2013年 12月25日
二〇一三年 十二月二十五日
昨日は結局、ホワイトクリスマスにはならなかったな、と思った。
ざんざんと降る雨が、コンクリートをねずみ色に染めている。ビニール傘越しには、見慣れた風景しか見えない。
肌ざむさに震えながら、急ぎ足で帰る。
手袋を着けて来れば良かった、と思った。スーパーの袋が手のひらに食いこんで痛いのだ。
しばらく歩いて、通い慣れたアパートに辿り着いた。ぎしぎし鳴る階段を上がって、部屋に入った。付けっぱなしにしてある電気ストーブが、リビングを蒸し暑くさせている。
彼はソファの上に横たわっていた。顔の上に片腕を乗せて、眠りについている。毛布が落ちていたので戻してあげると、小さくうめいた。
呼吸が浅く、悪夢を見ているのだろうかと可哀そうに思った。
彼の携帯が震えた。
「もしもし」と電話に出ると、
「あ、静ちゃん。おはよう。やつの調子はどうかな」
夏目さんは駅かどこかで電話をしているのだろうか、少しだけ声をはっていだ。
「大丈夫ですよ。すみません、心配かけて」
「いや、こちらこそ迷惑かけてごめんな。あいつも大人なんだから、自分の体調管理くらいしっかりしないといけないんだけどなあ」
兄のような言葉だ。彼だって本当は傍に居たいのだろう。ただ戒める理性を持ったが為に、苦しんでいるのだ。
そんなことには知らないふりで「まだ寝ていますから、起きたら折り返し電話させますね」と言った。
「ああ。ちゃんと薬飲めって言っておいて」
あいさつをして、電話を切る。そして、零、九、一、一、と暗証番号を打ちこむ。
メッセージアプリを開くと、最新のメッセージに「わかった、無理しないでね」と書かれていた。
彼女はこの人に対して怒らない。怒ってもどうにもならないと、長い時間で知ったからだろうか。その余裕が、ときとして憎らしい。
今年の九月十一日のことを思いだして、笑いがこみあげた。彼はあの日だけ帰ってこなかった。夏目さんもシュウくんも普段通りだったのが、余計に苛立った。
そんな気持ちも、今はどこかへ行ってしまっている。
スクロールしていく。だいたいは友達や、仕事仲間からの誕生日を祝うメッセージだった。
よく好かれる人だ。祝いの言葉の数は、彼が他者の心に食いこんだ記憶の数。そしてそれは、彼が自分を押し殺して他者を助けた行いの数だ。
画像フォルダを開いてみる。ほとんどが文書や資料のスクリーンショットだったから、人の顔が映っているとそれだけで目立った。
春にみんなで京都へ行ったときの写真。夏目さんが酔っぱらって帰ってきたときに撮った、半裸の写真。隠し撮りした、彼女の寝顔。
一番最近の写真は、居酒屋の前で撮ったものだった。
あの時あんまりにもショックだったのだろうか、彼は怒りもせずに「なにかあった?」と心配してくれた。「君が無茶なことをする時は、悲しい時だろう」。
わたしは「悲しんでいるんですよ」と答えた。周囲は、まだキスには気づいていなかった。写真を撮ってくれた店員さんだけ、苦笑いをしていた。
写真の右下にあった削除ボタンを押す。画面は仕事で使うらしい資料に置きかわった。
携帯を元の場所に戻し、立ち上がる。はだしで歩く廊下は、ぺたぺたと音を鳴らす。引き戸をひいて、浴室に入ると冷たい風が吹き込んでいた。タイルに色々と転がっていたので、定位置に戻し、湯船の栓を抜いた。冷めた水が渦を巻いて抜けていく。浴室をすみずみまで洗いつくした。お湯が足にかかるたびに気持ちが良かった。
リビングに戻ってみると、彼はまだぐっすりと眠っていた。
傍にしゃがみ、頬をつついてみる。昨日の剣幕が嘘のように、穏やかな寝顔だ。ふと写真を撮ろうかなどと思ってから、面白くなった。これから先、そんな物は必要なくなるのに。
時計の針を見ると、午前十一時を指していた。寝室に入って、自分の携帯から電話をかける。いくらぐうたら大学生といえども、この時間なら起きているだろう。
はーい、と掠れた声が聞こえた。
「ちょっとねえさん、まだ寝ていたの?」
「あー、うん」ごそごそと衣ずれの音がきこえた。まだ布団の中に居るようだ。
「予定無いし、学校終わったし」と言い訳めいた答えが返ってくる。
「学生は暇そうで良いねえ」
「社会人に言われると、肩身が狭いわね」
「クリスマスなのに、なんの予定もないわけ?」
彼女はけらけら笑って「ケンカ売ってんの? あるわけないじゃん」と言った。
「へへ、わたしはあるの」
彼女は「あっそ」と吐きすてた。
「あのさあ、ねえさん」
「なによ」
「ユリと薔薇と、むくげなら、どれが好き?」
しばらくの間の後に「は?」と呆気にとられた声が聞こえた。
「だから、ユリと薔薇とむくげ」
「むくげってなに」
「花の種類だよ」と答えると、彼女は不機嫌そうに「知らないよ、そんなの。わたしはチューリップが良い」と言った。
「ねえさんは本当にチューリップが好きだねえ。幼稚園児なのかな」
「うるさいな。ユリも薔薇も気どりすぎな感じがして、好みじゃないの。チューリップくらいが、いじらしいでしょう」
わたしは会話を続けながら、パソコンを開いた。検索してみると、あいにくなことに、チューリップでも問題がないようだった。
「これって誕生日プレゼントに、なにが欲しいかって電話?」と能天気なことを言う。
「今まで一回もあげたことも、貰ったこともないけれど」
「だから、二十二歳にして心を入れ替えたのかなって……」
「あのさ」言葉をさえぎると、彼女は「なによ」としらけた声を出す。
「今、わたしがなにを考えているのか、分かる?」
目をつむる。暗い視界の中に、彼女の顔を思い浮かべる。わたしのようで、わたしではない。この世界で最もわたしの傍に居る人間の顔だ。
「双子なんだからさ、当ててみせてよ」
「そんなの分かるわけないよ。あんたとわたしは、別の人間だよ」
「そこをなんとか」
彼女は唸って「あえて言うなら、彼氏が欲しい」と言った。
「それは姉さんの願望」
「そうだった。うーん、独りぼっちでさみしい」
「それは」
「これもわたしの気持ちだわ。もう、やめよう。無駄きわまりない」
「あっそ、残念だな」
ばいばい、と電話を切った。
近場の花屋を調べる。この時期に、球根は売っているだろうか。クリスマス当日の花屋なんて行きたくはないけれど、それでも今すぐに行かなければならなかった。
隣の部屋から、なにかが落ちた音がした。
立ち上がって、扉を開く。雨の音がよく聞こえた。窓の外は灰色で殺風景だ。彼の家もそうだった。なにか、花でも飾ったほうがいい。
ソファの横に彼は居た。いつもなにを考えているのか、てんで分からなかったのに、今日だけは違う。
部屋に白いチューリップを飾ったところを想像すると、なんだかいい感じだった。これは
あの人の言う通りにせざるをえない。
窓の外をもう一度見て、彼を見た。これまでで一番、近い場所にいる気がした。神様はようやくわたしの元まで降りてきて、きっと救いの手を差し伸べてくれる。
もう独りぼっちではない。彼は今日、私を殺すのだから。




