2013年 12月25日
二〇一三年 十二月二十五日
あの日はものすごい雨で、クリスマスだなんて信じられなかった。
知り合いに誘われたのは、ただの飲み会だったはずなのだが、なぜだか年収一千万円以上の旦那をご所望な女性が、たくさん同席していた。
値踏みするような目には、見た目が悪かろうと、味がよければ良しとする主婦の意気ごみのような考えが見受けられて、清々しいくらいだった。彼女達は、自分達の衣装総額分を足しても追いつけないような、ブランドもののバッグをぶら下げて、太ももに手を置く。
彼女はそんな集団に埋もれていて、だけれども二軒目に行くときに、どうしてか二人きりになっていた。うずうずした様子で彼女は尋ねた。
「なんで神様なんて、信じているんです? こんなにもみんな不幸せで、だれも救われていないのに」あの子は賢しげなふりで、こちらを試すような口ぶりをした。意気揚々と答えたのは、知識自慢がしたい性だった。
「だれも救われていない世界だから、神様が居ると考えるんだ」
「それはどうしてですか?」またもや、試すような口ぶり。
「神様って呼ばれている奴等はね、あまねくみんな、世界に絶望した人間達だからだよ。どんなに倫理を説いても私利私欲のために平気で仲間を殺し、意味もなく自然の秩序を壊していく人間に絶望したから、自分をかなぐり捨てて神様になったんだよ」
「ねえ、すぐるさんって、ちょっと電波入っているって言われるでしょう」そう笑って、シナを作ってみせる。軽蔑を表に出さないように、
「俺は無神論者だけど、倫理には殉教するつもりなんだ」と言い捨てたのだが、その後の彼女は今まで見たことがないような、無垢な表情をしていた。
そして新しいおもちゃを与えられた子供のような笑顔を浮かべて「すぐるさんって面白いね」と言ったのだ。その笑顔に見惚れてしまったのが運の尽きだったのだと、今では思う。
どうにも恥ずかしいことばかり言ってしまう俺を、彼女はいたく気に入った。この世界でなにを優先し、なにを守るべきなのか、彼女はオセロゲームに興じるように、白と黒をしきりに引っくり返して問いかけ続けた。
そして話続けるうちに、彼女が感じている小さな軋みが明らかになった。悲惨な身の上話を話すときはケロリとしているくせに、スーパーに並べられている豚肉を見るときは、この世全ての悲しみを背負っているかのような顔をした。面白いのは君の方だよ、と何度も伝えたのだが、彼女はそう言うと頬を膨らませた。
「すぐるさんの方が、面白いことをいっぱい知っているじゃない」
彼女はいつもそう言って、教えを請う。ねえ、すぐるさん。なんでわたし達は、こんなにも辛いのに生きているの?
「俺達には、全て理解できない範疇のことなんだよ。理解できないということを、理解するべきなんだ」
「でも、それじゃあ困る。わたしは、今すぐに知りたいのに」
幼稚園児が脹れるような言い方に、この女の子が可愛らしいと思った。
知的好奇心があまりにも純粋で、なにもかも教えたくなった。あの子は聞き上手で、なにを話しても興味深そうにしていた。
あの日、春の花畑でどうしてか不機嫌そうな彼女の機嫌をとろうと、俺はらしくもなく頑張った。やっと食いついた話題は、あの子の大好きなファンタジーと神様の話だ。
「聖書は世界的不動のベストセラーだけど、中身は本当にただの隠喩と暗喩のくりかえしなんだ。そこがいいんだけれど」
「魚だったり、パンだったり、ワインだったり、食べ物になりたがるのよね?」
「あと、花も。シャロンの花も、そうだって言われているね」
あの子は女の子らしく、花が好きだった。それを聞いていたから連れて来たのだが、女性という生き物は分からない。
「シャロンの花は、楽園に咲く花のこと。聖書では、イエスのことを指すんだよ」
「神様?」と、彼女は幼く首を傾げた。
「厳密には、いろいろあるんだけどね。そんな感じ」
「花が神様なんて、素敵ね」と、彼女は嬉しそうにした。「どんな花なのかな」
