2014年 12月15日
二〇一四年 十二月十五日
真理子さんと夏目さんは、十年前に離婚した。
出会いは十二年前の冬。新宿のとあるバーで、夏目さんは当時の彼氏と甘い言葉を囁きあっていた。お互いに秘密の恋だ。夏目さんは社会の荒波に漕ぎ出したばかりの新人、相手はやり手の銀行員だった。二人は仕事が終わった後、人の目を盗んで、逢瀬を重ねていた。
しかし、あろうことか夏目さんの彼氏は二股をしていた。そしてある夜、浮気に腹を立てた、相手がバーに殴りこんできたのだ。
二股男の股間めがけて、ぴちぴちのタイトスカートが破れんばかりのタイキックを決めた彼女こそ、若き日の真理子さんだった。
「彼氏の浮気相手の男と結婚するってすごいですよね」
「そう? まあ、夏目はどっちもいける人だったから」
彼女は頬杖をついて、当時を懐かしんだ。
「なんだかね、夏目を見た瞬間、全てのことが、どうでも良くなっちゃったのよ。恋に落ちるって、ああいう感じね。まあ、わたしも他に相手が居たから、そこまで元彼に対して怒っていた訳じゃなかったんだけど」
「あいかわらず、奔放だったんですね」
あいづちを打ちつつ、コーヒーをすする。
「でも、付きあってすぐに結婚して、憲明を産んで、それから二人とも違和感マックスだったからね。これ、わたし達じゃないなって思っちゃって」
彼女はストーブに足を突き出した。
「結婚生活を送って、普通の女だったんだなって思ったわ」
片手でぽん、とお腹を叩く。
「まぎれもない、幸福でしょう? 好きな人がいて、その人の子供を産んで、なんだ、わたしってこんなに平凡な幸せを享受できる人間だったんだって、自分でもびっくりした」
「でも、違ったんですよね」
机の上には、カップが二つ並んでいる。
十二月十五日、穏やかな日曜日の午後、わたしと真理子さんは部屋でくつろぎながら、ケーキをつついていた。
男四人は近所の山に遊びに出かけている。なぜこんな時期に山登りをするのかと聞くと、「男同士にしか分からないこともある」と、シュウくんが自慢げに答えたので、それならばこちらも女同士で語り合うしかないと集まっているのだ。真理子さんはいつものことながら饒舌で、その波乱に満ちた人生は聞いていて飽きることがなかった。
彼女はわたしの問いかけに唸って「のぞみちゃんは、どんなときが幸せ?」と尋ねた。
「いま、まさに幸せですよ」
ケーキをフォークの端っこで、少しだけ削る。
「こんなに美味しいケーキ食べたの、初めてです」
彼女は嬉しそうに「良かった」と言うと、
「のぞみちゃんって、素直な所が男心をくすぐると思うわ。男って奴は、シンプルなことしか分からないのよ。だから、素直な子が好きよ」と独特なセンスで褒めてくれた。
「真理子さんに言われると嬉しいですけれど、今まで男心をくすぐった実感が無いですね」
「この家の男連中は、みんなのぞみちゃんのこと大好きよ。わたしも、のぞみちゃんのことだーいすきだけど」
にんまりと子供のように笑う。真理子さんは今年で三十八歳だそうだが、どこかあどけない仕草をする。
「わたしはね、いろんな人に愛されていることが幸せだった」
真理子さんは続ける。
「いわゆるチヤホヤよ。わたし、いろんな人にチヤホヤされていたかったわ。だから、ただ一人、旦那だけに愛されている状態で満足できなかったのね」
「チヤホヤされたいとは、みんな思っているはずですけれど」
「そりゃそうでしょう。だれだって、人から好かれたいわ。でも、わたしはもっともっといろんな角度から、いろんな人に好かれていたかった。我慢できなかった。で、気づいたわけ。やっぱりこれが、わたしなのかもって」
彼女はわがまま極まりないことを述べて、両手を広げた。「普通の旦那なら絶対に許さないと思うけど」
「でも、相手は夏目さんだった」と指を立てる。
「そう、それが幸福中の不幸というか、不幸中の幸い?」
彼女はくすくす笑いをする。
