2014年 12月24日
二〇一四年 十二月二十四日
憲明はブッシュドノエルに刺さったモミの木を引き抜いて、自分のケーキに植え替えた。
真理子さんは笑いをこらえながら「お味はいかがですか、王子様」と尋ねる。
「おいしい」憲明は小さな声で答える。
「オレ最近思うんですけど、美味いものって、ゼロの近くで究極に美味くなりません?」
こいつは何をほざいているんだ、という視線をひしひしと感じたのか、シュウくんはタミに助けを求めた。
「ゼロっていうのは、価格のことでしょうか。千円、一万円のゼロ?」
「そういうことっす。タダと、千円と一万円。三千円のメシとかって、あんまり美味くないですよね」
「中価格帯のメシなんて、たいして食べていないだろう」とナツメさんが笑った。「美味いものはどんな値段でも美味いし、まずいものは百万出したってまずい」
「これ、税込み一万二千円よ。ゼロから離れている」
「値段と味が比例しないことは、よくあるよね。喫茶店のコーヒーとか、びっくりするくらいまずいのに千円くらい取られることあるし」
「なんでシュウ兄は、ゼロを例えに出したんだ?」
口々に突っ込みを入れられたことにもめげず、「一番言いたかったことは、タダメシは美味いってことだから」と胸を張った。
御馳走にあやかって満腹なわたし達は、両手を合わせた。
電飾もツリーも無いが、聖夜とはこういうものだったかと安心する。家族ではないが、家族のような人たちと迎えた二十四日は、素晴らしく平凡でとても素敵だった。
食器を片づけていると「イルミネーション見にいきてえ」と、シュウくんがぼやいた。
「なんか今、めっちゃ見に行きたい気分。のぞみん、カップルの間を割って歩く遊びしようぜ」
「楽しそうだけど、寒いからやめとく」
お湯を使って皿洗いをしなくてはいけないくらい、今日は冷えこんでいる。ホワイトクリスマスになるかもしれない、と天気予報のお姉さんも言っていた。
「ええ、じゃあタミさん」
「そんなことをして、虚しくならずにいられるような神経を持ちあわせていませんよ」
「憲明、奴らに思い出をプレゼントしてしようぜ」
「ブラックサンタって言うんだろ、そういうの」憲明はカーテンをめくって「それにもう夜だよ」と外を指さした。
「近くの遊園地なら、三十分で行けるもんね」
時計は午後六時半を指している。たしかに今から行けば、閉園時間には間に合うだろう。
「遊園地か」と夏目さんがつぶやいた。「遊園地、いいよな」と真理子さんに視線を向ける。彼女はすぐさま嬉しそうに「いいわね」と言った。
「ねえ、憲明。シュウはともかくとして、遊園地行きましょうよ」
真理子さんは早速口紅を塗りなおして、立ち上がった。夏目さんも素早く上着を持ってきて、憲明に手渡す。「たまにはな、いいだろ」
「シュウは荷物持ちね。クリスマスくらい、人の為になることでもしなさいな」
彼女は自分のバッグを渡すと、夏目さんの腕をとった。
「別にいいっすけど」とシュウくんも準備をし始める。
「ちょっと、おれ、行くなんて言っていないけど」と憲明が唇を尖らせたが、父親に突然抱き上げられたことに驚いて文句を言うのを止めた。
「たまには俺達とデートしよう。な?」
二人とも満面の笑みだ。夫婦は顔が似るというが、それは元夫婦でも適応されるらしい。
憲明は両親のわがままには慣れっこだという顔でため息を吐いて、地面に降ろされてからは、口をひん曲げはしても反抗を止めた。
「タミとのぞみちゃんはどうする?」
顔を見合わせる。タミが口を開いた。
「のぞみさんは病みあがりですし、大人しくしています」
勝手に答えられたことに文句を言いたくなったが、家族団らんを邪魔する気はないので、口をつぐんでおいた。
