
「溶けますよ」と催促されたので、仕方なく口を開く。
慎重な手つきで、スプーンが舌の上に滑りこんできた。口内に冷たさが心地よい。タイミ
ングよく餌づけされていると、おやつを与えられている犬のような気持ちになる。
「手は大丈夫ですか」
右手には包帯がしっかりと巻かれている。
「うん、そんなに痛くない」
あの時は気づかなかったが、傷口はたいして深くなかった。現代の進化したカミソリで、ここまで上手く手を切ることの方が難しいと、今朝行った病院でお医者さんに笑われた。笑い返す元気もなかったことが悔やまれる。
「なんか、ごめんね。迷惑かけてばっかりで」ため息を吐く。
「回復したら、ちゃんと働くから」
「お願いしますよ」次の一口を差し出される。手慣れた仕草だ。こうやって人にものを食べさせることが多いのだろうか、なんて考える。
昨夜のことを、どちらも口にしなかった。なんとなく、触れない方が良いような気がしていたのだ。風邪を引いたことは不幸中の幸いだったのかもしれない。もし平常運転で生活していたならば、彼の顔を正面から見ることすら難しかっただろう。
静に見えたのだろうな、と気づいてはいた。
血を見て怖かったのはわたしも一緒だった。あの子が呪っているんだとパニックになって、一人だったら泣き叫んでいたかもしれない。しかし自分より怖がっている人間がいると、不思議と冷静になってしまうのが常だ。
わたしを発見した時の彼は異常に怯えていて、発揮されなくても良い観察力は、視線が過去に飛んでいることを理解した。
それならば、彼が腕に閉じこめたのは、わたしではない。
「前にも、こうやって食べさせていました」 追い打ちをかけるように、彼はつぶやいた。
「静?」と確認すると「そうです」と肯定する。やっぱりそうか、と心中で頷く。
枕の位置を正してもらって、横になった。
彼は空っぽになった紙ケースの中を覗きこんでいる。
「タミはさ、静のこと好きだったの?」
目が合った。
「いいえ」そう答えると、決めていたような言いかただった。
アイスのふたを重ねて、その中にスプーンを置いた。
「そのときは、付きあっている方が居ましたから」
「木元さん?」
タミは眉をひそめた。大当たりを引いたことが、こんなに残念な気持ちになるとは思わなかった。
「このあいだ、シュウくんに誘われた飲み会で会ったの」
彼は「なるほど」と大変嫌そうな顔をした。
「やっぱり、行ってほしくなかったんだ」
するりと落ちた言葉は、普段ならためらって口には出さないはずだった。彼はなにも言わなかったので、それが答えだと思った。
「木元さんから、直接聞いたわけじゃないよ」と弁解すると「分かっています。彼女は口が堅いので」と素っ気なく答えられた。
そうだろうな、と思う。表情に戸を付ける事は、どんな大人でも難しい。彼女の話をする際に、ほんの僅かに冷たくなる不躾さが嫌だった。流れた年月を感じる、
「どれくらい、付きあっていたの?」
「四年、いや、五年くらいですかね」
「そんなに長く付きあっていたんだ」
よくて三年程だろうと、高を括っていた。改めて木元さんの顔を思いだす。美人で明るい彼女とタミは、足りないところを補え合える良きパートナーに思えた。
「俺の就職だとか向こうの修士試験だとか、いろいろあったので、あまり交際している感じはありませんでしたけどね」
「そっか」布団の中に、口元をうずめる。「なんで別れちゃったの」
病人だからといって、聞いてはいけない質問かもしれなかった。だが、彼は意外なほどあっさりと「俺の浮気です」と答えた。
「うわき」
「ええ、浮気。他の女の子とキスしている写真を突きつけられて、ジ・エンドでしたね」
「それって、静?」
頭に手が置かれた。指先が髪の毛をすく。なんで恋人みたいなことをするんだろうと思った。だがそれも、わたしの勘違いなのだろう。彼も少し熱っぽいのかもしれないし、昨日の今日だから仕方がない。
彼は空中に答えが書いてあるかのように、ふと上を見て「違いますよ」と答えた。
わたしが上体を起こそうとすると「水でも持ってきましょうか」と優しく尋ねる。
「介護されているみたい」と顔をしかめると、にこにこしながら膝をたてて、立ち上がろうとする。
普段なら遠慮して出来ないことでも、菌に侵された体なら可能になる。Tシャツの襟を掴むと、彼は驚いた顔でやっとわたしを見た。静ではなく、わたしを。
「タミってさ、嘘をつくとき上を見る癖があるよ」
彼は目を丸くして、そして、思いきり噴き出した。
「負けましたよ」と笑ってくれて、それで安心した。安心して良いわけがないのに、この男がわたしにまだ嘘をついてくれることに、居場所を見出している。
本当にわがままだ。いつか完全に静になる日が来るかもしれないのに、それでも、もう少しだけ。わたしを見ているのだと思いこんでいたい。




