2014年 12月26日
二〇一四年 十二月二十六日
昔から、花は好きではなかった。
虫が付くし、彩りなんて造花で充分。そう思っていたのは私だけで、彼女は玄関先に花を飾り、甲斐甲斐しく世話を焼いていた。次に生まれるのなら、花が良いな。そう話したのは、高校生の時だったろうか。
「花なら、どんな花でも愛されるでしょう。醜くても、枯れてしまっても、花だから愛される」
ロマンチシズムに浸った台詞は、大人になりかけたわたしの気持ちを逆なでした。だから、
「枯れた花はゴミ箱いきだよ」と言ったのだ。すると彼女は「人間は枯れていなくても、ゴミ箱行きだよ」と笑った。
チューリップが好きだと答えるのは、あの子が好きじゃない花が、それだけだったから。
じょうろをいったん持ちあげる。数回に分けて、水をあげなくてはいけないそうだ。花壇には、まだ土しか見えていない。今年も咲くのだろうかと下に埋まった球根を思う。あの日、この家の敷居を初めて跨いだ日に見たチューリップは、真っ白い花弁を揺らしていた。
空は灰色がかっている。湿気を含んだ息が、雲のように浮かんで消えた。
窓がこんこん、と叩かれた。サンダルを脱いで部屋に戻ると、暖房の暖かさが身に染みた。
タミは車の鍵をぶらぶらさせながら、わたしが支度をするのを見守っていた。どこに行くのかなんて尋ねても、どうせ答えはしないだろう。
夏目さんやシュウくんが心配して怪我の様子を問いかけても、彼はいつも通りの対応をしてのけた。妙に明るく冗談めかした物言いが、前髪から覗くガーゼの痛々しさを浮き立たせていた。
上着をはおって、視線を送る。彼は「行きましょうか」と言った。
玄関を出ると、階段の下に車が停めてあった。タミが先に車に乗りこみ、扉を向こう側から開けた。シートに腰を沈め、ベルトを締める。彼はよどみなくレバーとハンドルを操作し、車を発進させた。
「のぞみさんを乗せるのは、初めてですね」
そういえばそうかもしれなかった。彼は仕事以外では滅多に車を出さないし、わたしはこの一年近く遠出をしていない。そもそも車に乗ること自体が、久しぶりだった。
「免許は持っているんですか」と、普段と変わらない様子で尋ねられたので、頷いた。
「怖くて、あんまり運転したことはないけど」
彼はくすくす笑って「慣れれば簡単ですよ」と言った。じゃあ教えてよ、とわたしも普段と変わらない言葉を言ってしまいそうになった。飲みこんだ台詞が、胸のあたりでうずうずした。
「なにが怖いんですか」と聞かれたので「子供を轢くんじゃないかって」と答えた。見えない場所に、小さな子供が居たらどうしようと不安になるのだ。そう説明して、
「タミは、なにが怖かったの?」と聞き返した。
彼は後ろを確認して、車線変更をしてから「教官ですね」と答えた。
「若い女性の教官で、優しくて、美人だったんですけれど。高速道路研修の際に、パーキングエリアで告白されまして。まだ二十歳前の少年でしたから、動揺のせいで帰り道に死にかけました」
冗談を言いながら、直線でスピードを上げていく。彼の運転は上手かったが、どんどん過ぎ去っていく窓の景色を眺めていると、このままどこかの店に突っ込んでしまうのではないかと不安になった。
「女運が悪いんだね」と、つぶやく。すると彼は正面を向いたまま「そんなことありませんよ」と言った。
高速道路に乗ると、いよいよ曇天が頭上に迫ってきていた。「降りそうだね」という独り言には、なにも返答が無かった。
三十分ほど車を走らせて、着いた場所は広々とした駐車場だった。降りて周囲を見渡すと、看板には都内で有名な公園の名前が書かれていた。
タミはさっさと先に進んで行くので、慌てて後を追いかける。入場券を買って中に入ったが、天気が天気だからか、人はほとんど居なかった。大きな木が強風に揺られて、ざわざわと騒ぎだしていた。広すぎる公園は東京と言うよりも、どこか外国の森に迷いこんでしまったような気分にさせた。
やがて、小さな川に辿り着いた。川を囲むように花壇があったが、寒々しい土をさらしている。タミは広場の端にあるベンチに向かい、わたしに座るように促した後、自分もそこに落ちついた。
見るようなものと言えば、川と空しかなかった。色のない世界で、わたし達だけが浮いていた。問いかける必要もないほど、ここに来た意味が分かっていた。
「静、チューリップ嫌いだったでしょう」と話しかけると、
「すごく気分を害したみたいで、大変でしたね」と笑われた。「花が好きだと聞いていたから、車を出したんですが」
面倒な女だな、と思う。人の親切に気を遣うこともしないで、わがまま放題だ。
「どうして」と聞いたのは、もう約束なんて必要なかったからだ。どうして、この場所に来たの。
「ここに来たら、静ちゃんが居るような気がしたんです」と彼は言った。「でも、やっぱり居ませんでしたね」
彼は立ち上がって、わたしの方を振り返った。