「俺も寒いのは勘弁なので、遠慮します」
「のぞみちゃんに変なことするなよ?」
「しませんよ」肩をすくめる。「聖なる夜に不埒なことを考えていると、バチが当たりますよ」
玄関で四人を見送った。階段の下で憲明が小さく手を振った。あんなに不愛想な顔をしておいても、心の中では嬉しいのだろう。
キッチンでコーヒーを入れ、リビングでくつろいでいるタミの向かいに置く。
「今年は、もう会社行かなくていいの?」
いつも机の上に置いてあるパソコンが、今日は無かった。
「明後日行って、軽く報告したらおしまいですね。今年は急いで終わらせたので」
「そっか。じゃあ年末はのんびりできるね」
「角もちの、醤油ベースでお願いしますね」と言い、机に手をついて、猫のように背中を伸ばす。しばらく意味が取れなかったが、お雑煮のことかと閃いた。
「関東風が良いんだ」
「根っからの関東っ子なので」と親指で自分を指す。
電気ストーブの乾いた風が頬に当たる。肌に悪そうだなと思っていると、
「クリスマスの思い出ってあります?」と、やぶから棒に話しかけられた。
「人並みにはあるけど」
「人並みにって便利な言葉ですよね」
「だって特別おもしろい話なんてないもの。そういうあんたは、特殊な思い出があるわけ?」
タミは待っていましたとばかりに姿勢を正した。「実はあるんですよ」
「自分が話したかっただけでしょ」
「ええ。今日は俺の誕生日なんです」
間が空いた。タミはしてやったりと言いたげに、口に弧を描いている。
「嘘でしょ」と白い目で言った。もし本当だったならば、みんなが黙っていないはずだ。
しかし彼は「本当ですよ。なんなら免許証見ますか?」と財布を持ってきて、証拠を見せびらかしてきた。
紛れもない事実だった。三割増しで死相が出ている写真と本人を見比べる。
「みんな、そんなこと言っていなかったじゃない」
「密かに黙っておいてくれ、と頼んでいたので」
タミは隠し通せたことに満足しているようだった。なぜそんなことをしたのか、こちらには一切理解不能だったが、とりあえず「三十路おめでとう」と伝える。
「ありがとうございます。それで、プレゼントの話なんですけれど」
「黙っておかれたら、なんにも用意できないよ」
もし前もって知っていたら対策をしていたのに、当日に請求されても、腹正しいことこの上ない。こちらとしては、きちんと対策をしたかったのに。
わたしの気持ちを知ってか知らずか、タミは「そうでしょう」と頷いた。
「そう思って、あらかじめ用意しておきました」
「なにを?」
「誕生日プレゼント、ですよ」
意味が全く分からなかった。タミは寝室に入って、がさごそと戸棚の上を漁りはじめた。
そして紙袋を取り出して「はい」と、わたしに差し出した。
「これ、いったいなに」と紙袋を指さすと、彼はしらっとした顔で「だから、誕生日プレゼントですってば」と答えた。
「わたしの誕生日は、明々後日なんだけど」
押し問答に堪えきれなくなったのか、彼は声をあげて笑いだした。
「俺の誕生日プレゼントは、あなたにクリスマスプレゼントを贈呈する権利です。つまり、ボーナスです。たいしたものではありませんが、そういうことなので、さっさと開けてください」
「ボーナスなんて要らないのに」と文句を言うと、
「人の親切を無碍にするものではありませんよ」と返された。
納得いかなかったが、これ以上意味のない会話をしても仕方がない。
紙袋を受け取り、中身を出した。それは軽くて平たい白色の箱だった。同色のリボンには、聞いたことのないブランド名が書かれている。
疑心の目を向けるが、早く開けろと促されるだけだった。危険な物が入っているとは思えないが、タミのことだからびっくり箱である可能性もある。
