2014年 12月24日
二〇一四年 十二月二十四日
外苑通りを訪れると、二十歳のクリスマスを思い出す。
当時交際していた二つ上の先輩は、イルミネーションよりわたしに注目していた。
背伸びして購入したコートに頑張りすぎた生足が凍えそうだったので、温かいコーヒーにしがみついて、電飾に見惚れる女を演じるしかなかった。
「のぞみって、意外と可愛いよな」
意外とはなんだと思ったけれど、お褒めの言葉に弱いのは責められるべき点ではない。気分を良くして、ほほえんでみせた。
だがまぶたの裏に報道写真のように焼きついているのは、人ごみだけだ。今日この日のためにあらん限りの努力をした女性たちが、幸福を演じる姿があまりに眩しくて、隣を歩くあの人の顔面は逆光で記憶の片隅にもない。
そんなものだ、と思った。そんな風になにもかも忘れて、過去になっていく。今の生活も、そうなのだろうか。忘れたくないと思っていても、すべて無くなるのだろうか。
ガラス張りの建物を見上げ、地図を確認する。
指定された場所は、ここで合っている。店内に入ると、適度な賑やかさがあった。
「のぞみちゃん」と肩に手を置かれる。振り返ると、木元さんが顔の横で手を振った。
「二階、行こっか」彼女は上を指した。「上の方が、眺めがいいよ」
「よく来られるんですか」
「一回だけね。普段はこんなとこ、来ないわよ」
わたし達はホットココアを注文して、二階に上った。陽射しが射しこむおかげで、暖房は効いていなさそうなのに寒さを感じなかった。
カウンター席の端に座って、ココアを一口飲む。
「世間はクリスマスねえ」と、彼女がつぶやいた。「あたし、この後ケーキ売りのバイトよ。高校生に混じって、クリスマスケーキを売るの」
「ケーキ屋でアルバイトしているんですか?」
正直彼女には似合わない。きりっとした印象の彼女とケーキという甘ったるい言葉の組み合わせが、違和感を生むのだ。
「ううん、コンビニ。しかも深夜。高校生のボーイとガールたちは昼間働いて、その後デートよ。店長なんて予定聞いてきすらしないから。木元さんは今年も居るよねってな具合よ」
「それは」言葉に迷う。「信頼されているんですね」
「院生って、意外と忙しいんだけどね」彼女はおどけた様子で言った。「のぞみちゃん、彼氏は?」
「いません」
「モテそうなのに。あ、嫌味じゃないわよ。素直な気持ち」彼女は片手を振って「この間、居酒屋でも思ったんだけど、のぞみちゃんってモテるでしょう」と言った。
そんなことはないと否定しようとしたが、思いとどまった。彼女と会話をする上で、形式的な否定は要らないような気がしたからだ。
「ありがとうございます。でも、好きな人には好かれないんです」
「好きな人に好かれることなんて、滅多にないわよ」彼女は苦笑した。「昨今は好きって感情自体、無い人も多いし」
「若者の恋愛離れってやつですか」
「いろいろ複雑になりすぎている所はあるわよね。ほら見て」窓ガラスを指差す。鼻筋の通った彼女の顔が映っている。その向こうで、人々が通りを歩いていた。
「ここを歩いている恋人たちの何パーセントが、相思相愛なのかしらね」
目を細めて、道行くカップルを数えはじる。「いち、に、さん……よん。なによ、イブだって言うのに、少なくない?」
「平日ですし、時間も時間ですからね」
店に居る人々も、恋人同士よりわたし達のような女性連れやミセスのグループが半数を占めている。まだ光の灯らない木の影を歩いていく人達も、たいていが一人歩きだ。
「あのカップル、どっちが告白したと思う?」
窓の右端をこんこんと叩く。わたしと同年代くらいの男女が歩いている。表参道に相応しい、垢ぬけた様子の二人だ。黒づくめの服がはまっているモデルのような男の子と、小動物のような雰囲気をもつ女の子は、手をつないで楽しそうに会話をしている。
「彼女の方ですね」
「なんで?」と彼女は楽しそうに尋ねた。