「夏目もわたしと同じくらい馬鹿だった。だからさっぱりと離婚したの。あの人も、同じことを考えていたから」
「夏目さんらしい」と頷く。
「そうでしょう。元々、あの人のそういう所を好きになったんだけどね。ただ憲明が居るから、どうしようって思った」
彼女はふと顔を上げて「わたし達のしていることって、世間様から見たら酷いことなんでしょうね」と苦笑した。
もし世間の人々が彼女の発言を聞いたらどう思うかなんて、統計を取らなくても分かりそうなものだった。きっとわたし自身も赤の他人の話だったならば、厳しい目を向けたはずだ。
「酷いか、酷くないか、決めるのは憲明ですから」
今度はケーキを贅沢にすくって食べてみた。ちまちま食べるのも悪くないが、大きな一口の至福感には敵わない。
真理子さんは、もっと大きな一口をすくって、頬張った。リスみたいで、可愛らしかった。彼女はにやにやしていた。
「わたしって幸せものね」
「どうしてですか」
「だって、こんなにわがままに生きているのに、こんなに素敵な人に囲まれているわ」
「タミとかシュウくんもですか」
首を傾げて「そうね」と悩んだ。
「シュウは顔が良いから、目の保養になるわ。タミも、まあ悪くないわね。夏目が惚れているだけあって、やっぱり人に無いもの持っているわよ」
「分かるような、分からないような」
「タミは人たらしよね。ああいう男って、タチ悪いのよ。気をつけなさいね」
彼女はそう言って、意地の悪そうに笑った。
「ああいう男って、ほんとに、タチ悪いのよね」
「二回言わなくても、分かっていますって」
「ふうん。ねえねえ、のぞみちゃんの恋バナが聞きたいわ」
彼女は修学旅行の夜に浮かれる女生徒みたいに、うきうきと身を乗り出した。
「わたし、たいした恋愛経験ないですけれど」
「付きあっていた人は居るんでしょ?」
質問の勢いに押されつつ、頷く。「やっぱり」と目を輝かせた。
「大学で一人。高校で、一人だけですよ」
「やだ、一途なのね」
なぜか照れたように、肩を叩かれた。
「一途でもないです。高校のとき、付きあっている人が居たのに、バスケ部の部長が好きで、試合応援に行ったりしていましたから」
「どうして、その人と付きあわなかったの?」
「その部長さんは、静の彼氏だったんです」
「あら」真理子さんは意表を突かれたような顔をした。「やっぱり双子って、好みが似るの?」
「そんなことないって高校までは否定していましたけれど、実際、そういう部分はあります。好きな雰囲気とか、顔が似るっていうか」
「そのとき付きあっていた人は、好きじゃなかったの?」
思い返してみたが、好きという感情どころか、どんな顔だったかさえも曖昧だった。
ぎこちなく通学路を歩いた記憶がよぎる。友達と呼べるほど仲良くもなかったから、とにかく話題に困って、早く帰りたかった。
「好きだったと思います。すごく優しい子だったから」
風邪で学校を休んだとき、彼は玄関のドアノブにプリンの入った袋を下げていってくれた。メールすら寄こさないくせに、何故そんなことをするのだろうと不思議だった。同居していた叔母さんがからかってきて、とても気まずかった。
好きだったに違いない。ただそれは記憶に残らない、優しすぎる好意だった。
「部長さんの方がより好きだったんでしょうね。彼は格好良くて、学年でも憧れる子が多かったから」
「静ちゃんに、好きだったってことは話していたの?」
「いいえ。でも、知っていたと思いますよ」
双子というのは不思議だ。言葉が無くとも、なんとなく意図が伝わるときがある。
練習試合の付き添いに初めて誘われたとき、静はわたしの気持ちを汲み取った。そして、誇らしげに笑った。けして嫌味たらしくもなく、ただ嬉しそうだった。
「なんで傍に居る人より、だれかのものを欲しくなってしまうんでしょうね」
白い皿に残った食べかすをつつく。みじめったらしい気持ちだけは高校生のときと、さほど変わらない。