恐る恐るリボンを解き、ふたを取る。薄い紙に包まれた、ふわふわした物が目に飛びこんできた。触れてみると、ぎょっとするくらい柔らかい。
それは純白のニットだった。川の流れのような模様や、しっとりした手ざわりが、決して安価なものではないことを示している。品質表示を確認するとスコットランド製、カシミア百パーセントとの記載があった。
「値段聞いてもいい?」と尋ねると、タミは「主婦みたいですね」と苦笑した。
「たいした値段じゃないですよ。それにこの間、勝手に俺のパーカーを着て出かけたでしょう。ああいう行為を止めるための、必要経費ですから」
タミはそう言うと、さっさとリビングに戻ってしまった。セーターを丁寧に折りたたんで箱に詰めてから、元の位置に正座する。
「本当にもらっていいの?」箱を抱きしめながら聞くと「ボーナスなので、受け取ってもらえないと雇用主として困りますね」と答えられた。
箱を見下ろす。いつ購入したのだろう。
「タミって、サプライズとかするんだね」と、安易なことを言ってみる。
「俺をなんだと思っているんですか」彼はコーヒーを一口飲んで、余裕を覗かせた。
嬉しさと奇妙な気持ちが混ざり合い、ようやく口にした礼の言葉は、自分が想像したよりも冷たかった。
タミはこちらを伺いながら、カップを机の上に置いた。「どうかしましたか」と尋ねた声がとても優しかったから、彼はだれに向かって声を掛けているのだろうかと不思議に思った。
体が透明になったような気がした。透けた体の向こうでは静が笑っていて、わたしには言葉を吐く資格すらないのだと実感する。
ふと、木元さんの言葉が脳裏をよぎった。静は、自分から下に降りたってさ。
納得がいった。口を開く。
「お礼しなきゃね」
彼は「そんなもの要らないですよ」と苦笑した。「お礼にお礼で返されても」
「ううん、わたしが返したいの」
妙に頭が浮ついている。腹の底は熱く燃えているのに、脳みそはやたらと冷静だ。
箱を置き、彼の足元によつん這いになって近づいた。おやつをねだる犬のように、見上げる。硬直した表情は、これからの発言を察しているようだった。
カップを置いた姿勢のまま動けないでいる手に、自分の指を這わせてみる。固い節をなぞると、皮膚の薄さが分かる。ソーサーが音を立てた。
「お礼、しようか」
首をかしげて、ほほえんでみる。上手に芸をしている自信があるのは、わたしが一番得意な物まねだから。
手首に向かって指を滑らせる。のどぼとけが動く。いつもの軽い冗談が返ってこないことが面白く、悲しかった。「ね、好きだったんでしょ。してもいいんだよ」
それはわたしではなく、わたしの形をした彼女だ。それでも、手を握ってくれるのならそれで構わない。図々しく愚かで、なにもかもを侮辱している方法なのだとしても、構わない。
彼はぴくりとも動かなかった。太ももに手を置いて、そっと体を近づける。
「ねえ、タミ」
息を吸いこむ音が、耳の横で聞こえた。肩が押され、バランスを崩す。
床にへたりこんで見上げた彼は、一切の感情を表に出していなかった。あえて例えるなら、汚れた野良犬を見るような。
ぴんぽーんと間のぬけた音がした。
凍った空気の中を、もう一度チャイムが響く。
タミは勢いよく立ち上がった。玄関へ向かう背中を、呆然と見送る。拒否が具現化したように、扉が大きな音をたてて閉まった。
体に力が入らない。後悔することすらも出来なかった。置きっぱなしの白い箱が目に留まった。わたしは、なにをしているんだろう。
涙が出そうになって、慌てて目をつむった。泣いてはいけない。彼を傷つけたのに、泣いていいはずがない。
立ち上がって、携帯と財布と上着を持った。最低限、必要なものだけあれば良いだろう。戻ってきても彼はののしりもしないだろうから、黙って出ていこう。そうするべきだ。