「男の方が、あきらかに女性受けしそうだからです。多分、サークルの先輩と後輩かなにかで、男の方が元々同級生の女性と付きあっていたのを、あの彼女に略奪された形ではないでしょうか」
木元さんは「ナイス、推測」と親指を立てた。「たしかにその線はありうる。あの外見で、内面は肉食系ってのはあるあるパターン」
「木元さんは、どう思うんですか?」
彼女は「ふむ」と唸り、探偵のようにあごに手を掛けて「あたしは、身体から入ったタイプだと思う。で、実際は付きあっていない」と見解を述べた。
「イブにですか」
「あくまでイブの昼間だからね。男はステディな彼女が居なくて、でも遊んでいる自覚がないタイプ。女はそれが分かっていて、ときどき病みながらも諦められないタイプ」
「あるあるパターン、泥沼バージョンですね」
「本当に、あるある。あたしの周辺でも、そういう男居るし」
彼女はおもむろに携帯を開き、画像を見せてきた。
集合写真だ。背景が暗いせいで、どこで撮影したのかは不明だが、おそらく居酒屋の前だろう。手前の端っこであらぬ方向を見ている男が目に留まった。どこにでも居そうな大学生だ。やる気のないスウェット姿で、地べたに座っている。
目が見開かれているのは、横の女性が彼のあごを取って、キスをしているからだった。
「事故写真」
画像が消えた。木元さんはわたしの顔面をつぶさに見た。
「似ていないって、思っているわよ」
「……すみません」
「あの時は、まさかお姉ちゃんに謝罪されるとは思っていなかったわね」
「その、交際していたことは、この間タミから聞きました」
彼女は少しだけ寂しそうに笑って「男って、ろくでもない生き物よね」と言った。
画面に触れると再び写真が現れた。二十そこそこのタミは、どこからどう見ても普通の大学生だし、わたしと同じ顔をした女は、どちらかと言うとわたしに見えた。
「あたしがサークルに入ったとき、タミさんはゲイだって噂が立っていたの。しょっちゅう二丁目で飲んでいたし、そういう知りあいが居るっぽかったし」
夏目さんと知り合ったのも、二丁目のバーだと聞いている。友人と会う為だとしても、周囲はそうは見ないだろう。
「それで、うら若きあたしは知恵を働かせたわけだ」彼女は一息おいた。「自分と付きあえば、そういう噂も立たなくなるんじゃないですかって言ったわけ。理由付けがあれば、食いつくんじゃないかって。アホらしい」
強気そうな彼女が、緊張しながらタミに提案している情景が思い浮かんだ。
本心を隠しきれてはいなかっただろう。本当は好きでたまらないのに、それを正直に伝えることが出来ないのだと、目線の動きから判別出来ただろう。
携帯を片手にしている彼女を見て、ふと自分の心の中にどうしようもない失望感があると気づいた。こんなに綺麗で、こんなにもちゃんとした女性と交際していたのだ。それがこんな写真一枚で別れることになって、どんなに勿体ないことをしたと思っているだろう。
写真が右にスライドしていく。「付きあいたてかな」テレビを観ている彼が写っている。「自撮りとか、嫌いそうだったし。あたしもそこまで執着していなかったから、びっくりするくらい二人で写っている写真ってないんだよね」
次の写真も隠し撮りだった。寝顔は、今とさして変わらない。
「タミさんって、他人に期待しないでしょう」
彼女は頬杖をついて、窓の外を眺めた。
「なに言ってもなにしても、そうですね。分かります。そうですねって」
「木元さんにも、そうだったんですか」
「そうだね。あの人、キスも手をつなぐのも、自分からしなかった。だから、そっちからして欲しいって言ったのよ。そしたら、なるほど、分かりましたっていって、次のデートから律儀にやってくれたわ。嫌味ったらしいくらいスマートに、教科書でも読んできたみたいだった」
当時を思い出したのか、少しだけ語気が荒くなったが、すぐさまそれを恥じるように、声を落とした。
「好かれていたわよ。長年付きあっていたしね。でも静ちゃんが出てきて、すごく焦った。あの子はわたしと違ったから」