「ユリだったりバラだったり、むくげだったり、ああ、あとチューリップ」
彼女は顔をしかめた。「チューリップは嫌ね」
周囲を見渡すと、赤、黄色、桃色、白、と色とりどりの花が植えてあった。白いチューリップの前に立って「子供っぽいし、幼稚園児みたい」と言った。
「俺からしたら、君はまだ子供だけれど」
そう言うと、彼女はいつも怒ったふりをした。たとえ計算ずくであっても、それもまた可愛らしいと思った。いつも早苗が馬鹿にする姑息な女こそが彼女で、そんな女を演じるいじらしさに、たまらなくなることがあった。
「でも、シャロンの花は白いチューリップだからね。可愛らしいより、美しいに近いだろう」
彼女は白い花が似合いそうな女性だった。そう思ってから、自らの気色悪さに気づいた。彼女を家族のように愛しているのか、それとも違うのか、分からなくなり始めていた。
「まあ、花なんてどうでもいいよ。大事なのは宗教は偶像でなりたっているってこと」
俺の話を彼女は聞いていなかった。「素敵ね」とため息を吐いて、頬に両手を当てた。
「失われた愛が楽園にあるなんて、ロマンチックじゃない」
身を起こしたときに感じたのは、悪夢じみた息苦しさだった。体のあちこちが痛み、言葉に出来ない気怠さが全身を襲っていた。立ち上がろうとしてソファから転がり落ちてしまった。
その音で扉が開いた。影がこちらに向かって手をのばす。昨晩のことがフィルム式の映画のように、脳裏をかけめぐった。
目の前でしゃがみこんでいる女の子は、綺麗な水色のニットワンピースを身にまとっていた。栗色に染めた前髪が、カーブして目元にかかっている。
ぱっちりした二重は人形のようで、少し大きめの口は閉じられていた。小首を傾げると、初めてアリの行列を見つけた小学生のように無垢に見えた。
愛おしいと思っていた気持ちが、凍りついていた。首筋に這う恐怖心が、彼女が期待していたような人間ではなかったと、鮮明に教えてくれていた。
だから、ためらいなく口にした。
呪詛は確実に彼女の元まで届き、指先は目と鼻の先で停止した。
玄関まで転がるように駆けていき、スニーカーに足を突っ込んで、扉を開いた。
雨の音がした。ああ、昨日も聞いた音だった。蒸気と赤いペディキュアが、脳みそに突き刺さる。彼女の指が首にからまった瞬間、抵抗しようと、首をつかんだ。彼女はためらいなく、全体重をかけて俺を湯船に沈めた。その後のことを思いだそうとすると、吐き気がこみ上げて来た。行為の重さよりも、信じていた彼女がそんな人間だったということへの動揺が激しかった。
クリスマスの夜は特別なのだと早苗は言った。だからみんなに一回きりの嘘をついて、今年は俺の家で祝おうと提案したのだ。それなのにどうして、早苗の所に行かなかったのだろう。密かに誕生日を祝うつもりだった彼女に背を向けて、電話越しで泣き出す女を迎えにいった。そうだ、昼間から飲んだくれてどうしようもなかったから、仕方がなく、迎えに行った。あなたが来ないなら、もういい、なんてわめきちらして。迷惑だと伝えろと、早苗は迫った。そう伝えれば良かったのだ。そう伝えなければならなかったのに、走っていくと、あの子は嬉しそうに笑っていたから、そんなことどうでもよくなった。
愛情が凍りついた瞬間に、恋をしていたのだと気づいた。だがもうそれも、雨が全てかき消していく。コンクリートに弾ける雨音は、むきだしの踵と爪先を濡らしていたが、それでも足を止めなかったのは、背中を見つめる彼女の視線を感じていたからだ。
すぐるさん、と呼ばれた。体が恐怖に縮こまって、足をもつれさせた。ずぶぬれの道路に転がったせいで、部屋の前で傘を差している彼女の姿を見つけてしまった。
片手を口の横に当てて、なにか言った。
「白いチューリップだって」
なにも知らない幼子が、山のこだまを自分の声だと思いこむ。
「シャロンの花は、白いチューリップ」
彼女は、俺が一番好きだった笑顔で手を振った。