正座をして、ただひたすらにタミが戻るのを待った。
しかし五分経っても十分経っても、彼は戻って来ない。なにをやっているのだろう、と少しずつ冷めてきた頭に疑問が浮かんできた。扉の方に向かう。小さく声が聞こえている。
廊下を覗きこむと、タミの背中が見えた。なにやら言い争っている。背中越しに青いニット帽と、ダウンジャケットがちらちらと見える。
目が合った。
「朝日」
タミが振りかえった。ぎょっとした様子の彼を押しのけて「のぞみ!」と声を荒げたのは、見知った顔だ。
コンビニのビニール袋をさげた朝日は、憎々し気に「やっぱり居るじゃないか」と言った。
タミが無表情で「これ以上入ったら、家宅侵入罪で訴えますよ」と警告するが、
「じゃあ、俺も誘拐罪で訴える。のぞみ、行こう」と意にも留めなかった。
朝日はタミを押しのけて、わたしの手を掴もうとした。とっさに後ずさりする。いったいなにが起こっているのか、整理がつかない。
「朝日、なんで」と疑問を口にすると、朝日は「こいつは神様なんかじゃない」と、断固たる口調で告げた。
タミを親の仇でも見るような目で睨みつけて「全部インチキなんだよ。早く帰ろう」と続けるもう一度腕が伸びてくる。首を横に振って拒否する。
「意味が分からないよ。それに、なんでここを知っているの」
「このあいだ、様子がおかしかっただろ。だから」
「尾けていたってこと?」
彼は悪びれもせず「聞いても教えてくれないと思ったから」と言った。あの時穏やかに別れたそぶりで、後を尾けるつもりだったのだ。
「なによ、それ」語尾が震えた。こんなことをする男だったろうか、と過去の記憶を探る。そんな人間ではないと、一年前のわたしは釈明する。
それならば、可能性は二つだ。朝日がこの一年間で変わってしまったか、わたしの行いが彼にこんなことをさせてしまうくらい、異常だったのか。
「この家、妙な人間ばっかり出入りするんだってな。聞いた話じゃ、住民に神様扱いさせているんだって?」犯人を追い詰める探偵のように、淡々と話し続ける。
「のぞみは、くだらない宗教なんかにはまる奴じゃないだろ。こんな男にひっつかまって、なにやっているんだよ」
彼は自分に正義があると確信しているのか、人の気持ちを推しはかれない子供を叱るような口調で言い放った。
「妹さんが亡くなって辛い気持ちは分かる。でも逃げるにしたって、こんな場所に居ちゃダメになる。もし居場所が無いなら、俺達が助けるから」
訴えかけてくる朝日の視線をさえぎるように、タミが立ち塞がった。
「本日はお帰りください。話しあうのなら、また後日に」
冷静な態度が気に食わなかったのか、朝日は目尻を吊り上げた。
「帰ったら、のぞみになにするか分からないだろうが。いいか、おっさん。あんたらが宗教だ神様だってやっていたって、構いやしない。だけどな、のぞみには未来があるんだよ。あんたらみたいな、日陰者と一緒にするな」
タミは一瞬、険しい顔をした。だがすぐに息を吐いて、
「分かっています」と答えた。
「ですが、彼女にも準備がある。このように、いきなり連れ出そうとされても戸惑ってしまうでしょう。きちんと段階を踏んで……」
朝日は言葉をさえぎり、タミの胸倉を掴んだ。
「黙れよ。その詭弁でどれだけの人を騙してきたんだ。のぞみの妹さんも、あんたが騙くらかしたんだろう」
血の気が引いた。朝日はそんなところまで調べていたのか。
「近所の人に聞きこみしたんだ。二十代くらいの若い女の子は、もうずっとあの家に出入りしているって言ってたよ。なあ、それって双子の妹さんのことだろ?」
「朝日、やめて」