「あなたは、だれですか」
優しい言葉だった。正気を自らの手で手放した男は、神様みたいに穏やかで、悲しそうだった。
だから、わたしはためらわなかった。マフラーを外して、上着を脱いだ。指をシャツの首元にかける。彼はわたしがそうするのを、なにも言わずに見ていた。
第三ボタンを外して、襟を広げた。頸動脈が、外気の冷たさに震えた。
「わたしは、静です」
あの日の記憶が、走馬燈のようによみがえった。耳の奥で、電話が鳴っている。部屋にはプレゼントが散らばっていて、わたしは布団に潜りこもうとしていた。眠い目をこすりながら、携帯を耳に当てた。雨の音が聞こえた。外は晴れているのに、どうしてだろうと思った。
ねえさん、と小さな声がわたしを呼んだ。聞きとり辛くて、わたしは「静?」と確認した。電話の向こう側の彼女は、眠たげな声で「そうだよ」と言った。
あのね、お願いがあるのよ、と彼女は続けた。欠伸をしながら、続きを促す。あのね、わたし失敗しちゃった。大失敗しちゃって、本当にがっかりしているのよ。だから、ねえさんに頼むの。どうかお願い、あの人に殺されてあげて。
妙な夢を見ているのだろうと思った。わたしは布団に入って、分かったよと適当に返事をした。ねえ、もう電話切ってもいいかな。すごく眠いの。
彼女は声をあげて笑った。本当に楽しそうだった。わたしもとっても眠いわ。ねえさん、わたしの大切な神様をよろしくね。あの人は、とても優しい人だから。
おやすみなさい、と告げたのはどちらだったろうか。
その日の夢の中で、静はとても綺麗な花畑の中にいた。川の向こう側で、こちらにほほえみかけていた。心の中は平穏で、やっと彼女が楽になれたのだと気づいたのは、本当はわたしも彼女が日々感じていた生きづらさを知っていたからだ。
だから手を振り返して、一つくらいお姉ちゃんらしいことをしてやっても良いと思った。あの子の願いを、一個くらい叶えてあげても罰は当たらない。
水面に波紋が立っているのが分かった。ぽつぽつと降り出している。
彼は怯えた顔で頭上を見て、ついでわたしの首元を見た。雨に怯えるのは、きっと彼女が死んだ日を思い出すから。手首の傷に怯えたのは、自殺したあの子の幻想を見たから。
そうだったら良かったのに、と思う。もしそうだったのならば、まだわたし達はやり直せた。
彼はこんなに冷えこんだ日でも、マフラーもタートルネックのセーターも絶対に着ようとはしない。首元に物が触れていることが、怖いのだろう。
ぱらぱらと音を立てて、本格的に降ってきた。彼は震える手で、わたしの首元へと指を伸ばした。指先は温かくて、彼女の歪んだ夢が手に取るように分かった。この愛おしい人間を手に入れる為ならどんなことでもするだろう、電話越しの彼女のほほえみが、今なら理解できる。花を摘んで、枯れるまで愛でるように、壊すことで手に入れたいと願ったあの子の気持ちが、痛いほどに理解できる。
それで本当の愛情が失われてしまうのだとしても、それでも、あの子は手折ることを選んだのだ。なによりも、この人が必要だったから。
あの子の夢も、今日で終わる。
「タミさん」と夢見心地でつぶやいたのは、だれだったのだろうか。徐々に掛けられていた力が止まった。彼の瞳の中に、わたしが映りこんでいた。
二人とも、激しくなっていく雨に打たれて濡れそぼっていく。手は首から離れて、わたしの肩を掴んだ。「どうして」と尋ねると、弱弱しく笑った。
「静ちゃんは、俺のことをタミなんて呼びません」そう言って、両手が頬を包んだ。まるでお風呂に入っているみたいに全てが水にまみれた世界では、感触だけがそこにある。
「俺が静ちゃんを殺してしまったんです」苦しそうに呼吸をする。「だから、もうあの子はどこにも居ないんですね」
彼がそう言った途端、わたしの中のあの子も消えてしまった。にやにや笑いを浮かべる顔も、意地悪な物言いも、花を愛でる指先も、全て雨に流れていく。
ごめんなさい、と言ったのは、姉らしいことを最後の最後までしてあげなかった贖罪をすることさえ、もはや出来ないのだと分かったからだ。
彼を傷つけた罰も、あの子が欲しかった救いも存在しない。今、ここに居るのはわたしと彼だけだった。夢は終わって、現実だけが残った。
雨は降り続けて、いつかわたし達ごと、この世界からかき消してしまいそうだった。助ける女性を失った神様は、笑いながら「あなたが好きでした」と告げた。もしかしたら泣いていたのかもしれないけれど、頬の上で雨粒と一緒に溶けてしまって見えなかった。
わたし達に許しを与えてくれる人はもう居ないのだと知っているから、最後にもう一個だけ罪を犯す。ほほえんで、彼の肩を引き寄せる。
触れた唇は冷たいだけだ。わたしも好きだったのよ、と言う口はもうどこにもない。ならば、わたしが言わなくてはいけない。あの子はあなたを世界で一番愛していたのだ、と。