優越感を感じた。それが顔に出ないように、目を伏せて「木元さんの方が、タミと合っているように思いますけれど」と言った。
「ベクトルの問題ね」と、彼女はつぶやいた。両手の人さし指を平行に並べて「タミさんとあたし」と説明する。「同じ方向を向いている、けれど、お互いのことを見ていない」
人さし指は向きあって、爪の先をぶつけあった。「静ちゃんは、これ。だれに対しても、そうだったわね」
指のぶつかり合いを眺めながら「あの子、戦闘民族なので」と言うと、田中さんは大声で笑った。
「そうね」と何度もうなずき、目を細める。
「あの子を見たときにね、すごく生き辛そうだなって思った。隠しているようで、隠せていない。嘘しか言っていないようで、本音しか言っていない。そんな子をね、あの人が放っておけるわけないのよ」
スプーンから零れ落ちそうなアイスクリームを思いだす。普段は他人に甘えなどしない静が、タミにはそれを許した。それが全てだと思った。
そしてそれでもあの子が好きではないと、わたしに伝えたあの男も、全てなのだ。
「あの子、馬鹿正直にあたしに宣戦布告したのよね」
聞いただけの話なのに、木元さんと静の対峙する場面が脳裏に浮かぶ。ぼろぼろのサークル棟で、静はまっすぐな目をしている。
「わたしはタミさんが好きです。あの人が必要なんです」
赤い口紅を塗った唇がゆがむ。にんまりとすると、彼女はとても絵になる。
「たいして親しくもない先輩に向かって、これはどうして素晴らしい胆力じゃない?」
「必要です、とはなかなか。しかもそんなに長い間付きあっているのに」
「しかもね、木元さんはあの人じゃなくても良いでしょうって言ったのよ。あの人じゃなくても、大丈夫でしょうって」
わが妹ながら、なんて子だろう。あらためて謝りたい気持ちになるが、木元さんはからりと笑っている。
「正しかったわね。あの人ね、あたしみたいな女に興味ないタイプだったのよ」
「木元さんみたいなっていうのは」
「かわいくない女」彼女は続ける。「強い女。意見を主張する女。手をつなぎたがる女」
「日本一の大学の院に進学するような?」
彼女は嬉しそうに頷いた。「そうよ」
「タミは木元さんみたいに頭の良い人が、大好きですけれど」
「そうでしょうね。でも、恋愛にはならない」誇りと諦めをない交ぜにしたような、口ぶりだった。
「あのね、つまりは主従関係なのよ。同等じゃ、ときめきもなにも生まれないでしょう。静ちゃんはそれを理解して、自分から下におりたのよ。その時点であたしの負け」
「でも木元さんだって、タミが好きだったでしょう?」
なぜそんなことを聞いてしまったのか、自分でも分からなかった。わたしは同意を求めるように、彼女を見つめた。
「そうだよ」と、優しく答えた。不躾さを受けとめて、穏やかだった。
「でも、あたしの好意は信仰じゃない。横に並んで、同じ人間として、好きだっただけ。静ちゃんは」
口を付けることを忘れていた、ココアを飲んだ。
「静ちゃんは、神様に恋していたみたいだった」
言葉が思いつかなかったので、わたし達は歩道を観察することに努めた。
男女に限らず、二人組が増えていく。
親子連れが歩いていて、夏目さんと憲明を思い出した。憲明と、真理子さん。真理子さんと夏目さん。シュウくんとクイーン。
わたし達はそれぞれを知っているから、道行く人たちと区別がつくけれども、彼らだって見知らぬ他人だったら有象無象と一緒だろう。
先程みたいに分類は推測の域を出ないまま、考えることを放棄される。いちいち他人のことを引っくり返す暇は現代人に無い。
だけど、もし放棄しなかったのならば、どうなってしまうのだろうか。溺れる魚をすくいあげ、水槽に移し替えてしまったなら。
窓ガラスの中が、アナログテレビみたいにちらつく。
映像が二重になる。
霧がかった中を、手が伸びてくる。受話器が取り落されて、がしゃんと耳をつんざく。掠れた声が、わたしに伝えようとしている。
信仰に目覚めた人間の末路を、わたしは知っている。