聞きたくなかった。それでも朝日はなにも自分は間違えていないと揺らぎない確信を抱いて、まっすぐにわたしを見つめてくる。
「身のほど知らずだって? 分かっているよ、そんなこと。でも、見て見ぬふりできない」
正義の味方のような瞳は侮蔑をこめてタミを睨み、胸倉を掴む手を乱暴に離した。そして、これで最後だとばかりに手を差し伸べる。
「のぞみ、帰ろう」
奇妙なくらい優しい口調が、うなじを這いずっていく。嫌悪感がわずかに感じられていた友情をも破壊していく。
差し出された手を見て、罰なのかもしれないと、冷めた声がわたしに囁いた。
朝日に乱暴なことをさせ、今もタミを傷つけている。あんなことをした罰が、降り注いでいる。死を冒とくした罰。あの子のふりをした罰。全ての罰。
それならば、わたしはどうするべきなのだろう。
震える腕を持ち上げる。手首をだれかが掴んだ。視線を上げると、タミは相変わらず野良犬を見るような目でわたしを見ている。
「友人なら、きちんと彼女の話を聞くべきではないかと思いますが」
まだ平静を保っているような口調だったが、力はどんどん強くなっていく。
「ああ、そうだな。だけど、それは帰ってからにする」
朝日はわたしの手首に視線をやった。痛いくらいに強く握りしめられている。指先の感覚が失われていく。
「タミ、離して」
彼がこれ以上、こんな汚いものに触れる必要はないのに、振り払おうとしても全然動かなかった。普段パソコンしかやっていない癖に、どうしてこんなに力の差があるのか不思議だった。思わず笑いがこぼれて、視界が歪んだ。頬を流れていくのは、また甘えている証だった。
「てめえ、離せっつってんだろ」朝日が怒鳴って、タミの腕を掴んだ。
嫌な予感がした。握ったままだったビニール袋を、振りかぶる。
放物線を描いて、にぶい音がした。
うめき声を下に、朝日が肩を蹴り飛ばして、わたしの腰を掴んだ。あっという間もなく、足が地面から離れ、視界が逆さまになる。灰色のタイルの上に散らばった血液が見えた。
かすれた悲鳴が、のどの奥からひっかき傷のように漏れた。口を押さえつけられ、くぐもった声と恐怖が、体の中で旋回する。
朝日が扉を潜った。急に体が反転して、上半身の支えが消えた。とっさに腕で地面に手を付くが、すぐに下半身も宙に浮いて、太ももが地面に叩きつけられる。蛙のような叫び声が、廊下に響いた。
脇の下に手を入れられ、扉の中に引きずりこまれる。間髪入れず扉が閉められ、慌ただしく鍵とチェーンが掛けられた。足元にスプレー缶が落ちる。いつかシュウくんが置いていった、防犯用の唐辛子スプレーだ。
「これ以上は、警察を呼びます」
荒い息で告げられた言葉に、扉を叩く音と、わたしを呼ぶ声が止んだ。
「帰ってください」と言ったが、小さすぎて扉の向こうには届かなかっただろう。
タミは糸が切れたように、扉にもたれかかった。切れた額から血が出ていて、背筋が凍った。「血」とかすれた声で指摘すると「分かっていますよ」と、苛立たしげに返された。腰が抜けてしまったわたしの横をすり抜けて、リビングに戻っていく。
廊下に這いつくばって後に続くと、この間みたいに薬箱から包帯を取りだして、ぐるぐると額に巻いていた。
「消毒、した?」そう問うと、手が一瞬止まってまた巻きだした。笑うひざを押さえて、立ち上がる。薬箱に手を掛けると、弾かれたような痛みが手の甲に走った。
だんだんとピンク色にそまっていく片手を、二人で呆然として見つめる。
「すみません」と機械のような声が謝罪した。「ちょっと、休みます」
タミは立ち上がって、寝室へ向かおうとした。その前に飛びだして無理やりソファに座りなおさせた。
抵抗はなかった。ただ、後悔するように、握りしめられた手が痛々しかった。謝ろうとして、止めた。謝ったところで、わたしの罪悪感が軽減されるだけだ。