「そうねえ。気持ちはわかるわよ」真理子さんはしみじみと言う。
「ただ、静はその人と半年で別れたんです」
「なんで?」
「彼が、バスケ部の後輩マネージャーに乗り換えたんですよね」
静は別れた後、驚くほどケロリとしていた。悲しむでもなく、恨み事を言うでもなかった。
「一か月くらい経って噂が流れたんです。静が彼の子供を、堕胎したって」
初めはクラスの女子の間で広まった。そして先輩後輩間を通じて、学校全体に広がった。そっと保険の先生に呼び出された静は否定したが、そのときにはバスケ部の彼は部活を辞めざるをえなかった。
真理子さんは感嘆のため息をついて「静ちゃんって、昔から恐ろしい子だったのね」と言った。
「腹いせにしては、陰湿すぎますけれど」
「まあ、恋愛事は、なにが起きてもおかしくないから。元は彼が捨てたわけだし、イーブンイーブン」 波乱万丈な恋愛を経験してきた彼女が言うと、実感がこもっている。
「多分本気で好きだったのよ。だから、それだけ腹が立ったの。愛されていたのだから、幸せものじゃない」
「愛というか」彼からしたら、そのような愛は要らなかっただろう。「依存ですよね」
真理子さんは「依存って恋の原点よ」と良いことを言ったかのように、あごをつんと突き出した。
「そうですね」と頷いて、一息ついた。
「わたしも恋したいなあ」と、彼女は天を仰いだ。「映画みたいな、胸ときめく愛が欲しい!」
「真理子さんは、いつも恋しているでしょう」
この間も営業に来た男の子が好みだと、十歳も年下であることを顧みることもなく、食事に連れて行っていた。
それを指摘すると「かわいかったわね」とにやける。「若い男の子って良いわよ。母性を刺激されるというか、弱いものに愛着をもつのは人間の性だわ」
「ダメな所を好きになってしまうってことはありますよね」
「ダメな所って人間くさい所なのよね。人間だから、やっぱり人間に恋しちゃうのよ」
スマートフォンが震えた。画面を開くと、シュウくんからメールが届いていた。
添付されている自撮り棒を使って撮影された写真は、背景に山々を覗かせている。満面の笑顔のシュウくんは疲労困憊のタミの肩を抱え、その奥でこちらに背を向けた夏目さんが憲明を肩車している。
「あの子、山登り、初めてなんじゃないかしら」ひょっこりと画面をのぞいた真理子さんがつぶやいた。「夏目ったら、ちゃんと水筒とか持たせていた?」
「巨大なアウトドア用のやつ、持っていきましたよ」
メッセージが届いた。「タミさんが死にそう」という文章の後に、ぶれた写真が添付されている。死にかけた男の撮影を試みた結果のようだ。
「なに、にやにやしているのよ」
ほおを突かれた。
「楽しそうだなあって思って」
「こいつ、全然楽しんでなさそうだけど」
彼女は写真とわたしを見比べて鼻を鳴らし、大きなビジューのついた指先で画面を叩いた。「山も海も、都会すら楽しめない引きこもりのくせに」
非常に不服そうに言うので「夏目さんの方が、断然格好良いですよ」と言ってみる。
「そうよ、夏目のほうが五十倍くらい良い男よ。のぞみちゃんも、こっちにしておきなさい。それか憲明にしなさい。わたしの子だから絶対イケメンになるし」
「だれもシュウくんのことは、勧めないんですね?」
「だってシュウはおしゃべりだもの。おしゃべり男はダメ」
顔を見合わせて、笑った。楽しい時間は、意味のあることを忘れさせてくれる。
たとえば、夏目さんと真理子さんの身勝手さ。たとえば、静の復讐心。たとえば、すぐ傍に迫っているクリスマス。
「そういえば、今年はここのブッシュドノエルを頼んだわ」真理子さんはケーキ屋のパッケージを指さした。憲明の要望を彼女なりに叶えようとしたらしい。「よく分からないんだけど、ブッシュドノエルもチョコレートケーキも、似たようなものよね?」
多分違うけれど、わたしは頷いた。大事なのは中身であって、名前ではないだろうから。