髪をかきあげると、一センチほどの切り傷が、きらきらと光を反射しているのが確認できた。消毒液をティッシュに含ませて、そっと傷に当てる。頭部は血が止まりにくいと聞くから、早く救急車を呼ぶべきだ。
「病院、行かなきゃ」
「大丈夫ですよ」と答えた声は、不気味なくらい淡々としている。
「もしかしたら、脳に影響が出ているかもしれないし。CTスキャンとか、撮ってもらって」
机に置きっぱなしだった携帯を手に取ると、タミは諦めたように「呼ぶならタクシーにしてください」と言った。
「そんなに、おおげさな傷じゃないですから」
「でも」と逡巡していると、携帯を奪い取られた。それ以上、逆らう気にはなれなかった。
「分かった。これ当てて横になっていて」
タクシー会社に電話した後、夏目さん達にも連絡しようか迷っていると「夏目達には、階段から落ちたことにしておいてください」と釘を刺された。
「面倒くさいことになるのが嫌なんです。久しぶりにお酒が飲みたくなって、コンビニに行こうとしたら足を滑らせた、ということで」
片手で傷口を撫でながら、教師が生徒に指示を出すみたいに「いいですね?」と確認する。
「分かった」と頷く。結局のところ、わたしがここを出ていって朝日に説明すれば丸くおさまる話だ。夏目さん達とも、そっと別れた方が良いに決まっている。彼が面倒事が嫌だと言うのならば、それに従うのがわたしに残された最低限出来ることなのだ。
知っている限りの応急手当を終え、携帯が鳴るのをひたすら待つ。
タミは顔に腕を乗せて、なにも言わなかった。沈黙を守ってくれていることがありがたかった。もはや謝罪すらも意味を失うくらいに、わたしは過ちを重ねている。
タクシーが来て、財布と携帯だけ持って家を出た。わたしが付き添うことにも、彼はなにも言わなかった。
やっと言葉を発したのは、待合室での「腕、痛くないですか」という、ぼんやりした
質問だった。診断により、頭部に異常無しと判明した後だった。
待合室は徹底的に節電されていて、頭の上に一個だけ蛍光灯が灯っていた。私とタミ以外にはだれも居ない。薬剤師の人は痛み止めを準備しに、奥へと引っこんでしまった。
「痛くないよ」
彼はそうですか、とつぶやいた。青白い光が、彼の髪の毛を黒々と光らせていた。ふと見上げた瞳は、ビー玉みたいだった。
「明日、暇ですか?」
問いかけがあまりにもいつも通りだったので、とっさに反応出来なかった。
なにを考えているのか、表情からは読みとれなかった。受付の奥に顔を向けたまま、こちらを見てはいない。
「行きたい場所があるんですけれど、ついてきてくれませんか」
病院を出て彼を家まで送ったら、すぐに出ていこうと考えていた為に、すぐに頷くことが出来なかった。それでも「いいよ」と笑ったのは、首を縦に振ろうが横に振ろうが、同じことだからだ。
「約束ですよ」 タミは座りなおして、こちらに体を向けた。
またもや嘘をつこうと口を開く。そこに、親指が突っ込まれた。驚いて背もたれに体を預ける。かすかに鉄の味がした。下あごの臼歯を、指の腹がゆっくりとなぞる。
目を白黒させていると、彼はキスする直前の男みたいに、優しくほほえんだ。
「あなたは、嘘をつくときに笑う癖がありますね」
ゆっくりと親指が抜かれていくと、唾液が糸を引いた。それと同時に、言葉も一緒に引き抜かれてしまったのか、嘘も本当のことも言えなくなった。
意趣返しのように返されたこの台詞が、以前のように安心させてくれるものでは無くなったことを思い知る。彼はもう、わたしの嘘に付きあってはくれない。
頬に手を寄せて真正面から見た瞳は、どこからどう見ても透明人間のことなんて見てやしなかった。




